2011年10月26日水曜日

科学的合理性よりも「情」や「空気」が支配する国

国民性というものがあるとしたら、それは民族・人種に根差すというより、その土地の風土や宗教性が長い歴史の中で培われてきたものだろう。また、そうした歴史の文脈の中で出来上がった政治、社会、教育などの制度が、いわゆる「国民性」を作り上げている、のだと思う。
 西日本と東日本、関東と関西と言った二項対立や、九州人は……、東北人は……といった言地域性を規定する言い方や、もっと狭い範囲で、端的に「県民性」ということも巷間では言われる。更に東京の中でも、山の手の人と下町育ちなどと言って、その人を規定することがある。それらが本当に存在するのかどうかはわからないし、冷静に考えれば、軽々しく決めつけるのもいかがなものかとも思う。しかしわれわれは他と比べるという行為を通じて自己の存在を確認し、また他者を批判する。もっと言えば軽蔑、差別の手段として〇〇性は使われる。
この基本認識を前提とした上で、日本人というものを最近の出来事から考えてみたい。

 国民性を表す有名な小噺。
タイタニック号沈没の時、少ないボートには女性と子どもが優先され、残った男たちを冬の海に飛び込ませるために乗組員が言った言葉。
●イギリス人には「あなたはジェントルマンだ」
●アメリカ人には「これであなたはヒーローになれます」
●ドイツ人には「これがルールなのです」
●日本人には「ほかの皆さんもそうなさってます」

 なぜか納得してしまうウマい小噺だ。やはり日本人には「みんなそうしている」ことが、何よりも大切なんだろう。
 換言すれば、それは合理性よりも「情」が優先されるということだ。様々な知識人が指摘してる言葉を借りれば、そういう「空気」が支配しているということか。(「空気」については別項でまとめてみたい)

 BSE(牛海綿状脳症)はこの10年、検査体制が整ってからわずか1頭しか見つかっていない。
世界でも92年の3万7,000頭をピークに去年は45頭だという。(2011.10.25 朝日社説から)
プリオンは普通は生後3年以上たたないと検査で見つからない。欧米諸国では検査対象を6年以上としている。しかし日本では、20か月以下の若い牛も含めて全頭検査が続けられている。
そのことにほとんど科学的意味がないにもかかわらずだ。理由は簡単だ。消費者の安心・安全を考えて、ということだろう。
厚生労働省はようやく全頭検査の態勢の見直しを言い始めた。しかし政治家のだれも、これまでその無駄(もちろん検査には税金が使われている)を指摘して中止しろとは言わない。

 放射能による子どもの甲状腺への影響調査は3年程経過してからでないと意味がない(朝日新聞)のに、「心配する親の声を受けて、行政はすぐ実施することにした。」そうだ。
このことに対して、無駄はやめろと声をあげたら、ほぼ間違いなく「子どもの命が大切ではないのか」とヒステリックに叫ぶ人が出てくるだろう。
放射能汚染の問題で言えば、運動場や道の除染について「心配ないレベルだが、地域の人の不安の声を受けて念のため」という行政の施策がしばしば伝えられている。
 もちろんその背景には、放射能汚染に対する政府・行政側の一連対応のまずさからくる不信感が背景にあるのは否めないが、それにしても、こうした事態が余計に住民の不安を増幅して合理的でない施策が行われる。
 放射能汚染の可能性が少しでもあれば、大騒ぎしなければならないという「空気」が、いまこの国を支配しているのだろう。

「安全学」の村上陽一郎さん(現・東洋英和女学院大学長)が中央公論9月号で、定期点検中の原発の再稼働について、しごくまっとうな指摘をしていた。
「福島第一原発の事故があったからといって、定期検査で停止中に何か根本的な変化が起こったわけではない。だとすれば、むしろ再稼働を拒否することの方が非合理ではないでしょうか。」
文書を読めばわかるが、村上氏は決して原発推進論者ではない。「安全」を考える上で科学的判断ということの重要性を説いているのだ。

 脱原発、反原発の方々が「いますぐすべての原発を止めろ」と言うのなら、論理は明快であり説得性はある。が、いま稼働している原発は容認しておいて、定期検査で停止している原発の再稼働は許さないというのは、どう考えても論理的に矛盾している。新聞を読んでいると「地元住民感情を考慮すると」という文書が出てくる。科学的に安全かどうかということより「感情」が判断の基準らしい。とても原発再稼働を言い出せる「空気」ではないということなのだろう。

 そう、日本は空気が支配する社会なのだ。それが個人のグループのレベルで行われている行為であり、自分には直接関係しなければ放っておこう。しかし「空気」が合理性を拒み、税金を無駄に使い、われわれの実生活にも影響を及ぼすとなると話は別だ。

「情」に訴える人たちは、「自分や子どもの健康や安全を訴えることがなぜ悪い」とおっしゃるかもしれない。しかし限りある資源(税金)をもっと有効に子どもの健康や安心・安全のために使用した方がいいのではないだろうか。合理性を追求することは、安心・安全を疎かにすることではない。

「世間」の「空気」が支配する日本について、鴻上尚史氏が鋭い洞察力で書いている。
納得の1冊だ。後日紹介したいし、多くの人に読んでもらいたい書籍のひとつだ。

その前に「空気」については山本七平の著書が「古典」だろう。鴻上さんの著書の中にももちろん出てくる。

2011年10月20日木曜日

ひとまね子ザルで行こう

 普段利用している東京都内の公共体育施設。更衣室からプールに行く所にあるトイレは、サンダル履きになっている。5,6足のサンダルが置いてあるが、これがいつもひどい「脱ぎっぷり」だ。逆さまに脱いでいくだけでなく、素足で履くためひっかかるのか、裏返ったまま投げ出されていたりして、次に使用する者にとっては不快極まりない。(小学校の道徳の時間の先生のような物言いだが)どうして、ちょっと振り返って揃えられないのだろうかといつも思っていた。

 泳ぎながら子ざるの童話を思い出した。
確かこういう話しだ。帽子を奪って返してくれない数匹の子ザルたちをどんなに追いかけても、すばしっこくて捕まえられない。困っていると、子ザルたちが自分のしぐさの真似ばかりしているのに気づいた。そこで、自分の帽子をとってカバンに入れると、子ザルたちもそれに倣って帽子をカバンに入れた。(この童話は有名な「ひとまねこざる」とは違うものだったかもしれない。確認はしていない。)

 そこで、泳ぐ前後にトイレに行く度に、散らばったサンダルをそろえるようにしたのだ。ちょっとしゃがんで数足のサンダルをそろえる。それはわずか10秒程の行為でしかない。しかし(この性格の悪い私が)それをやり始めた。私の行動を見て、たいていの人はちょっと後ろを向いてそろえて脱ぐ。人の行動というのは面白いものだ。(もちろんそうでない無神経男も多いのは確かだが・・・)

 以前このブログで記した、落書きやハイスクールの壊れた窓もおそらく同様の行動なのだろう。そのままにしておくとますます落書きは増え、学校の窓は壊される。「なおしておくこと」以外に、新たな破壊活動防ぐ方法はない。

 オルデカの言説を借りれば、大衆は世の中の流れと同じように行動をとる。常に周囲を見て同じようにふるまう。かつてのルーズソックスばかりのアホな女子高生。テレビ番組の「あるある大辞典」のインチキ情報で、納豆を買い占めた主婦。罪深い例としては、かつて大阪で、青森からトラックでリンゴを売りに行ったら、誰かが失敬するのを見た群衆がみな群がりすべて盗まれてしまったという“事件”があった。こうした事例には事欠かない。大衆心理を逆手にとって導く(イヤな言葉ですが)ことを試みたのである。

 さて、トイレのスリッパ。今のところ目立った変化はない。もちろん毎日通っている訳ではないし、何千人もの来場者のうちのひとりの行動など、何もならないことはわかっている。しかし散乱したスリッパを見るたびに、不愉快を感じ、腹が立っていた自分の気持ちが、この行動によって鎮まった。もう少しつづけて、これが無意識にできるようになれば、自分自身も変われるのかなと思うことがる。
 情けは人のためならず。

 





○前に倣う。スリッパ 落書き、
○電車内、優先席での携帯

2011年10月18日火曜日

男も女も股を閉じろ

 10代の時、バイク免許(400cc中型限定)を教習所に取りにいっていたとき、まず教官に言われたのは、股を閉じるということだった。「白バイを見れば、皆しっかり燃料タンクをしっかり締めているだろ。だけど暴走族は股をだらっと開いている」、と。

 安定した「正しい」走行をするためには股に力を込めて燃料タンクをぎゅっと挟み込むことだと、この時刷り込まれた。そして実際その通りだ。
 20年近く前、ケアンズで休暇を楽しんだ時、乗馬をした。これが結構ハードというが初心者に大胆不敵というか、いきなり馬を与えられて結構なスピードであちこち走った。教えられたのは馬の名前だけだった。あとは見よう見まねでやれということらしい。しかし楽しかった。この時も馬をコントロールするにはしっかり股に力を込めることが肝要だということが体験的に分かった。

白バイの乗り方は文句なくカッコイイ


※左の写真の若干の補足
 バイクに乗る人ならば、たいていは経験したことがあるだろう。カーブでマシンを傾け時、シロウトだと少々恐怖を感じる。
この時、きちっと膝を閉めて操縦するのは、それなりに経験が必要だ。




 股を閉じるのは、物理的安定性だけでなく身体に緊張感を持たせることでもあると思う。

スカート姿の女性が少なくなったためなのだろうが、通勤電車内で、膝をくっつけて座っている人は滅多に見かけなくなった。私はキライだ。きちっと股を閉じろ。それが車内のマナーだというだけでなく、その方が美しい。

JRが開発した、「膝を開かせないというシート」

 これは男尊女卑の思想で言っているのではない。

男も同様だ。長い足なのはわかる。が、それは車内で誇示するものではない。お互いに迷惑にならないように座るのがマナーだ。車内で股を閉じられないのは、その人たちにとって車内が「社会」ではないからだろう。彼らにとって空間は常に「自分のもの」という意識しかないのだろうか。
公共の場では常に「緊張しろ」と言いたい。

 ついでにひと言。
最近通勤電車では、あの「スマートフォン」をいじくり回して、周囲の迷惑をかえりみない輩がまた増えた。女性専用列車なんかいらないから、読書専用列車をつくってほしい。電車内は静かに本を読むとことだ。断然そうでなければならない。
電子機器を使う人は貨車を連結してそれに乗ってもらえばよい。

2011年10月8日土曜日

ぎっくり腰から学んだこと(自分が崩れ落ちてゆくということ③)

「ぎっくり腰」からはや10か月近く、完全に不安が払しょくされた訳ではなく、泳いでいても走っていても疲れてくると、何となく軽い痛みに似た感覚が湧き上がってくることがある。しかしそれがかえって自分自身に注意を促している面もあり、微妙なバランスの中でエクササイズを続けているという感じだ。

 それにしても、カイロプラティック、整体師と言われる人々(の多く)がいい加減ななのではないかという「疑念」は、今もって続いている。

 1時間弱で7000円を支払った「施術」とは何だったのか。しかも時間の半分は温湿布のようにバスタオルで腰を温めただけだ。支払いに際しては領収書もなかった。住宅地のマンションで営業している、この整体院は、おそらくいとも簡単に「売上げ」をj除外し、申告するだろう。所得税も消費税も免れているのではないかという強い疑念がふつふつと湧き上がってくる。サラリーマンとしては看過できないな。(ちょっと話が本筋から逸れた。)

 websiteの整体師の広告を見ると、「歩けなかった人が1回の施術で歩けるようになった」とか、3回通って「完治」したとか、様々載っている。もしその広告が悪意なきものであれば、確かにそうなのだろうと思う。しかしそれほど“専門的”にしなくてもちょっとインナーマッスルを刺激・マッサージをすれば治るということではないか。 逆に言えば、骨や椎間板にまで支障があれば、整体師でも治らないだろう。

  結局かれらの行っているのはリハビリの手助けだ。もちろん、それはそれで重要でありその手助けに報酬を得ることを否定はしない。年配者などで、硬くなった関節を動かせるようになったり、歩きやすくなったりする人がいるのは喜ばしいし、実際そういうことで重宝がられている「先生」もいる。こういう人はたいてい良心的で価格もリーゾナブルだ。
 
 しかし「ぎっくり腰が一発で治った」などという宣伝をする診療所は値段も高い。(実際高いと思った)ある種の詐欺的行為といったら言い過ぎだろうか。

 もともと身体にまつわる様々なことは、症状に個体差があり、そのひとの感じ方にも差があるので、あいまいなところは宿命である。そこに付け込んで「治療」が行われるのだからやはり施術の内容も値段もあいまいになりやすい。どこまでなら「治った」「改善した」と感じられるのかは難しい。
 
 ひとつ分かったのは、身体に施術を行うという行為は「暗示にかける」行為だということだった。それが整体師に意識化されているかどうかは別にして、患者を信じさせるために会話があり、もっともらしい施術があるのだ。初めての体験で私も魔術にうすうす感じながらも、あえてはまることにした。そうしなければ7,000円もかける意味がないもの。