2011年12月27日火曜日

発見!上野千鶴子と橋下の酷似性

フェミニストの“教祖様”上野千鶴子の言説には、首をかしげるものが結構ある。この人は、女性対男性、または男性が女性の妨げになっているという発想以外ないのではないだろうか。その発想にとらわれているため、議論が粗雑で非論理的なものになっていることに気付いていない。

2012年12月17日の朝日紙上の上野のオピニオンには驚かされた。政治学者・宇野重規氏がホスト役のインタビュー記事だ。
宇野氏が橋下現象に対して「閉塞感と不安にかられ魅力的に見える人に全部放り投げる。その人の破壊的な言動に快感を覚える。橋下らが支持されるゆえん。」と、ごく一般的な分析をしたのに答えて、
上野は、
「追い風は吹き荒れるが、その方向は問いません。その意味で強いリーダーシップへの期待は思考停止や白紙委任につながりかねません。“ハシズム”の風には不吉な予感がします。」と言う。
「追い風は吹き荒れるが、その方向は問いません」とは論理不明な一文としかいいようがない。「追い風」とは橋下に吹くものだが、「方向性は問わない」とは彼を支持する人々を指している。つまり彼女は、大衆批判をしたいが、ストレートに言うのははばかられるので、橋下現象がいかにもワルいという印象を先に与えているにすぎない。「思考停止」や「白紙委任」をしているのは、橋下を支持する人々の方であり、それによって「不吉な予感の追い風」が吹いているのだから、はっきり大衆の側の責任を言うべきではないのか。
2012年12月17日 朝日新聞

上野は続ける。
郵政選挙で白紙委任状を与えたせいで、緩和につぐ規制緩和が行われ、格差が広がった。若者や女性は自分にしわ寄せがくる政策の推進者を支持した。最大のツケは原発事故。権力者任せでやってきた結果がこの惨状です。ここまで高い授業料を払った日本人が学ばないとすれば、どうすればいいのでしょう。」

 
この文章の論理の飛躍には、本当に驚かされる。前半は、これもまた小泉に投票した人々が白紙委任を彼に与えたと、大衆批判をして、そのツケが自らに降りかかったと言っている。


それはその通りだろうが、次の文章で原発事故について急に話が飛んでいる。
郵政選挙の結果と原発政策を同列に結び付ける乱暴な言説にまず驚かされる。原発事故については、なぜこんなことになったのか、もっと冷静で論理的な分析が必要なのは言うまでのない。郵政選挙のようにワンイシューで、総選挙を首相が行いその結果の政策が今の事態を招いたのではないだろう。本当に乱暴は論理のすり替えだ。

それぞれの事象には、それぞれの原因になる要素があり、様々な事情がからみあって結果を生んでいる。小学生でも理解することだ。上野の言説は、リテラシーのない大衆が「とかく役人は、・・・」とか、「政治家なんて・・・だ。」と十把ひと絡げでモノを言うのと同列だろう。

結局上野は、実は大衆にいら立っていながら、市民派としての自分の立ち位置を守るため、巧み(と本人が思っている)な言い回しで、無理やり論理展開しているにすぎない。これぞポピュリスト文化人の本領発揮であろう。

こうして「私は若者、女性の味方よ」と思わせる無理な論理展開をした上で、上野の批判の矛先は当然、男に向かう。
現在の改革議論は小手先の微調整ばかりで抜本的なビジョンがない。経済成長のもと、日本型雇用と近代家族のペアで支えられてきた社会システムはもう終わったんです。年齢、性別にかかわらず、働く意欲と能力のある人は一生働き続ける。ただし将来や人生を一つの場所に預ける働き方はしない。そうなるためには、日本型雇用に崩壊してもらわなければなりません。」と続く。

上野が考える「日本型雇用と近代家族のペア」とは何か、そのあとに出てくる。
すなわち「『社畜とDV妻』のカップル」だという。日本型雇用=社畜、近代家族とは=DV妻だと言うのだ。この言説に同意する人はいったいどれほどいるだろうか。あまりにもまれはケースを一般化している論理ではないか。「社畜」の正確な定義は何か私は知らないが、仮に「会社(中心)人間」であり、「DV妻」を100歩譲って「会社中心人間の夫に仕える孤独な妻」程度としても、あまりにも一面的であろう。

上野は、自分の考えに都合のよい事象のみを取り上げていかにも一般的な事象のように言い換える。これって学者の言説と言えるのだろうか。

粗雑な言い回しはここにもある。
「現在の改革議論は小手先の微調整ばかりで抜本的なビジョンがない。」
具体的にどういうことが小手先でどうすれば抜本的なんだろうか。この言葉を借りれば橋下が行おうとしている大阪都構想や教育条例の改正はまさに「抜本的」な改革を目指している。こういう方法がいいと言っているのかな。

 政権の見方をする訳でもなんでもないが、彼らは彼らの立場でなんとか折り合いのつく解決策、善後策を考えているだろう。一挙にものごとが解決する魔法の方法などないのだから。その魔法があると言いつのっているのが、ほかならぬ橋下や河村たかしなのではないか。

つぎ。
「経済成長のもと、日本型雇用と近代家族のペアで支えられてきた社会システムはもう終わったんです。年齢、性別にかかわらず、働く意欲と能力のある人は一生働き続ける。ただし将来や人生を一つの場所に預ける働き方はしない。そうなるためには、日本型雇用に崩壊してもらわなければなりません。」
この言説によって上野が何を言いたいのかよく分からない。正規雇用などというのは既得権益に他ならないから、「働く意欲と能力のある」人が「一つの場所に預ける働き方」でなくて、自由に?働く労働環境になればいいということなのだろうか。
 現在の日本の労働市場や環境は、決していいとは言えないだろう。しかし上野が言うような労働環境を望む人はそう多くはないのではないか。
「あまり意欲も能力もない」人は切り捨てられる、完全競争社会ということだから。これが上野の望む労働環境なのだろうか。

正規雇用を既得権として持っている人々が手放そうとしないから、旧モデルが延命しています。手放さない人たちの代表が連合のオヤジ労働者。政官財による共謀シナリオの労働ビックバンにも合意した。そのなかで、非正規雇用に追いやられ、最も大変な目にあっているのが若い女性たち。…家事手伝いという扱いで失業者扱いもされない。」
ここまで読んで、合点がいった。
上野は単にオヤジ批判をしたいがために、論理を飛躍させていたのだろう。

大衆に訴えかけるのに一番わかりやすいのは、敵をつくそれを叩いてみせること。小泉の郵政改革、名古屋の河村、そして大阪の橋下、内容に違いはあれどれも戦い方の構図は同じだ。そして上野の論理展開も同様である。
オヤジという若者、女性の「敵」を作り、それを批判することで、自らの考えを権威づけ支持を得ようとする点では酷似している。
こんな薄っぺらな言説を支持しる「若者」や「女性」て、それは橋下を支持する層とそう変わりばえしないのではないだろうか。それこそ宇野氏の指摘する「破壊的な言動に快感を覚える」人々に他ならない。
上野の手法は橋下と同じなのだ。単に自分のいらだちを「敵」に向けてそれで溜飲を下げているにすぎない。
私は女性の地位向上には賛成である。しかし上野千鶴子のような論理ともいえない論理で自説を押し出してくる「女性」には同意できない。
その言説を1面全部を使って無批判に展開する朝日新聞の見識を疑う。





「戦争が遺したもの」は、鶴見俊輔に、小熊英二と上野千鶴子がロングインタビューしている対談本である。
鶴見さんの言説は様々な本で同じようなことを言っている点もあり、何冊か読んでいるとちょっと退屈な面もある。
しかし小熊英二の鋭い質問や分析もあり、その点では面白い本だ。

この中で上野の言っていることにははちょっとピンとはずれなところもある。小熊は上野に批判的に言う部分も(確か)あるが、そこは大人。お仲間同士なのでうまく丸めている。

角川oneテーマ

内田樹さんの「フェミニズム批判」は、論理的でスジが通っている。この新書はフェミニズム初心者にも分かりやすい。この中で確か内田氏は、上野が論文の中で自分に都合のいい部分しか紹介しない、手法を紹介していた。(すぐ読める本ですので、ぜひどうぞ)


2011年12月22日木曜日

「サプライチェーン」。その先にいる最終消費者は“つながっている”

最近 経済用語で「サプライチェーン(supply chain)」という言葉をよく見聞きするようになった。「 供給の連鎖」。すなわち原材料の調達から生産・販売・物流を経て最終需要者に至る、製品・サービス提供のために行われる一連の流れのことを指す。

東日本大震災で東北地方の部品向上がストップすると自動車生産全体に影響したり、タイの洪水で現地の工場の停止が日本の工業製品全体に影響が出たりと、まさに生産過程が、国内だけでなく、海外の工場もふくめて「繋がっている」ことを改めて実感させられた。

普段の生活で、何かモノを購入する時、その生産はどこでどういう過程を経て製品として、いま買われようとしているのか思いを巡らすということはまれだろう。「世界の亀山モデル」と謳った液晶テレビや、フェアトレードと言ってNGOなどが売る開発途上国の製品。または産地や生産者限定で購入するコメや果物などは、多くの購入物の中では例外的存在である。

どこでどう作られようと、またそこがどんな人の手を経て手元に届くかということは、実は最終消費者にとってどうでもいいことでしかない。その製品の価格が購買者の価値基準の値段に収まっていて、機能やデザインが気に入っていれさえすればいいのである。


話しは飛ぶが、通勤電車の中で携帯ゲーム機に夢中になっている輩、スマートフォンをいじくりまわして時間を費やしている人。音漏れなぞおかまいなしの“音楽愛好家”たちに対して、他の乗客たちは、何も主張せず我慢している。なぜか。
“良識ある”新聞やテレビ局、雑誌が、「電車内では本を読め」と諭しているのをあまり見たことがない。ごく一部の“文化人”くらいだ。なぜか。
企業系シンクタンクのエコノミストが、「スマートフォンをいじくりまわしても教養は身に付かない」と主張することもない。なぜか。

考えてみれば当たり前のことだが、ゲーム機やスマートフォンや音楽プレーヤーの使用者(最終消費者)は、みなつながっているからなのだ。

真面目(そう)に日経を読んでいるサラリーマン、サラリーウーマンたち。、勤務先が電子部品会社であれば、ゲーム機のICチップを作っているかもしれない。あるいは家電メーカーの社員。あるいはそういう企業の広告を扱う代理店。みなチェーンでつながっているのだ。

だから迷惑な若者も、多くの「大人」たちにとって大切なお客様である、サプライチェーンの一番先端にいる人々なのであろう。文句の言いようがない。ただ「お買い上げいただきありがとうございます」と言うほかないのである。

エンドユーザーからサプライチェーンを逆方向にたどっていく要素が、実は通勤電車の中にあったのだ。出版産業は電子機器のサプライチェーンの前にはあまりにも小さな供給連鎖でしかない。
だんだん肩身が狭くなっていくのは必然である。

どこかの力ある出版社、あるいは出版社の連合体で電車の吊り広告を出してくれないかな。
「電子機器に夢中になっているあなた。本を読み、少しでも教養を深めなさい」と。

2011年12月8日木曜日

「市民ランナー」川内優輝への日本陸連の冷たいまなざし

asahi.comより引用

12月4日の福岡国際マラソンを終えて、五輪選手の選考を行う日本陸連の幹部が会見を行った。一言でいえば、「戸惑い」と、「川内への冷たさ」でしかなかった。

判官びいきでなくとも、市民ランナーとして自分で何でもやって日本人選手の最高位になった川内選手には、おそらく多くの人が賛美をおくったのではないだろうか。

実況中継のアナウンサーも、盛んに「埼玉県職員、市民ランナー」を連呼し、強調していた。
反対に、解説の瀬古利彦は川内にちょっと冷ややかな印象を受けた。


瀬古は日本陸連の理事。母校早大陸上部(駅伝)の監督や所属のSB食品の監督だ。しかし瀬  古自身が企業のお抱え選手として「万全の態勢」で臨んだロス五輪では惨敗した。
(瀬古についてはウィキペディアを参照されたい
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%80%AC%E5%8F%A4%E5%88%A9%E5%BD%A6 )
  高校時代から将来を嘱望された存在であり、長距離のいわばアリーと教育を受けてきた。ソウ   
  ル五輪では彼のために選考レースが加わったなどと揶揄された。しかし東京都の教育委員を
  勤めるなどちゃくちゃくと肩書きにハクを着け、日本陸連の王道を歩んでいる。


川内は五輪代表選考レースである東京マラソンにも出る意向を示した。しかし代表選考レースで
1位(日本人として)の選手が別の選考レースに出るのは異例のことらしい。次で負ければ元も子もなくなる、福岡の記録が台無しになるということらしい。
 今後の選考レースを静かに見守っていれば、かなりの確率で代表に選ばれるだろうに、自分が納得しないから、東京マラソンに出るという心意気は買いたい。

ネットから見られるニュースからは陸連幹部が川内本人と話し合い、東京マラソンに出ることを「容認」したと伝えている。(中日スポーツ、スポニチ等)。

どちらも陸連幹部の発言の引用部分は同じで「好きなようにやったらいい」 と言われたそうである。中日もスポニチもどちらもこれを好意的に取り上げ、「陸連もお墨付き」という表現まで使っている。NHKはweb newsを見ると、陸連が「代表選考レースとしては非常に厳しい内容だった」と述べていると伝え、陸連がこのレース結果では代表にするかどうかわからないと予防線を張っている。


一連の報道や、5日夜のNHKスポーツニュースでの陸連会部の会見の模様の表情からは、陸連の冷たさが伝わってくる。ホント。
「好きなように・・・」という突き放した言い方、記録的には厳しい(これは本当だが)からは「容易には川内を代表にはしないぞ」という意思が伺える。 


日本陸連は、なぜこれほど川内に冷たいのか。
それは、彼が日本陸上競技連盟という「ムラ社会」の外にいる人間だからだ。

陸連は自分たちの仲間内の有望選手を五輪に送ってメダルを取らせることしかアタマにない。


高校駅伝の有望選手は、大学も駅伝有望校に進み、そこで実績をあげて実業団陸上部。ほとんどプロ選手として生活保証を受けて専属のコーチの下、科学的トレーニングとり理想の食事、そして高地トレーニングの環境も授けられる。のだと思う。瀬古自身もほぼそういうコースの人間だ。
陸連を頂点とするムラ社会を形成し、そのことで存在感を示していく。ムラにはボスがいて、全体を統率する。ここの掟から外れては将来日本陸上界の出世の階段は望めないのだろう。
瀬古はその王道を行っているのだろう。

こうしたムラ社会(それは「世間」とも言う)の中から有望選手が五輪で金メダルを取ることだけが、関係者の願いだ。外様の選手が代表になるだけでも、陸連が面目がつぶれるのに、もしメダルでも取ろうものなら、税金もつぎ込まれている陸連運営にも影響する。
陸連にとって川内選手のように自らの力で登りつめてきた人間は、要するに目障りなのだ。おカネもかけて大切に育ててきた選手を五輪に送り込みたいという“魂胆”がありありだった。

なんとも分かりやすい人々だ。陸連の面々は。
この人たちの人間的ないやらしさは、私は容認できない。

大きな背景には、日本の大衆が、「五輪で金メダル」をいつもスポーツ選手の至上命題として強いていることがあろう。「メダルの期待」というプレッシャーは、選手だけでなく、いやむしろ関係者の方が重荷なのかもしれない。
「国威発揚」というきな臭い言葉が、こと五輪スポーツには感じずにはおれない。

川内さん、陸連のムラ社会に負けるな。あまり見るスポーツは好きでない私だが、彼のことは応援する。埼玉県は彼を休職させるか、異動させてもう少しトレーニングができる環境に置いてあげればよい。国体開催権ではジプシー選手を県の外郭団体(スポーツ振興財団など)に雇って、総合優勝の点数稼ぎに使っているではないか。それにくれべれば、納税者の批判は少ないと思う。


そしてもうひとつ、メディアへの苦言。
スポーツ新聞は、陸連寄りの記事しか書かないのか。おそらくネタ元に睨まれると商売にさし障るからだろう。中日スポーツ、スポニチの記事にはがっかりした。(本誌を読んでいないので、詳細はわからないが。)

また、川内を市民ランナーとして持ち上げるのなら、企業選手と川内がどれほどトレーニング環境が違うかといった具体的な記事を読みたかった。
大会翌日の主催新聞社・朝日の記事を仔細に読んだが、そうした記事は見当たらなかった。
「25㌔で遅れたが、気力で挽回した」というステロタイプな、単純で中身のないスポ根解説を読まされただけだ。取材不足ですよ、朝日さん。主催者なのに。

市民ランナー川内の記録はもっと伸びる(はずだ)

ヒトの肥満度を表す指標として、身長と体重の関係から算出される「ボディマス指数」というのがある。通称BMIと言われ、多くの人が健康診断などで計算したことがあるだろう。、身長と体重の関係から算出される、22が標準とされている。BMIは、
\mathrm{BMI}=\frac{w}{t^2}
で表される。「t」は、メートルで表した身長、「w」は体重(㎏)


12月4日の福岡国際マラソンは、来年の五輪代表選考も兼ねていることから、(一部の人には)注目されていた。私も少し「走る」身なので、少なからず気になって、見てしまった。
下記の表は、公式サイトに載っていた招待選手の体格に、計算式を入れてBMIとまた標準とされる体重との差を計算したものである。
放送では紹介する選手の体格を表示していたが書きとめなかったので、優勝した「一般参加」のジョセファト・ダビリ選手やジェームス・ムワンギ選手までは分からない。


選手名順位年齢身長体重BMI標準体重
川内 優輝3241746421.1 66.6 2.6
入船  敏11351765919.0 68.1 9.1
佐藤 智之40301675118.3 61.4 10.4
前田 和浩6301675620.1 61.4 5.4
今井 正人4271695519.3 62.8 7.8
瀬戸口 賢一郎12301664917.8 60.6 11.6
高田 千春
16301755919.3 67.4 8.4
        
ドミトロ・バラノフスキー7321735819.4 65.8 7.8
ドミトリー・サフロノフ5301907019.4 79.4 9.4
アレクセイ・ソコロフ10321746019.8 66.6 6.6
リドゥアヌ・ハルーフィ9301755417.6 67.4 13.4
フランク・デアルメイダ18281694917.2 62.8 13.8
マーティン・デント8321806921.3 71.3 2.3
アンドルー・レモンチェロ31291886618.7 77.8 11.8
アリステア・クラッグ-311806419.8 71.3 7.3


こうしてみると、日本人のマラソン選手は意外にみな体格が大きくないことに気付く。
優勝した川内選手は、大きい方かもしれない。

BMIは、ほとんどの選手が20を切っている。もちろん標準とされる体重よりも軽く、中には10㎏以上も軽い選手がいる。
その中で川内と、6位の前田、8位に入ったマーティン・デントは少し違う。BMIは20以上であり、川内とデントは標準体重との差も2㎏ちょっとしか違わない。

自分が走るようになって感じることだが、体重が2キロ違うと、走る時の負担がものすごく違う。軽い方が走りやすいのは、ふつうに考えても確かなことだ。

これに従えば、川内は体格に比して、他の選手より重い体重を引っ張って走ったということになる。それでも日本人の中で1位になれた。どうしてか。

筋力が勝っていた。心肺機能が上回っていた。エネルギー消費が効率的でロスが少なかった等々、様々考えられるだろう。

時事通信(yahoo news より引用)


素人考えだが、川内が、筋力その他の条件が同じで、身体を絞り込んで体重を軽くし、他の選手と同じくらいのBMIにすると、もっと記録が伸びるのではないか、と想像する。

他の多くの選手はほとんどマラソンに専念していて、専属のコーチの下、食事、体調管理、トレーニングを科学的行っていることだろう。だからマラソンに適した体を作っている。

しかし川内はすべて自分で単独に行っているらしい。週40時間労働を行いながらのトレーニングは大変だ。彼が専門的なトレーニングを行うことができれば、おそらく記録はもっと伸びる。



もちろんBMIはひとつの指標にすぎず、体脂肪率などは斟酌されないから、これだけで断定はできまい。体脂肪率で見ればすでに川内選手は他の選手並みなのかもしれないし、そうでないかもしれない。それは分からない。

アテネ五輪優勝の野口みずきは体脂肪率4%だと聞いた。これから推察するとマラソン選手は体脂肪率が低い方がよさそうだ。

ちなみにわが肉体は、4位に入った今井選手とほぼ同じ、169㎝、54.5kg、従ってBMIは1.91
で、体脂肪も10%を切るか切らないか位である。
しかし時速10㌔で12,3㎞を走るのがやっと。なぜこれほどまでに違うんだろうか。
当たり前と言えば当たり前だが、もしかすると練習次第では、3時間台で走れるようになるということか?

まあその「希望」だけは捨てずに走りたい。




2011年12月7日水曜日

いま国会で議論すべきことは何なのか

週明け月曜日(12月5日)のNHK国会中継を、仕事をしながら横目で見ていて気分が悪くなった。自民党の稲田朋美氏が延々と山岡大臣の献金疑惑について追及していた。この日の衆院予算委員会は「政治とカネ」の集中審議だったと翌日の新聞で知ったが、こんな時期に丸1日を費やして行うべき「審議」なのだろうか。

 審議内容はおそらく与野党の国会対策委員の話し合いによって決まるのだろう。民主党のイメージダウンにしかい関心がない自民党は「政治とカネ」の審議を要求し、民主党もガス抜きと思って応じたといったところか。

 この問題が大切でないとは言わない。が、予算委員会で“いま”やらなければならない問題なのだろうか。消費税の在り方や方法論など、本来ならば最大限時間を割かなければならない問題はあるはずだ。

 翌日の新聞各紙とNHKを見た。中継は行ったがNHKはニュースでは取り上げていなかった(と思う)。新聞は読売が「国会審議詳報」として全体を1面の3分の2近くを使い紙面にしていた。これは日中の国会中継を見られない層には有用な記事だと思う。朝日、毎日、東京、日経は無視。稲田氏の応援団、サンケイは下の方に500字程度で「追及」を伝えていた。ただし評価はなし。

メディアもわかっている。これから来年度予算審議をしなければならない時期に議論すべきこととは思っていないことを。それでも国会の場は丸1日費やされた。そこには資源としての国会議員や政府の人が使われていることは、忘れがちだ。

 この国会中継を見ていて、ずっと目をつぶって深く考え事をしている民主党の岡田氏の表情が印象的だった。能力的にはこの人が日本のリーダーになるべきだと、私は思っているのだが……。

メディアのインタープリンターとしての役割

すでに、一山超えた感のあるTPP参加是非の論争。これははたして「論争」と言えるものだったのだろうか。12月7日現在、「対立構造」としてのTPPの報道は、皆無と言っていいかもしれない。

 朝日新聞が、細々と朝刊経済面で「おしえて!TPP」の連載で、各論の解説記事を載せているくらいしか目につかない。あの劇場型の二項対立の興奮が去って、ようやくメディアも本来の役割をはたそうとしているかに見える。


日本科学未来館(お台場)
  メディアの本来の役割とは何か。もちろん権力の監視、警鐘といった“お約束”の役割は大切だが、もうひとつの役割は、権威・権力と大衆とのインタープリンター(interpreter)としての役目だろう。

 もともとは、自然と人との仲介、通訳・解説者という意味。転じて難しい科学知識を一般の人に分かりやすく解説するのが「インタープリンター」の役割だ。わたしはこの言葉を、かつて、子どもと訪れた日本科学未来館(東京・お台場) http://www.miraikan.jst.go.jp/
で知った。

  ゲノムやニュート・リノなど、言葉は知っているが説明せよと言われるときちんと言語化できない科学用語はたくさんある。それらを一般のわれわれに分からせてくれるのが役目である。
 私が「ニュートリノ」が「ニュー・トリノ」でなく「ニュート・リノ」であることを学んだのも未来館の展示解説だった。

 そのインタープリンターとしてのメディアの役割が、劣化していると思わずにはいられない。一連の原発報道だけでなく、様々な科学的事象や“事件”について正確で分かりやすい情報は、これだけ複雑化する世の中においては不可欠だ。

 TPPを始め、消費税増税議論、復興予算の使い道など、分かりずらいことを「説明」するのがマスメディアの役割なのではないか。しかしメディアの主張は、政府・権力者に「もっと説明を」と求める
ことの方が目に付く。人は全能ではない。首相や政府の人間でも同様だ。だからこそ集合知を生かした説明をメディアが担う必要がある。新聞社にはそれだけの人材がいるはずだ。
 
 「説明責任」はメディアに方にこそあると、心得るべきではないか。そのために毎月4,000円近くの購読料という情報量を支払っているのだから。なにもテレビ欄を見るためにお金を出しているのではない。

 ※この件に関しては、「もうダマされないための『科学』講義」(光文社新書)の第3章、松永和紀氏の文章に詳しい。また別項で紹介したい。

2011年11月30日水曜日

“代償”としての、再びの「ぎっくり腰」

再び、「ぎっくり腰」をやった。今度はじわっと来た。場所は前回(およそ1年前)と腰の反対側である。しかし今回は冷静に対処した。
 
◆経緯
 土曜日の朝、床に広げた新聞をしゃがんで見ている時に、ウッという感じで痛みを感じた。なんだかやばい気がしたが、そっと立ち上がるとそれほどでもなかったので、気を付けながら、この日も習慣にしている水泳に朝8時15分に出かけた。そして午前中2,000m泳いだ。
 悪化し始めたのは午後になってから、昼食を取るころには痛みが次第に大きくなり、昼寝をしたあと夕方には、パンツもはけない状態になった。これもいわゆる「ぎっくり腰」だろう。
 
 しかし今回は冷静に対応できた。
痛みは、座った状態から立ち上がる時、寝た姿勢から起き上がる時に感じる。ずっと立っているのは案外平気だ。なぜなのかは分からないが。
また前回購入したザムストのコルセットもあった。コルセットはそれ自体で症状を改善させるものではないが、痛みがある時、「腰砕け」を起こさないようにできる効果はある。
(もうひとつ意外な効果として、腹が締め付けられるため、つけ始めは便通が良くなる。次第になれてくるとその効果もなくなるが…)
◆対処法
以下はまったくの素人診断とその対処法である。
 椎間板ヘルニアではないと、これまでの経験から自己判断(去年整形外科にかかった時ヘルニハとは言われなかった)していることから、これはインナーマッスルの炎症だろうと断定。炎症が収まれば治ると考えていた。

 もちろん痛みはある。前述したように、パンツを履くのも苦労する。家の中、外を問わずトレッキング用ストックをついて歩く。痛みの走った翌日日曜日はまあ家で安静にすごし、月曜日はストックを2本ついて出勤。翌日、翌々日はストックを1本で出勤した。
 
 1週間もすると腰かけた姿勢から立ち上がる時と朝寝床から起きる時を除いて、ほとんど痛みを感じないので、ちょうと1週間後の土曜日には水泳を再開、日曜日には軽くジョギングも行った。(7㌔程)。 そういう行動をとった根拠は、何冊か読んだ腰痛の書籍に負うところが大きい。


◆書籍から学んだこと
 様々な腰痛の書籍を読む中で、共通していることがある。

▽整体などの施術は一時的な痛みの緩和などには効果があっても、「治療」には至らない。
▽ある程度筋肉を動かす方が、回復は早い。
その訳は、ヘルニア以外の腰痛は、ほとんどが「インナーマッスルの炎症」だからで、いわゆる「つる=こむら返り」だからだと言う。

この2冊は、地元の図書館で借りて読んで参考になった書籍である。基本的にこの2冊の「教え」に従った。
椎間板ヘルニアなど、治療が必要なものは別として、普通の腰痛は安易に整形外科や整体師に頼ることなく、自分で「なんとかする」ことが大切であろう。



翻訳本でちょっとうさん臭い面もあるが、
ななめ読みでつまみ食い



慈恵医大の脳神経外科医・谷諭教授による著書
納得の1冊である。



◆腰痛に対する(素人の)結論

  経験則で言うと、2回の「ぎっくり腰」は、いずれも運動が効果を出して体重が落ちている時に起こったように思う。体重が落ちる時は脂肪が燃焼するだけでなく筋肉にも何らかの影響を与えているのではないか。だから、前回のぎっくり腰の後は、筋トレを心掛けて週に1回を目標に、足腰を鍛えてきた。しかし素人の筋トレではいわゆるインナーマッスルまできちんと鍛えられていなかったのだろう。
 体も急激な変化には弱い。体脂肪も本当にゆっくりゆっくり落としていった方がいい。

 体脂肪率、ひとケタを維持するのは、このトシになると結構たいへんだ。目標にしてからかれこれ2年かかっただろうか。体重が落ちる時は一直線ではない。運動を同じように続けていても足踏み状態が続き、ある時押し始める。一定程度落ちるとまた足踏みが続く。この繰り返しだ。

 体脂肪減少の「代償」としての一時的な「ぎっくり腰」。これは「つりやすい筋肉」の持ち主なら致し方ないのかもしれない。
 腰痛のある方、ご参考にどうぞ。


2011年11月18日金曜日

TPPは「国論を二分」するほどの問題なのだろうか

「刺激」と「共感」。この2つが、大衆がメディアに求めている要素だ。

 テレビのニュース番組や新聞に限らず、(というか雑誌の方がより顕著だが)、センセーショナルな見出しと記事の扱い、そして・視聴者・読者に寄り添っていることを装う内容が、顧客を獲得し、視聴率や部数を伸ばす最も“安易”かつ“安上がり”な方法である。
 
 環太平洋パートナーシップ協定(通称TPP)に関する報道もまた、メディアにとっては結果としてその「刺激」と「共感」を生む道具でしかなかった。「結果として」というのは、伝え手は、その時その時でおそらくささやかな正義感と使命感に支配されながら善意で伝えていただろうから。それが「合成の誤謬」として結果としてどうなるかまでは計算していないから「結果として」なのである。悪意であればそれを攻めたてることは容易だが、善意にはそれがしにくい。特に日本人は。
  
 TPP報道を通じてメディアは、そのマッチポンプとしての機能を顕著に表していた。

 TPPは、国論を二分していたのか?.
10月の世論調査では「協議への参加反対」は10%だった。そして11月の世論調査では20%。賛成は36%。(そもそも電話によるRDD方式という世論調査自体に問題があるが、それは別項で考察することに。)

 この間何か状況が変わったというのだろうか。何も変わっていない。ただ反対派の活動が次第にエスカレートし、それが連日メディアで取り上げられることによって、更に反対派の活動は活性化する。このサイクルがメディアとしう触媒によってなされただけだ。実際、世論調査ではどの社のものでも、「わからない」「どちらとも言えない」が一番多かった。これはこれでまともな見解だろう。
 
 伝え手の未熟さと勉強不足は、主に2つの「主張」に回収されていた。ひとつは「政府は国民に説明を」という説明責任論であり、もうひとつは「TPPによって困る(と主張する)人々を繰り返し、取り上げる」分かりやすい、つまり安易で思慮のない報道である。 

 世の中の人がよくわかっていないTPPの内容やメリット、デメリットについて、「政府の説明不足」という、いくつかの「ニュース・ショー」で聞いたフレーズはそらぞらしく、メディアの当事者意識のなさを吐露していた。
 一般の人々がわからいことに「共感」して、自分たちも「わからない」と言いつのっているだけでなないか。いったいどんな内容ををどんな方法によって国民に「説明」するべきなのかは、まったく語っていない。自分たちも「よく分からないこと」を「政府は説明せよ」と愚痴を言っているようにしか見えない。勢い、分かりやすい、取材しやすい、書きやすい、「刺激的」な方向にベクトルは向く。

 反対運動そのものを取り上げること。困っている農業現場をとりあげる。これを刺激的かつ、読者・視聴者が共感できるように味付けして報道することが、王道となるのだ。

 また新聞のよくやる手は、賛成・反対の2人の論者の意見を「対論」として載せる記事である。これが有効である場合もあろうが、TPPに関して言うと、ハナから意見のかみ合わない、別の材料でお互い論じている識者の考えを並べても、なにも生み出していないということだった。

 一方は日本農業を擁護し、衰退を心配する。もう一方は、中小零細の、いわゆる町工場の生き残りや大企業の海外移転加速を懸念する。どちらも総論としては「正しい」ものを並べても、まったく無駄とは言わないが、あまり建設的ではない。

 まともなメディアならば、農業擁護論者にこそ、工業製品の貿易立国として生きて生きた日本の企業はどうなるのかと聞くべきだし、TPP推進論者には、農業はどうするのか聞くことが、本来の役割なのではないか。それが聞けないところに大手メディアの脆弱さがあり、そのことにうすうす気が付き始めた善良な人々が離反し始めているように思う。

 直面する課題を「深化」させる工夫をすることなく、「国論を二分している大問題」として、刺激に大上段でぶちあげて、それぞれの主張を“そのまま”載せる、あるいは映像化することのむなしさを感じないわけにはいかない。

 
 余談になるが一番滑稽だったのは、頑なに「反対」を唱え続けた民主党の 山田正彦元農林水産相と原口一博前総務相だ。
 反対運動中の山田氏のあの苦悩に満ちた顔は、農業を心配する苦悩ではなく、振り上げた拳を下ろすことができなくなって困った苦悩だったのだろう。
 野田首相が「協議への参加」という言い方で参加表明した後、「参加と言わなくてよかった」とホッと胸をなでおろしたのは、拳のもって行き先があってよかったという安堵にしか見えなかったのは私だけだろうか。

 いまどうしてるんですがね、山田さん。

この表情は何を物語るんだろうか


2011年11月14日月曜日

「国益を最優先に・・・・」という言葉のいやらしさ

  TPPを巡る首相や政府・与党、また野党の中にも「国益を考えて」とは「国益を最優先に」とか言っている。「国益」という言葉にはひっかかる。自分の国さえよければよいという本音が見え隠れしてはいまいか。

 「世界はグローバル化している。もっと広い視野で考えるべきだ」などと木で鼻をくくった言い方をするつもりはない。ただ今や「国」単位で物事を考える時代ではないのではないか。
 今度のTPP参加騒動のような利害に直結した話しになると、決まって偏狭な思いが頭をもたげてくるこの国のメンタリティーを問題にしているだけだ。これは何も日本人だけではないだろうが。

 家族→ムラ(コミュニティー)→世間(生活圏の人間関係)→小社会(都市機能を含んだエリア・都道府県)→日本→東アジア→環太平洋→世界→地球・・・・

 このようなカテゴリー分けが適切かどうかわからないが、こう書きだしてみると改めて見えてくるものがある。われわれはこの世にあって、家族を大事にしている(していない人もいるが)が、家族だけでは生きていけないから、より大きな枠組みに身を置いていきる。

 単純に言えば、人は農村では教育機会も職業も限られるので都会に出るし、産業は生産現場や市場をより広いエリアに求めていくのは、自明の流れだ。
 東京都内の農地や農業を守るため、埼玉県の農産物に高い関税(のようなもの)をかけるべきだという人はいないだろう。人が地域だけで生きられるよう、すべての市町村に農地から都市機能まですべてを備えるべきだという人もいまい。
 国内問題と国際関係はまったく違うというかもしれない。確かに一律には比べられないが、構図は同じである。そして何をどう守るのか、考える基礎になるのではないか。
 
 議論は、どちらが「国益に叶うか」に終始していた。これから「開発・発展」する国々も含めて、ともに繁栄できる生き方を探っていこうという前向きな発想は、今回のTPPの論争において、推進派にも慎重・反対派にも感じられなかった。日頃、アジア、全世界の人々と手を携えてとか言っている社民党なんかもTPPに関して「国を守れ」と言っているのは、ほとんどパロディに近い。

 もちろんアメリカ合州国を始め、各国はそれぞれ「国益」優先の思惑で動いているのは承知の上だ。だからこそ、それを乗り越える「大きな物語」を提示してほしかったな、野田さんには。
もしかしたらこの人は、そういう思いを持っていたのかもしれないが、様々な立場の人に配慮して「国益」と言わざるを得なかったのかもしれないが。

 全中(全国農協中央会)の会長がドスの利いた声で反対を叫ぶ姿は、悪いけど、この人の視野の狭さと、むき出しの利己主義的思想しか見えてこなかった。この人は国を守ると言っているが、実は、黄昏ている農協を守ることしかアタマにないのだろう。その応援団の議員たちのパフォーマンスも滑稽なものだった。

 11月06日の日経新聞「今を読み解く・TPP問題と日本の農業」で、経済金融部次長が署名記事で「毎日の食を担っている農業が滅びていいなどと思っている人はいない。けれどもその代弁者としての団体が拳を振り上げ叫ぶ姿には違和感を覚える。政治家の署名を集めて公表し、考え直せ迫るような手法に至っては、弱者の側を装う脅しのようだ。」と書いていた。そして「市場を開くか閉ざすか、保護か競争。生かすか殺すかといったいびつに単純化した論点になっている」「1999年のウルグアイ・ラウンド合意。11兆円、66兆円ものお金を投じて効果はあったのか。その検証も曖昧。」と指摘していた。まったく同感である。

単純な議論と権益団体の利益擁護運動、それに惑わされ、動かされる「大衆」という図式は古典的でさえある。なぜこの国では、こうした議論が深化しないのだろうか。

信用できない理由~「言説」を変えるには説明が必要だ~

前回の追記。
朝日新聞は、2011年11月13日の社説「政治を鍛える」で、「ひとたび総選挙で民意が示されれば、基本的には4年の任期を全うする慣行の確立が求められる」と論じた。またしてもあれれ・・である。 常日頃から、重要な政策決定には解散して民意を問えと訴えていた社説とは180度違うではないか。またこの社説では「衆院『尊重』の慣行を」とも言う。これもぶれた。民主党が初めて参院で第一党になった時、参院に示された民意をくみ取れと注文していたのではないか。

 この変節はどうしてなのか。あまりにも混乱し、足を引っ張りあう政治(業界では政局と言うらしい)の在り方に、さすがにまずいと思い始めたからだろう。おそらく。 それはそれで判断としては妥当だ。しかし社説を変えるのなら、読者、それも長年購読している定期購読者に対して、説明が必要なのではなかい。なぜ説を変えたのか。変えた理由はなにか。変えるに至った社内の議論はどうだったのか、検証すべきだ。

だって新聞は日頃言っているではないか、政府に対して、「もっと国民に説明を」と。その言葉をそのまま返したい。さもなくばますます読者は減っていきますよ。ご都合主義では。

 と、まあ新聞だけを責めてもちょっと酷かもしれない。

 自民党総裁・谷垣禎一氏は自民党の政治家としては結構まともで頭脳も明晰な人だと思っていた。彼はかつて日本の政治について、日本の政治には「解散」があり、そのためどうしても「政局」というものができてしまい、政治運営が行き詰まることがあると、日本の政治制度を嘆いていた。まっとうな認識である。

 しかし今彼は、自身が総理大臣になるには自分の総裁任期中に解散総選挙して勝利する以外に道はないと悟ると、これまでの言説や彼の本質的思考とは関係なく、常に与党の粗探ししと批判、そして解散総選挙を叫ぶことに終始するようになった。これは看過できない。

政治家を信用できないという大衆的一般世論(そんなものはメディアが作りだした幻想かもしれないが)とは別の次元で、「政治家としての、人を信用できない」という思いだ。

「人の醜さ」とは何かといえば、それはこうしたご都合主義にほかならないが、そうせざるを得ない「大衆社会」そのものが問題なのではないかと、オルデカなら言うだろう。

2011年11月12日土曜日

ランナーズハイ

NHK出版刊
 
すこしずつ走るようになって、走ることの「意味」をいろいろな角度から考えるようになった。いまのところ一番影響を受けたのは、このブログにも以前少し書いた、村上春樹さん「走ることについて語るとき、ぼくの語ること」だ。
このことについては、別項で考えたい。

キワモノ本をひとつ紹介。 「脳を鍛えるには運動しかない」。
なんて分かりやすい、しかし安易なタイトルなんだろう。原題がどういうタイトルなにか、すでに図書館に返してしまったのでわからないが。



要するに、多くの人が感じる運動して爽快感を味わうと、他のことにも好影響を与えるということを、最新の“科学的知見”でいろいろ言ってる書籍だ。
これが科学的なのかどうかはわからない。が、運動している身には、なるほどねと、妙に納得する記述が多々あるのも確かだ。きっと、自分が日頃運動して感じていることを“科学的に”補強してくれているからなのだろう。自分に同意を求める「無意識」に心地よく働きかけてくれている。

この本の中で「ランナーズハイ」について触れられている。確か、これは「走ることに」にしかない気分の高揚で、他のスポーツではないと書かれていた。

しかし経験から言うと、そうでもない。泳ぐこと登ることにおいても同じような身体的気分になることを経験することがある。最近ようやくコンスタントに2,000mを泳げるようになったが、1,200mを越したころから、なんとなく脱力してすこしラクに泳げる。スピードは落ちるが、持続性は出てくるのだ。

登山でも同様だ。単調なだらだら道を歩いていると飽きてくる。しかし足が妙に軽くなる時がある。走ることについて、私のようなビギナーでも5,6㌔mあたりまでは苦しいが、それをすぎると
これもスピードは出ないが時間は稼げるようになる。いずれにも共通しているのは、割と単調な動きを反復している時だ。

誤解を恐れずに言えば、それは苦しみの後にやってきたエクスタシーだとも言える。

コンスタントに運動をするようになって身体的に変わったこと。まず睡眠がラクだ。床に就くと5分もたたずに寝られる。運動しなかった日はそうはいかないし、夜中に目が覚める。肩こりがなくなった。食事がおいしい。お酒はごく少量でOK。これらと運動に「因果関係」があるかどうかはわからないが、そう感じることは確かだ。本を読む量はあまり変わらないかな・・・。

2011年11月10日木曜日

「新聞社説」の憂鬱

ユーロ危機にあってギリシャ救済に関する国際公約を国民投票にかけるという(結局はなくなったが)首相の判断を、購読しているある新聞は社説で「危険なかけ」と断じていた。
そのこと自体は常識的な主張だろう。何しろ世界中がギリシャ首相の判断に驚いたのだから。

 しかし、あれれ…である。この新聞は日頃、国内政策に関して、重要な事案は解散して信を問えとか、国民投票、住民投票による「直接民主主義」を唱えていたんでないの。これでは日頃の主張とはなんなのかと思ってしまう。こういうのを都合主義と言うのだろう。

 「ギリシャも国民投票を行い、その結果ユーロ各国の支援がされず国が破たんしても、それは国民が選択したことだ」と主張するのなら、日頃の社説との整合性はある。このへんに新聞の「苦悩」を見てしまった気がした。 

 かつて高度成長のころ、日本という社会には希望があり、確かに物質的に次第に豊かになっていった時代だった。もちろん、水俣病のような深刻な公害被害や薬禍、交通戦争、大きな事件、事故もあり、被害に遭われた当事者には、重大で忌まわしい時代であったと思うが、総体として、多くの人々には、少なくとも今よりも豊かになっていくことを実感できた時代だったろう。オイルショックやインフレもあったが、国や地方自治体は増える税収の使い道を考えていればよかったし、労働組合も賃上げを叫んでいればすんだ。

 そういう時代にあって新聞もまた、世の中の不幸を嘆き、政治や行政、そして大企業などの「権力」批判をしていれば読者は満足し部数も伸びていったのだろう。それが新聞の生きる道として。
 佐藤栄作が首相退任会見で新聞を締め出したのは、(そのこと自体は大人気なく稚拙な行動だが)、背景に、長年の新聞の権力に対する「態度」に対しての不満が爆発したものだ。

 しかし新聞はじめマスメディアが権力を批判をしていればいいという時代は終わった。これだけ複雑化し、月並みな言い方をすれば価値観が多様化し、ひと言では言い表せないからみあった利害関係があり、地球をみれば多民族が70億人住む事態に、簡単な答えはない。

 社説も当然方向性が定まらない。ぶれる。それを多様な事態に対応した言説と見るか、ご都合主義と見るかは読者によるだろうが、わたしは何かしっくりこない。社説が首尾一貫していないからけしからんと言っているのではない。世の中の迷走と同じようにメディアの主張も迷走していることを感じているだけだ。

 なぜ社説を問題にするか。その辺のエセ知識人やタレント学者の言説と違い、クウォリティーペーパーの社説を書く人間は間違いなく知識人であり、それも様々な分野の専門知識人の“熟議”を経ての言説だろうからだ。それが定まらないということは、苦悩であろう。

 確かなのは「社説」が“多様化”すればするほど、新聞はクウォリティーペーパーとしての地位を失っていくということだ。大衆紙と変わらなくなっていく。

 そのことに、新聞自身が気づいている。

 このところの社説は権力批判をする返す刀で「大衆」への啓蒙的説教もよく見るようになってきた。その典型が、この項に「引用」した朝日11月7日の社説である。 
2011年11月7日朝日社説を“引用”



ポピュリズムという言葉は、新聞やテレビは注意深く避ける。見てくれる、購読してくれる人を批判することは、自殺行為だからだ。しかしホンネはそこにある。
「世論調査政治」「テレポリティックス」の責任はマスコミ自身にある。いまさら「熟議」とか「輿論」の喚起とか言い出しても、もう大衆は元に戻れないかもしれない。
 東日本大震災の一連の報道は、「昔の悪いクセ」が出て行政の責任、説明不足、対応の遅れを批判するオンパレードだった。
 確かにご指摘の面は否定しようもなく、実際政治や行政の対応にもどかしさを感じていた人が大多数だったことも確かだろう。が、あれだけの大惨事の中で、放射能問題にしろ復興にしろ、もう少し冷静な伝え方はなかったのだろうかとも思う。

 「要求」しているだけでは希望も豊かさも逃げていってしまうことが自明の世の中になって、新聞の「わが社の主張」は、苦悩している。

検察証拠ねつ造事件など、新聞がはたいている役割は依然大きいことには変わらない。だからこそご都合主義から脱皮した、もう少し質をあげた「主張」を展開してほしいし、そういう社説を読みたい。



財務省は悪ものなのか

経済政策は、どうしてこうも両極端の意見が対立するものなのか。
いわゆる「大きな政府」「小さな政府」論のような大きな“物語”でなく、マクロ政策においてである。

 ある学者は国債の発行をやめて財政再建しないと国が破たんすると言うが、正反対に景気対策にはじゃぶじゃぶ公共事業を行う必要があり、日本の中でお金が回っているので借金の心配はいらないという言う学者もいる。

 デフレは悪だという言説に対して、デフレは悪くないという著名学者もいる。成長がなければ経済はへこむという意見と、もう成長は見込めないのだから定常型社会を目指すべきだという人もいる。ゼロ金利はいけないという人ともっと量的緩和をしろという意見もある。

 こんなにも違う意見が乱立する経済、おそらく世間の人々(大衆)は本当に理解しているのだろうか。月例になった新聞やメディアの「世論」調査(「輿論」ではないところが悲しい)で、政府に望むことというと、必ず「景気対策」という項目がある。なんと無意味な質問なことだろう。
景気対策をどう行うかが問題なのに、「景気対策」という答えしか用意していない調査なんて一般大衆をバカにしているか、さもなくばこういう設問をするメディア各社が愚かなのかどちらかだろうが。

 ともかく、経済政策におそらく「正しい道」なんてない。あるのは何を選択するかという「決断」だけだろう。しかしその決断はしばしば大衆迎合的、もっと端的に言えば人気取りの政策が決断されてきた。故人を責めてもしかたないが、小渕は「世界一の借金王」とうそぶいて国債をがばがば発行した。それが景気にどれだけの効果があったのかは、ほとんど検証されていないのではないか。(検証した論文があれば教えてほしい。是非読みたい。)

 政策がどうしても大衆迎合的になるのはどの政党でも同じかもしれないが、国の天文学的な国債発行残高をどうするかは、真剣に考えられていない。政治の尻ぬぐいは「あとは官僚におまかせ」といったとこだろう。

  財務省は政治家が人気維持のために「決断」した国債発行を、この国を今後も維持するためになんとかしようと必死になっている、と思う。その表意が細川内閣の「国民福祉税」構想などの仕掛だったのではないか。

 私はなにも財務省の応援団でもシンパでもない。が、冷静に見ると総体として財務省(旧大蔵省)は、少なくともバブル崩壊以後は必至になっていると。残念なのはそういう役所にあって、一部の愚かな高級官僚が不祥事をおこしたことだろう。

 権力(のようなもの)を攻めたてていれば気の済む大衆と、そうした大衆を読者とする雑誌などのイエロージャナリズムが、ここぞとばかりに財務省をスケープゴートにして、面白がった。財務省陰陰謀説などという言葉も、不祥事以後よく聞くようになった。

 で、消費税10%問題である。われわれの子・孫にも日本が持続していくためには、最低限必要な税だろう。だれだって増税は困るが避けることができない道だ。

 それでも財務省を陰謀の悪人に仕立てて喜んでいるこの国の人々は、10%の道をふさぐのだろうな。悲しい。

2011年10月26日水曜日

科学的合理性よりも「情」や「空気」が支配する国

国民性というものがあるとしたら、それは民族・人種に根差すというより、その土地の風土や宗教性が長い歴史の中で培われてきたものだろう。また、そうした歴史の文脈の中で出来上がった政治、社会、教育などの制度が、いわゆる「国民性」を作り上げている、のだと思う。
 西日本と東日本、関東と関西と言った二項対立や、九州人は……、東北人は……といった言地域性を規定する言い方や、もっと狭い範囲で、端的に「県民性」ということも巷間では言われる。更に東京の中でも、山の手の人と下町育ちなどと言って、その人を規定することがある。それらが本当に存在するのかどうかはわからないし、冷静に考えれば、軽々しく決めつけるのもいかがなものかとも思う。しかしわれわれは他と比べるという行為を通じて自己の存在を確認し、また他者を批判する。もっと言えば軽蔑、差別の手段として〇〇性は使われる。
この基本認識を前提とした上で、日本人というものを最近の出来事から考えてみたい。

 国民性を表す有名な小噺。
タイタニック号沈没の時、少ないボートには女性と子どもが優先され、残った男たちを冬の海に飛び込ませるために乗組員が言った言葉。
●イギリス人には「あなたはジェントルマンだ」
●アメリカ人には「これであなたはヒーローになれます」
●ドイツ人には「これがルールなのです」
●日本人には「ほかの皆さんもそうなさってます」

 なぜか納得してしまうウマい小噺だ。やはり日本人には「みんなそうしている」ことが、何よりも大切なんだろう。
 換言すれば、それは合理性よりも「情」が優先されるということだ。様々な知識人が指摘してる言葉を借りれば、そういう「空気」が支配しているということか。(「空気」については別項でまとめてみたい)

 BSE(牛海綿状脳症)はこの10年、検査体制が整ってからわずか1頭しか見つかっていない。
世界でも92年の3万7,000頭をピークに去年は45頭だという。(2011.10.25 朝日社説から)
プリオンは普通は生後3年以上たたないと検査で見つからない。欧米諸国では検査対象を6年以上としている。しかし日本では、20か月以下の若い牛も含めて全頭検査が続けられている。
そのことにほとんど科学的意味がないにもかかわらずだ。理由は簡単だ。消費者の安心・安全を考えて、ということだろう。
厚生労働省はようやく全頭検査の態勢の見直しを言い始めた。しかし政治家のだれも、これまでその無駄(もちろん検査には税金が使われている)を指摘して中止しろとは言わない。

 放射能による子どもの甲状腺への影響調査は3年程経過してからでないと意味がない(朝日新聞)のに、「心配する親の声を受けて、行政はすぐ実施することにした。」そうだ。
このことに対して、無駄はやめろと声をあげたら、ほぼ間違いなく「子どもの命が大切ではないのか」とヒステリックに叫ぶ人が出てくるだろう。
放射能汚染の問題で言えば、運動場や道の除染について「心配ないレベルだが、地域の人の不安の声を受けて念のため」という行政の施策がしばしば伝えられている。
 もちろんその背景には、放射能汚染に対する政府・行政側の一連対応のまずさからくる不信感が背景にあるのは否めないが、それにしても、こうした事態が余計に住民の不安を増幅して合理的でない施策が行われる。
 放射能汚染の可能性が少しでもあれば、大騒ぎしなければならないという「空気」が、いまこの国を支配しているのだろう。

「安全学」の村上陽一郎さん(現・東洋英和女学院大学長)が中央公論9月号で、定期点検中の原発の再稼働について、しごくまっとうな指摘をしていた。
「福島第一原発の事故があったからといって、定期検査で停止中に何か根本的な変化が起こったわけではない。だとすれば、むしろ再稼働を拒否することの方が非合理ではないでしょうか。」
文書を読めばわかるが、村上氏は決して原発推進論者ではない。「安全」を考える上で科学的判断ということの重要性を説いているのだ。

 脱原発、反原発の方々が「いますぐすべての原発を止めろ」と言うのなら、論理は明快であり説得性はある。が、いま稼働している原発は容認しておいて、定期検査で停止している原発の再稼働は許さないというのは、どう考えても論理的に矛盾している。新聞を読んでいると「地元住民感情を考慮すると」という文書が出てくる。科学的に安全かどうかということより「感情」が判断の基準らしい。とても原発再稼働を言い出せる「空気」ではないということなのだろう。

 そう、日本は空気が支配する社会なのだ。それが個人のグループのレベルで行われている行為であり、自分には直接関係しなければ放っておこう。しかし「空気」が合理性を拒み、税金を無駄に使い、われわれの実生活にも影響を及ぼすとなると話は別だ。

「情」に訴える人たちは、「自分や子どもの健康や安全を訴えることがなぜ悪い」とおっしゃるかもしれない。しかし限りある資源(税金)をもっと有効に子どもの健康や安心・安全のために使用した方がいいのではないだろうか。合理性を追求することは、安心・安全を疎かにすることではない。

「世間」の「空気」が支配する日本について、鴻上尚史氏が鋭い洞察力で書いている。
納得の1冊だ。後日紹介したいし、多くの人に読んでもらいたい書籍のひとつだ。

その前に「空気」については山本七平の著書が「古典」だろう。鴻上さんの著書の中にももちろん出てくる。

2011年10月20日木曜日

ひとまね子ザルで行こう

 普段利用している東京都内の公共体育施設。更衣室からプールに行く所にあるトイレは、サンダル履きになっている。5,6足のサンダルが置いてあるが、これがいつもひどい「脱ぎっぷり」だ。逆さまに脱いでいくだけでなく、素足で履くためひっかかるのか、裏返ったまま投げ出されていたりして、次に使用する者にとっては不快極まりない。(小学校の道徳の時間の先生のような物言いだが)どうして、ちょっと振り返って揃えられないのだろうかといつも思っていた。

 泳ぎながら子ざるの童話を思い出した。
確かこういう話しだ。帽子を奪って返してくれない数匹の子ザルたちをどんなに追いかけても、すばしっこくて捕まえられない。困っていると、子ザルたちが自分のしぐさの真似ばかりしているのに気づいた。そこで、自分の帽子をとってカバンに入れると、子ザルたちもそれに倣って帽子をカバンに入れた。(この童話は有名な「ひとまねこざる」とは違うものだったかもしれない。確認はしていない。)

 そこで、泳ぐ前後にトイレに行く度に、散らばったサンダルをそろえるようにしたのだ。ちょっとしゃがんで数足のサンダルをそろえる。それはわずか10秒程の行為でしかない。しかし(この性格の悪い私が)それをやり始めた。私の行動を見て、たいていの人はちょっと後ろを向いてそろえて脱ぐ。人の行動というのは面白いものだ。(もちろんそうでない無神経男も多いのは確かだが・・・)

 以前このブログで記した、落書きやハイスクールの壊れた窓もおそらく同様の行動なのだろう。そのままにしておくとますます落書きは増え、学校の窓は壊される。「なおしておくこと」以外に、新たな破壊活動防ぐ方法はない。

 オルデカの言説を借りれば、大衆は世の中の流れと同じように行動をとる。常に周囲を見て同じようにふるまう。かつてのルーズソックスばかりのアホな女子高生。テレビ番組の「あるある大辞典」のインチキ情報で、納豆を買い占めた主婦。罪深い例としては、かつて大阪で、青森からトラックでリンゴを売りに行ったら、誰かが失敬するのを見た群衆がみな群がりすべて盗まれてしまったという“事件”があった。こうした事例には事欠かない。大衆心理を逆手にとって導く(イヤな言葉ですが)ことを試みたのである。

 さて、トイレのスリッパ。今のところ目立った変化はない。もちろん毎日通っている訳ではないし、何千人もの来場者のうちのひとりの行動など、何もならないことはわかっている。しかし散乱したスリッパを見るたびに、不愉快を感じ、腹が立っていた自分の気持ちが、この行動によって鎮まった。もう少しつづけて、これが無意識にできるようになれば、自分自身も変われるのかなと思うことがる。
 情けは人のためならず。

 





○前に倣う。スリッパ 落書き、
○電車内、優先席での携帯

2011年10月18日火曜日

男も女も股を閉じろ

 10代の時、バイク免許(400cc中型限定)を教習所に取りにいっていたとき、まず教官に言われたのは、股を閉じるということだった。「白バイを見れば、皆しっかり燃料タンクをしっかり締めているだろ。だけど暴走族は股をだらっと開いている」、と。

 安定した「正しい」走行をするためには股に力を込めて燃料タンクをぎゅっと挟み込むことだと、この時刷り込まれた。そして実際その通りだ。
 20年近く前、ケアンズで休暇を楽しんだ時、乗馬をした。これが結構ハードというが初心者に大胆不敵というか、いきなり馬を与えられて結構なスピードであちこち走った。教えられたのは馬の名前だけだった。あとは見よう見まねでやれということらしい。しかし楽しかった。この時も馬をコントロールするにはしっかり股に力を込めることが肝要だということが体験的に分かった。

白バイの乗り方は文句なくカッコイイ


※左の写真の若干の補足
 バイクに乗る人ならば、たいていは経験したことがあるだろう。カーブでマシンを傾け時、シロウトだと少々恐怖を感じる。
この時、きちっと膝を閉めて操縦するのは、それなりに経験が必要だ。




 股を閉じるのは、物理的安定性だけでなく身体に緊張感を持たせることでもあると思う。

スカート姿の女性が少なくなったためなのだろうが、通勤電車内で、膝をくっつけて座っている人は滅多に見かけなくなった。私はキライだ。きちっと股を閉じろ。それが車内のマナーだというだけでなく、その方が美しい。

JRが開発した、「膝を開かせないというシート」

 これは男尊女卑の思想で言っているのではない。

男も同様だ。長い足なのはわかる。が、それは車内で誇示するものではない。お互いに迷惑にならないように座るのがマナーだ。車内で股を閉じられないのは、その人たちにとって車内が「社会」ではないからだろう。彼らにとって空間は常に「自分のもの」という意識しかないのだろうか。
公共の場では常に「緊張しろ」と言いたい。

 ついでにひと言。
最近通勤電車では、あの「スマートフォン」をいじくり回して、周囲の迷惑をかえりみない輩がまた増えた。女性専用列車なんかいらないから、読書専用列車をつくってほしい。電車内は静かに本を読むとことだ。断然そうでなければならない。
電子機器を使う人は貨車を連結してそれに乗ってもらえばよい。

2011年10月8日土曜日

ぎっくり腰から学んだこと(自分が崩れ落ちてゆくということ③)

「ぎっくり腰」からはや10か月近く、完全に不安が払しょくされた訳ではなく、泳いでいても走っていても疲れてくると、何となく軽い痛みに似た感覚が湧き上がってくることがある。しかしそれがかえって自分自身に注意を促している面もあり、微妙なバランスの中でエクササイズを続けているという感じだ。

 それにしても、カイロプラティック、整体師と言われる人々(の多く)がいい加減ななのではないかという「疑念」は、今もって続いている。

 1時間弱で7000円を支払った「施術」とは何だったのか。しかも時間の半分は温湿布のようにバスタオルで腰を温めただけだ。支払いに際しては領収書もなかった。住宅地のマンションで営業している、この整体院は、おそらくいとも簡単に「売上げ」をj除外し、申告するだろう。所得税も消費税も免れているのではないかという強い疑念がふつふつと湧き上がってくる。サラリーマンとしては看過できないな。(ちょっと話が本筋から逸れた。)

 websiteの整体師の広告を見ると、「歩けなかった人が1回の施術で歩けるようになった」とか、3回通って「完治」したとか、様々載っている。もしその広告が悪意なきものであれば、確かにそうなのだろうと思う。しかしそれほど“専門的”にしなくてもちょっとインナーマッスルを刺激・マッサージをすれば治るということではないか。 逆に言えば、骨や椎間板にまで支障があれば、整体師でも治らないだろう。

  結局かれらの行っているのはリハビリの手助けだ。もちろん、それはそれで重要でありその手助けに報酬を得ることを否定はしない。年配者などで、硬くなった関節を動かせるようになったり、歩きやすくなったりする人がいるのは喜ばしいし、実際そういうことで重宝がられている「先生」もいる。こういう人はたいてい良心的で価格もリーゾナブルだ。
 
 しかし「ぎっくり腰が一発で治った」などという宣伝をする診療所は値段も高い。(実際高いと思った)ある種の詐欺的行為といったら言い過ぎだろうか。

 もともと身体にまつわる様々なことは、症状に個体差があり、そのひとの感じ方にも差があるので、あいまいなところは宿命である。そこに付け込んで「治療」が行われるのだからやはり施術の内容も値段もあいまいになりやすい。どこまでなら「治った」「改善した」と感じられるのかは難しい。
 
 ひとつ分かったのは、身体に施術を行うという行為は「暗示にかける」行為だということだった。それが整体師に意識化されているかどうかは別にして、患者を信じさせるために会話があり、もっともらしい施術があるのだ。初めての体験で私も魔術にうすうす感じながらも、あえてはまることにした。そうしなければ7,000円もかける意味がないもの。

 

2011年9月12日月曜日

小さなほころびを紡ぎなおすことの意味

ほぼ毎日曜日にランニングをする多摩川の河川敷は、特定の場所で、真冬を除いてバーベキューが行われている。だいたいは大学生と思しき男女のサークルだったりするが、なかには幼い子どもをつれた家族連れのグループなどもいる。都会で手軽に野外でバーベキューを楽しめるところはそうないので、それはそれで結構だ。まだ日が高いのに悪酔いした若者の表情を見るのは気持ち悪いが、そのくらいは「我慢の限度」内の話だし。

橋のたものと一角に、ビニール袋に入れられたゴミの山があった。その数20以上が行儀よく並べられていた。もちろんそこはゴミ捨て場ではない。河川敷には管理者の自治体が「ゴミは持ち帰りましょう」と看板を立てている所もある。なのにである。どうしてゴミは集積されているのか。

ほぼ間違いない想像として、誰かが最初にそこに残置した。そして後に続くものが、おそらく「ああ、ここに置いておけばいいのね」と勝手に自分たちに都合よく解釈して、自らのゴミを並べた。それがどんどん続いていったのだろう。きっと彼らには悪いことをしたという意識は希薄だ。
いや、いけないと思っていても「誰かに倣った」ことで免罪し、そしてそのあとのことを考えないようにしているのだろう。

 実際、翌週、別の場所だったが、地元の人と思われるご婦人たちがうんざりしたカオで「行儀のよいゴミ袋」を片付けていた。

 かつて、NYのハイスクールで、「割れた窓をそのままにするな」という取り組みがあり成果を上げたことを新聞で読んだ。荒れる学校現場で、壊れたものをそのままにしておくと、更に追い打ちがかけられる。これは落書きにも顕著に表れる。落書きされた現場をそのままにしておくと、どんどん落書きが増えていく。だから落書きをさせないためには、落書きを根気よく消していく以外によい方法がないという。
多摩川(川崎市側)2011.10.23
こうしたゴミは河原のいたる所にある


 「だれか」がやってくれること。と思うメンタリティーは、意外なほど罪深いと思う。このブログの最初の方に記したが、湯浅誠さんが言っていたことを再び思い出す。「見ようとしないものは見えない」と。それは考えたくないことは考えないようにしていると同義だろう。誰かに倣ってゴミを放置し、そのあとのことは考えないようにする。

 消費税を上げるのは、おそらくほとんどの人にとって抵抗があるだろう。何も小選挙区で争っていて、大衆にすり寄ることしか頭にない代議士だけではない。しかしどう考えても、このままではこの国の財政は立ちいかなくなるのはあきらかだ。しかし大衆は、それを考えたくない。目を背けたい。だから議論自体がなかなか進まない。

 原子力発電所には、万全の安全網が必要だった。しかし最悪の事態は考えたくない。優秀な技術者たちも、だからそれだけは考えないないようにした。結果、この事態になってしまった。

 河川敷にゴミを残置していくことなど、世の中の大きな流れからするとたいしたことではないかもしれない。そんなことをぐだごだ書いたってだれも興味を持たないし、読むだけ時間の無駄と思うだろう。しかし、それは、この国の様々な欠陥とつながっているのではないか、と思わずにはいられない。

 NYのハイスクールの窓と同じだ。小さな「ほころび」を治めることができない国には、おおきなほころびは絶対に治められない。

2011年9月8日木曜日

何かに打ち込む姿は美しい。でも…

 平日昼下がりの、あるスポーツクラブ。
準ターミナル駅近くで、また住宅地も近いという立地のためか、ここのクラブは、「お年寄り」と表現するのはいささか失礼であろうが、でも明らかにリタイアした「初老」の男性と、年配のご婦人(有閑マダムなんて言葉がかつてあった)の方々の天国だ。たま~に、そういう時間帯に行くと、いろいろ面白い発見がある。
 一種、サロンと化しているし、また彼ら、彼女らが自分自身と闘っている場でもある。

 病院の待合室がサロン化しているとよく揶揄されるが、スポーツクラブのサロンは言わずもがな健康的であり、病院のそれとは違い、いいことだと思う。

鉄アレイ(イメージ)

ロッカーでは知り合いらしい初老のふたりが孫の話しに花を咲かせていた。その姿はちょっと、将来の自分を見るようで背筋が寒くなったが、まあそれはそれでよい。

ストレッチを行うマット上では、年配夫人が、半年前の3.11東日本大震災時、このスポーツクラブのサウナにちょうど入っていた時の話しをしていた。どのくらい揺れを感じ、(はだかで)どうしたらいいのか慌てたとか、これまで幾度となく話したであろう「十八番」を披露していて。たわいもない会話が続いている。
一方、マシンやダンベルのところでは、「懸命」に汗を流している人々がいる。
「そんなに頑張らなくてもいいのに」と声をかけたくなるくらい、一つのことに打ち込んでる初老の男女の姿は、珍しくない。

この日、5キロ程のアレイをそれぞれ両手に持ち、休みながらも何セットも続けている初老の男性がいた。(だいたい1セット10回~12回持ち上げるのがふつうである。)。その形相は、明らかに「さわやかに汗を流す」領域を超え、自虐的にすら見えた。その脇ではこれまた初老の女性が、専用のベンチで延々と腹筋を続けていた。インストラクターが声をかけると、大きな声で「休みながら120回したのよ」と“主張”していた。
 こうした「頑張るお年寄り」とはどういう心持ちなのだろうか。見ていると、単に健康維持のためのトレーニングといった趣を超えた何かがある。
誰しも自分が「頑張れる」人間だということを確かめたい。エクササイズは、ある意味でそれを最も単純に可視化された状態で、自分にも周囲の人間にも確かめられる行為なのだろう。
「まだまだへこたれない」「年齢に負けたくない」といった気持ちを、文字通り、身をもって表現しているように、私には見えた。
 年をとるというのはそういうことなのか。やがて自分も、そう遠くない将来その“サロン”の仲間入りするのだろうか。

 もちろん、体力を維持した健康体で齢を重ねたい。でもそんなに「頑張ってる」姿をさらけ出すことには、ちょっと躊躇もある。何かに打ち込んでいる姿は、美しい。でも、行き過ぎはどうかな。