2010年11月22日月曜日

泳ぐことについて語る時僕の語ること①


 2000m泳ぐ。クロールで約55分。いまコンスタントに10分で400m泳いでいる。昨夜は久しぶりの午前様だったが、いつものように東京体育館9時の開館から水に入った。
外気温が次第に下がってくると、体が冷えているせいか水に入る瞬間がつらくなる。思い切って足からざぶんと入り、一回頭を水につけてすぐに泳ぎだす。皮膚は冷たい水に接して毛穴が縮こまっていく。体はまだ固い。辛抱だ。200mほど我慢すれば次第に体は温まってきて、いつものように回り始める。こうしていつもの土曜日が始まった。

そうまでして泳いでいるが、思えば泳ぐことをそんな楽しいと思ったことは、これまでない。もちろん泳いだ後の心地よい爽快感や達成感は味わうが、泳ぎながら楽しいという気分にはならない。そこがスキーやパラグライダーと違うところだ。

NHKの番組「プロフェッショナル仕事の流儀」で水泳選手北島康介を取り上げた回を見た。(11月8日放送)。南カリフォルニア大学の競泳チームの一員として週6日練習を続ける北島は言う。「毎日2時間近くもプールの底を見続けるのはけっこうつらい」と。またコーチは、「水泳くらい退屈なスポーツはない。だから飽きさせないようにデズニーランドを目指す」つまり練習に様々な変化を取り入れて目先を変えてトレーニングする、と。

 これまで水泳を続けてきて、あまり楽しいとは思ったことがなかったにも関わらず、「退屈なスポーツ」という認識を持ったことはなかった。それは「退屈だ」と思わなかったからではない。きっと退屈で単調なことに気付いていた。しかしそれを意識してはいなかった。水泳とはそんなもんだといつも自分に言い聞かせてきたからだろうか。

確かに退屈だ。プールの底を見続け、同じ運動--それも長くラクに泳ぐなら、なるべく同じ単純な運動にした方がよろしい--を繰り返すことが、「正しく泳ぐ」ことだ。そういうものだと思って、「自分の体にイイコトしてる」という思いだけが支えになって泳いできた。改めて、北島やコーチの「退屈なスポーツ」という認識を聞き、そのことに気付かされた。まるで、これまであまり美味しくないものを食べてきたが、それはそれで「こういうものだ」と思っていたら、ある日同じものを食した人に、「これまずいよね」と指摘され、これまでの自分を否定されたような、ちょっと気まずく恥ずかしい気になるのと同じかもしれない。

ではなぜ泳ぐのか。泳ぐことが好きかと問われれば、「少し…」としか答えようがない。泳ぐことが目的ではなく、それによって体力をつけることが目的だからだ、と自分に言い聞かせてきたからだ。

しかし単調な動きとプールの底を見続ける単調さの中で、いいこともある。それは「考える」ということだ。何往復目を泳いでいるか忘れない程度を頭に入れておけば、あとは頭を使える。なにしろ視覚的にはプールの底という情報は入ってこないのだから。じっくり考えられる。その日、あるいは前日の自分を振り返り、できたことできなかったことを整理し明日に備える。普段無意識に考えることを避けていたこと――悩みや思い--を文字通り水につけて「頭を冷やして」考える。水泳はこれには絶好の機会でもある。 具体的に何を考えているか。それは言えない。

もっとも、1コースを専用にマイペースで泳いでいるのではなく、公共施設のプールなので、何人かが続けて泳いでいて、その「駆け引き」というか「譲り合い」など気を使ったり、超スローペースで泳ぎながらインターバルを取らず他の人に迷惑な身勝手君にイライラさせられたりと、冷静ではいられないことも多いのが現実ではあるが、それでもアタマには考える余裕が多く残っている。

最近始めたジョギングはそういう訳にはいかない、と思う。街中を走るときは、車に気をつけたり歩行者とぶつからないようにしたり、さまざまな家並みが目に飛び込んできて、こんな家に住んでいる人もいるんだな、この家の持ち主はどんな人かな、すごい車が停まってる、などなど目と耳から入ってくる情報を処理したり惑わされたりする。考えていることがしばしば中断させられ、「あれ、いまどこまで考えていたんだっけ」なんて、「考え」なければならない。

誤解のないように言っておくと、水泳は決して単純な運動ではない。本当に泳ぎを究めようとする人にとっては単調な動きなどありえないし、北島もこれまで悩み、試しながら、如何に効率よく抵抗の少ない「型」を作っていくかに腐心ていると言っていた。自分も、効率のよい手のかき、伸びの姿勢をちょっとだけ考えながら泳いではいる。


 泳いでいて、くたびれてくると顎があがる。目線はプールの底か、少し下(後方)を見るのが「正しい泳ぎ方」だと、水泳教室に通っていた息子に教えられ、なるべくそれを心掛けている。しかし息があがってくると、気が付くと前を見ている。顎が上がったためだ。走っていても登山でも息が苦しくなってくると顎が上がるのは共通のだ。

最近でこそあまり意識しなくても顎が上がらなくなったが、それまでは気が付くと前を見ていた。いかんいかんとまた下を向くがいつのまにかまた前を見てしまう。その繰り返しが数か月続いてやっと自然に下を見ていられるようになってきた。それだけ体力もついて息があがらなくなったということでもあるのだが。
 泳ぐことについて語ると、まだまだ尽きない。以下次回。

2010年11月5日金曜日

見ようとしないものは見えない by湯浅誠さん


湯浅誠さんは、一昨年の年越し派遣村で一般にも広く知られるようになり、いまは内閣府の参与も務めながら貧困問題と取り組んでいる人だ。自分より年下で、心から尊敬できる人はそういない。しかし彼のことは心から尊敬する。4月、彼の出身高校で講演があるというので出かけた。

「岩盤を穿つ」(文芸春秋2010)を読んだ直後だった。著書には出てこない話しが面白かった。

そのエッセンス。浪人して頑張って東大の法学部に入った彼は、合格を見たとき、「ああ自分は頑張ったんだな。よく努力した。」と思ったという。当然であろうだれでもそう思うことだ。しかしその後、ホームレス支援などを通じて経験を積み、「いまから思うと、それは条件が良かったからだ」ということに気が付いたという。

彼は父親が日経新聞記者、母親が教師という“恵まれた”家庭で「静かに勉強できるひとりの部屋を与えられ、受験勉強を行うにはいい環境であった。誰しも自分の“成功”を自分の努力(だけ)と思い込む。置かれた環境や条件がよかったことを顧みることはない。つまりそういう「条件」を普通は顧みることはないということだ。

置かれたを条件を斟酌しないで、成功も失敗も「自己責任」という言葉で片付けていく世間の風潮に、湯浅さんは静かに抵抗を表明していた。

ホームレスになる人は、最初から条件が不利だった人が多い、という。雇用情勢がこれだけ悪化して昨今は冷静な見方も支配的になってはきたが、多くの人はホームレスを見て、「努力をしなかった人」「お酒やギャンブルに負けた人」つまりあまり同情する必要のない人として見てきたのではないだろうか。それは一面健全な考え方でもあると思う。しかしそれだけではないし、それだけとしか見ないことは何の解決にもならないことに私自身やっと気づき始めた。

「見ようとしないものは見えない。」

湯浅さんが東大の駒場のキャンパスに通い、渋谷で遊んいる時は、渋谷にいる多くのホームレスに気が付かなかった。それはなぜか、見ようとしなかったからだと。ホームレス支援のボランティアを始めて初めて、こんなにも多くのホームレスがいるのかと、彼らの存在を見る(認識する)ことができたという。

見たくない現実は見ないようにする。考えたくない困難は考えないようにする。ヒトの無意識はそういうふうに働く。学生時代、勉強していても苦手な科目はつい後回しになり、結局ちゃんとやらず、ますます不得意になる経験は数限りなくしてきた。今でもそうだ。気の進まない業務に関するメールは、見なければいけないと分かっていても、ついつい後回しになり業務が滞る。そこにヒトの弱さあるのだろう。
将棋の棋士で佐藤康光九段(永世棋聖)がいる。かつては竜王位や名人位にも就いた羽生世代のトッププロのひとりだ。彼はタイトル戦でも必ず相手の得意戦法にあえて乗ってくる。凡人の考えなら、まず自分が得意な戦法で戦うことを考えるだろう。しかし彼は違う。相手の得意戦法で戦いそれを破らなければ本当に相手を打ち負かすことにはならずタイトルは獲得できないと考えているのだろう。乗り越えるべきものが何か、きっと分かっているのだ。穏やかな風貌の中のどこにそんな闘志があるのか、棋士を見ていていつも思うが、それがトップを走る者の考えなのだろう。
湯浅さんの話しからトップ棋士の戦いのスタイルを考えてひとつ気が付いたことがある。
強くなるということは、自分の弱さに向き合うことなのだと。このトシになって気が付いた。見たくないものを見ようとしない自分の弱さが分かった時、初めて向き合える。向き合うことで考え、困難を突破しようという勇気も出てくるのだ。湯浅さんはそんなことを様々なエピソードを交えて教えてくれた。

2010年10月23日土曜日

東急電鉄という体質①


東急電鉄という会社は輸送力の増強や他線との接続、駅周辺開発などの設備投資にはとても熱心な鉄道会社だ。会社のサイトによると、バリアフリー化(エレベータ、エスカレータ、点字時刻表、点字ブロック等)を順次すすめ、除細動器(AED)の全駅設置は完了したそうだ。

大規模改良工事は着々と進められ、“輸送力増強”と“利便性の向上”に努めているそうだ。田園都市線の複々線化、大井町線の溝口までの延伸は完了し、東横線の特急、急行の10両編成化による輸送力アップとそれに伴うホームの延伸工事も進めている。渋谷-代官山間の地下化と副都心線との乗り入れも進め、また相鉄線との相互直通運転も2019年開業予定という。

通勤に使用したことがないので確かなことは言えないが、田園都市線の通勤ラッシュの混雑は尋常ではないらしい。“鉄道博士”、原武史さん(明治学院大学教授・政治思想史)の著書によると、混雑によって遅れが生じても東急はやがて駅でのアナウンスをやめてしまうらしい。(著書がどれだったか思い出せず記憶で書いている)。

東急電鉄にとって輸送力の増強は喫緊の課題なのであろう。合わせて直通運転による「利便性の向上」も欠かせない課題なように見える。しかし輸送力を上げるのと直通運転、また沿線の開発は一体となった企業の「成長戦略」そのもののように見える。

輸送力を増強する設備投資をしても、今より乗客数が伸びなければ設備投資資金を回収できない。そのため、他路線との直通運転によって乗客数の増加を図ることが必要になる。
かつて私鉄は沿線に遊園地や商業施設を作り都心から乗客を運び、その後は郊外に住宅地を作って都心に通う乗客を増やすことで成長してきた(原武史)。しかし人口そのものがさほど伸びない中で、こうした旧来型の「成長戦略」の期待値は低い。そこで他の線から乗客を奪う直通運転が必要となる。

ということは輸送力を増強しても同時に乗客数の増加を図っているのだから、混雑は解消されないということになるのではないか。「混雑解消のため」に「輸送力増強」を図り「お客様の利便性向上」に努めているというロジックは実は「会社のため」だったのである。

いち私企業が成長を目指すのは当然のことであり、東急の戦略に別に異を唱えるわけではない。が、それが鉄道輸送という地域独占で公的性格を帯びた企業としてもう少し正直な「物言い」はできないのだろうか。あまりにもあざとい感じがする。

冒頭のバリアフリー化や除細動器の設置は、ある面法律で義務付けられた施策だろう。それをいかいにも「お客様のため」と言うところがいやらしい。(一段と意地悪く解釈すると、バリアフリー化も、高齢化の中でお年寄りにももっと鉄道を利用させようという戦略と見ることができる。バスには老人パスがあるが電車にはないから。) …以下②へ

2010年10月16日土曜日

24年ぶりに登った鳥海山


遠くから見ると、なだらかな裾野がそのまま日本海に直接そそいでいるように見える。それが秋田と山形の県境に位置する鳥海山の特徴だ。表紙写真は、山形県側の登山ルートのひとつ、湯の台口から登り、胸突き八丁のあざみ坂を詰めたところから見た庄内平野と日本海。久しぶりに味わう、こころ洗われる眺めである。
 左は、河原宿小屋から見上げた、通称大雪渓と小雪渓。8月下旬となり、今年の猛暑の影響もあってか雪渓は小さかった。用意した軽アイゼンは結局使わずじまいだった。
 ほとんど山の素人だった24年前、大平ルートを案内してもらいながら登った山は、大げさに言えばその後の生き方に少なからず影響を与えた。およそ4半世紀、あれから人生の3分の1か4分の1をこの間過ごしてきた。50代になって再びこの山に登れたことは、これからを考える上で、自分にとっては重要な儀式になったかもしれない。

2010年10月15日金曜日

「マディソン郡の橋」から学んだ「語る」ということについて


小説「マディソン郡の橋」を読んだのは、話題になり映画化され、日本でも公開されるとう時だったと思う。ウィキペディアで調べると、小説の発表は1992年、映画化は1995年9月となっている。最初にこの映画をいつ見たかは思い出せない。
今年の夏前、NHKの衛星放送でクリント・イーストウッド特集の中で放送していた。
「平凡な主婦とカメラマンの大人の恋」(衛星放送での辺見エミリのひと言解説)ということらしいが、そんな薄っぺらな視点で「マディソン郡の橋」を読んだり鑑賞したりした人はいないだろう 。
小説の内容はもう忘れてしまったが、映画は原作をほぼ忠実に再現していたように記憶している。

「“もうひとつ別の自分”を発見する」あるいは、「違う人生があったのではないかと思いを抱く」というのは見つけやすいテーマである。少なくとも15年前にこの小説を読んだ時に抱いた思いはそんなものだった。誰しも、自らの現在の生き方に大きな不満がある訳ではないが、何か漠然とした「違うものへの渇望」は持つのではないか。「マディソン郡の橋」はそのな人の性(さが)を、イタリアからアメリカに憧れて嫁いできたフランチェスカの心情の中に見事に具現化していた。

10数年ぶりに改めてこの映画を観て、もうひとつ違うテーマを“発見”した。それは「語る」ということである。映画で、フランチェスカはキンケイドに自分の思いを語る。夫はやさしい。なんの不満もない。2人の子どもにも恵まれ、農家としての生活にもそれなりに満足している、と。でも最後にぽつんと言う。「でも違った。憧れていた生活とは」

「でも違った」と語ることのできる相手とは誰なのだろう。当事者のパートナーやわが子に語れることではない。それは現に「違った」生活をともにしている人間に言うべきことではないし、言えることでもない。では同性の友人に語れるのか。それは人によるのだろうが、自らの「歴史」や「今の生活」を知る者にはなかなか言えない。それは愚痴にしかならないからだ。「あなたは、(又は君は)何の不満があるというの。優しい夫、健やかな子ども、順調な農場経営、少しづつだが豊かになる生活があるというのに、と。

しかしこれまでのナマの自分を知らない立場の異性には言える。少なくとも「マディソン郡の橋」でフランチェスカは、これまでおそらく一度も口にしたことがないことを、出会ったばかりのキンケイドにさらっと言った。言えた。それはきっと分かってもらえると思ったからだ。満足と不満が同居するアンビバレントな気持ちを。

「マディソン郡の橋」が伝えていたのは、「これまでの自分を知らない異性に、自分を語る」ということだったのではないか。再びこの映画を見てこのことに気付いたのは、自分も齢を重ねたからなのだろうか。映画の案内役をしていた辺見エミリ(またそのセリフを書いたであろうディレクター)には、「大人の恋」としか映らなかった映画は、まったく別のものを齢を重ねた私に提示していた。

「自分について語る」。それはある種のフィクションかもしれない。内田樹さんがどこかで書いていたが、歴史はいくつもある。人がその人生を語る時、相手によって微妙に語る事実を取捨選択するからだ。だからこそ現に自分のこれまでや今を知っている人に対しては「自分に正しく」は語れないのだ。自分の人生はこうだったと取捨選択しながら自分に納得して言える相手は、新たに出会った異性だけだ。

この映画で一番印象的だったのは、逢瀬を重ねるシーンでも別れのシーンでもない。フランチェスカの夫が死に際に、彼女に対して「ごめん。君にもいろいろやりたいことがあっただろうが、それを実現させてあげられなくて」と言い、彼女が枕元の夫を抱きしめながら涙を流すことろだった。夫はきっと分かっていたのだ。彼女の悩みを、でもどうすることもできず最期を迎えた。

自分について語るための相手は、齢を重ねれば重ねるほど必要な存在になってくる。非常に穏やかでどこか物悲しい音楽は、その思いを一層強めた。