2012年1月26日木曜日

走ることについて語る② 話が合わない・・・・

東京でも寒い日が続いている。
職場などでは、「寒さ対策」が話題になる。ユニクロのヒートテックは暖かい、遠赤外線の下着がいい。やっぱりダウンに限る、等々。しかしあまりこういう会話にはついていけない。

一方、スポーツクラブのロッカーでは、まったく視点の違う話しが交わされる。
寒いけど如何にこの寒さに耐えられる体にするかが課題だ。なるべく薄着を心掛けてる。
そうそう、寒い方がエネルギーの消費が多いから、太らないですむ。等々。

これは、60代とおぼしき男性の実際の会話だった。
どちらかといいうと、私はこっちの話についていきたい。
寒い寒いと言っている人たちと会話しても何も面白くないから、しない。

食事についても同様だ。身体を動かさない人は「おいしい物を我慢してまで、運動する気になれない」などという言葉を時々聞く。

しかしこれが逆なんだな。
こういう人たちにとって、食事は「目的」なんだろうけど、「走る人」にとっては食事は「手段」でしかない。もちろんおいしい物を食べたいという欲求はあり、実際食べる。
しかしそれは少量で済む。いつも、たくさん食べたら体重が増えるという“恐怖”を感じているから好きなものは少量食べてそれで満足できるのだ。ここにも、運動する人としない人の会話の断絶がある。

実は甘いものがけっこう好きな私だが、走り始めてからケーキを口にすることはほとんどなくなった。それは我慢しているのではない。脳の、体重を落としたいという欲求が、ケーキを食べたいという欲求を上回っているに過ぎない。だから苦しくないし、本当にたまにちょっと口にすれば、それで満足できる。ケーキをまるごとひとつ食べる気にはなれない。

○余話
村上春樹さんのエッセイ(「雑文集」だったか「走ることについて・・・」だったかは忘れた)
ランニングをした後に青山のレストランでカキフライを食べる話しが出てくる。
汗を流したあとのビールとカキフライ、本当においしいだろうなと思う。
カキフライひとつで、“読ませる”エッセーが書ける村上さんの筆力は、やはりすごい。

2012年1月25日水曜日

「正しいこと」は厄介だ。脱原発は如何に伝えられたか

善意の行為はしばしば、「はた迷惑」になることがある。良かれと思って行われても、相手にはちっとも感謝されない、なんてことはしばしばある。これが他愛もない日常的なことならば笑って済ませる。
しかしコトが大きなテーマだと、少し考えてしまう。
毎日新聞web版より引用

1月18日、関西電力大飯原発3、4号機の安全評価(ストレステスト)について経済産業省で開かれた意見聴取会は、原発の再稼働に反対する市民団体のメンバー約20人が傍聴を求めて会場に入り混乱した。聴取会は、別室でテレビモニターによる傍聴を認める予定だったが、市民団体のメンバーたちは同室での傍聴を求めた上で、「再稼働ありきで議論すべきではない」などと抗議したという。
会場に入って抗議した市民団体の様子は、テレビのニュースでは各局で繰り返し放送された。この模様を見ていて、「正しさ」とは何だろうと改めて考えることになった。

聴取会の会場で傍証する方が正しいか、別室でモニターでも良いのか、私にはわからない。しかしおそらく、主催者(経済産業省)は市民団体が抗議行動を起こすことを想定して「別室」にしたのだろう。「学術的な見地から」(枝野大臣)行う聴取会で「原発反対」の人々が「再稼働は妥当」という結論に対して“騒ぐ”ことはこれまでの行動から容易に想像がつく。お役所としてはもっともな判断かもしれない。

 「脱原発」が絶対の真理と考える人たちにとって、自分たちの行動は「善意」による「正しい」行為だ。おそらくこういう人々は、どんな場でも「反対」と抗議を声に出し、落ち着いて、異なる意見に耳を傾けるといういうことを、どんなにお願いしても通じないだろう。なぜならそれが彼らにとって「正義」だからだ。
メンタリティーとしては、「放射線ゼロリスク」を求めて東日本から脱出する人、少しでも数値が高いと大騒ぎする人たちと同じだろう。
 こうした行動が「脱原発」を目指す人、なんとなく志向する人、を遠ざけてしまうことにも作用するとは、彼らは考えない。正しいことをして「スッキリ」しているに違いない。
 こういう人たちには「科学的」「論理的」という言葉が通じない。そういうことを言うとかえって油を注ぐことになる。
 悪意の行為であれば、その行為者は、それが「悪」つまり「正しくないこと」ということを認識しているので、悔い改めることができたなら、その行為をやめる。
しかし「善意」の人は、悔い改めることはない。当たり前のはなしだが、「正しい」行為だからだ。これがもっとも厄介だ。
話し合いの余地や説得が通じないのだから。
その行為がどういう影響をもたらすか、どういう結果を導くかは、彼らには関係ないのだから。

さて、マスコミはこれをどう伝えたか。
午後の出来事で、ほぼリアルタイムで伝えられるテレビ各局は、この模様を繰り返し流していた。が、この抗議する人を新聞に載せていたのは、翌日の主要各紙の東京版を見た限りでは毎日だけだった。(web版にも毎日にしかこの人の写真はなかった)

どうしてか。
脱原発を「正しいこと」とする朝日、東京は、「脱原発」のイメージダウンを懸念し、意見聴取会が傍聴なしで行われたという「事実」にウェイトを置いて記事を構成した。
「原発再稼働」が「正しいこと」と唱える読売、日経には、こうしたセンセーショナルな映像(画像)が、大衆心理を喚起して「脱原発」の声が一層高くなることを心配した。という推論を立ててみた。
 つまり、どちらの側にとっても彼らの抗議行動は「不利」になると判断したのではないか。そしてこの写真の掲載を見合わせた。
その点毎日新聞の扱いは公平だったように思う。ちなみに毎日は「脱原発」派だけども。

現場にいたカメラマンであれば、ほぼ間違いなく彼らの抗議行動は映像に収めたはずだ。だってこの映像が、18日の騒動の中では一番インパクトがあり、状況を伝えるのにふさわしい映像だからだ。(撮らなかったらカメラマン失格だろう)

新聞各社にとって「正しいこと」は、時に真実を伝えるという姿勢を遠ざけることになる。本当にやっかいだ。

2012年1月20日金曜日

走ることについて語る① 50を越して走り始めて

走ってみようかなと思ったのは、息子が中学受験で煮詰まってきた小学6年生の秋ごろだった。お百度参りではないけれど、塾の日曜特訓に1日出かける息子を見送って、ひがな日曜の午後に、何かしなければ申し訳ないような気がしていた。

あり物のスニーカーと夏山登山用の短パン、Tシャツといういでたちで、最初は2キロ程離れた図書館に行き、次は3キロ離れたホームセンターに行きと、少しづつ走ってみた。2,3キロならば苦もなく走れて、秋のさわやかな空気に触れて気持ちよかった。

そのうち1.5キロ程離れた多摩川の河川敷まで出て走るようになった。足が痛くなると歩いて最寄の駅から電車に乗って帰ったりもした。二子玉川と大井町を結ぶ大井町線や多摩川と蒲田を結ぶ多摩川線は、駅が川沿いから比較的近く、ジョギング初心者には安心材料にもなった。
走る時、お金はタクシーでも帰れる2,3千円を持ってでたが、これまで一度もタクシーには乗っていない。いわばお守りのようなものだった。

しかし走ることをそれほど面白いと思ったことはない。どうにか続けている水泳でも、いつもストイックになってしまう。楽しむという感覚を心掛けてはいるのに、ひたすら1点を見つめて目標に向かってしまう。性格なんだろうな。
(泳ぐことについて語るとき、ぼくの語ること・・・は過去ブログに書いた通りだ)

さしあたり多摩川が主な「走り場」
ただし「下流志向」
息子の受験がどうにか終わり、やがて春になって、少しずつ定期的に走ることを心掛けた。
だいたいは日曜日の午後。多摩川河川敷が主だ。河川敷は信号等で止まったり、車に気を付けたりしなくてすむので、(自転車は時々怖いが)コンスタントに走るのはよい。けっこう“仲間”もいる。

しかし「シューイチ ランナー」は、なかなか鍛えられない。3キロを超すと膝が痛くなることばかりだった。でも変わってくることもある。少しずつだが体重が減っていった。日曜夕食の1杯だけの安ワインが、おいしい。

あれから2年余り、先週初めて15キロの壁を超えた。18キロ程走った。1時間45分ほどかけて。
目標のハーフが、もやのむこうに少しだけ見えた気がした。

「走ることについて語るとき僕の語ること」を綴ってみたくなった。
自分の中で何かが少しずつ変わってきている気がするから。
「何か」の正体は何か?。それは書くことによって探していくほかない。



走ることについて、村上春樹さんの本が精神的な後押しをしてくれたのなら、この金 哲彦さんの本は技術的な後押しをしてくれた。愛好家の間で、「サブスリー」と言われるマラソンを3時間台で走るために書かれているが、これからジョギングを初めてみようかなと迷っている人こそ読んでためになる本だ。金 哲郎さんのランニング関係の著書は、mook本などでいろいろ出ているが、あまりそれらのビジュアル性にとらわれるより、まずこれを読む方がためになる。
痛みはどうして起こるか。どう走ったらいいのか。分かりやすくしかも論理的に教えてくれる。
腰痛のところなど、多少医学的にも荒っぽい記述もあるが、あまり気にしないで読めばいい。

「リスク社会に生きる」朝日の連載企画に表れた“迷い”。

「リスク社会に生きる」という朝日新聞の連載企画は、暮れの30日にプロローグを載せ、元旦から7回の連載だった。

プロローグで「放射能が列島を分断する」とタイトルにうち、「人の心と科学の距離」を考えるというのが(予想された)テーマだ。

被災地のがれき受け入れを表明した、フクシマから1000キロ離れた佐賀県武雄市が、、「安全な九州を守って」という1000件を超えるメール・電話にたじろぎ、受け入れ方針を撤回するというエピソードから、この企画は始まる。

2011年12月30日の朝日新聞1面から
そして、放射能を「異常に」心配して「過剰に」子どもを守ろうとする東京在住の母親と「そんなことやめろ」という夫の話し。風評被害に遭う須賀川市の農家。

科学者には、放射能について非科学的な内容の本の著者に対して、「何を言っても分からない人はいる。そういう人の納得させるのは難しい」と言わせる。

ページを変えて、「3.11以後この国で、おびえ過ぎず、楽観もせず、リスクと上手に付き合うには、どうすればいいのか」と、問いかけ、専門家と一般人(・・てどんな人を言うのだろう)による「危険度」の判断の違いを紹介する。


このシリーズ企画は、事実上このプロローグで「終わって」いたようなものだった。「リスク」をテーマにするのはいい。この社会状況にあって当然の発想だろう。しかし、朝日の迷いが、まさにこの点で吐露した企画だったと言えよう。

朝日の「見立て」は、冒頭の風評被害や過剰反応の背景が、専門家と一般人の間の意識のズレがあるからだとしている。だとしたら、普通に考えれば「一般人はもっとリテラシーをつけて冷静な判断をすべき」という主張になるのが自然だろう。しかしそうはならない。読者を断罪するのは自殺行為だから。

だから結語のところで、必ず筆が鈍る。「リスクに戸惑う国民が悪いのではなく、わかりやすく伝える工夫が、専門家や行政にこそ求められる」、「市民の不安に寄り添うべきだ」と専門家に言わせ、「怖がるさじ加減 自分の力で」と言い、「国にお任せだった安全と安心を取り戻す、民主主義の過程なのだ」と、急に大上段のモノ言いで終わる。

もし国語の試験問題で、「この文章で何が『民主主義の過程』と筆者は述べていますか」という設問があったとしたら、私にはうまく答えられない。
「安全や安心は、国任せにせず自分の力で行うこと」が「民主主義の過程」なのだろうか。教えてほしい。
どう結んでいいか分からず、否、分かっているが「読者」(購読者)を斟酌すると、ストレートに書けない。悩んだ末の「ミンシュシュギ」だったのではないか。
朝日新聞の「迷い」とは何か。
これは多くの、いわゆる「良質」なメディア、「リベラル」なメディアに共通してみられるが、大衆の行動に対してストレートには批判しにくい。だから突飛な事例を出して、それこそ「一般」の読者の良識を呼び起こして、最後は権力側に責任を持ってきて、わたしたちは「読者」の味方ですとポーズをとる。定番と言ってもいいストーリー展開だ。
多様な多くの読者を抱える新聞(公共放送もそうだろう)の一番の「悩みどころ」なのだろう。

タイトルは「リスク社会に生きる」ではなくて「大衆社会に生きる」の方がよっぽど内容にマッチしていたのではないか。皮肉を込めて言えば。


最期に「筆が滑る」事例。

2012年元日の朝日新聞から

このシリーズの元日の内容は、放射能を恐れ、東京からドイツに逃れた母子を紹介していた。移住の理由が本当に放射能ならば、これほど唐突で過剰な行動はないだろう。と、普通の感覚なら思う。
それをシリーズの第1回に持ってくる意図が、私には理解できなかった。

「突飛な事例を見て読者諸君考えてくれ」と言いたかったのだろうか。
そうではないうようだ。文面から伝わってくるニュアンスは、こうした行動が、権力に対して弱い立場の“市民”の当然の行動であり、ひとつの選択肢として、肯定的に描かれているもの。

移住した母子の写真のキャプションにこうあった。
「***ちゃん。ドイツに来てから娘の成長が著しいと、○○さんは目を細めた」、と。

これを「筆が滑った」と言うのだろう。
これでは、「放射能の高い日本(東京)を逃れてドイツに行ったら、娘の成長が著しく良くなった」と、読者にメッセージを送っていることになる。
このキャプションのひと言が、ルポ全体を陳腐なものにしてしまっている。そんなウソ臭いことを平気で書くルポをまともに読む気はしない。これは単なる読み物であり、少なくとも「ジャーナリズム」の領域ではないのだろう。
こういっては何だが、あまりリテラシーのない読者が読んだら、「やっぱり日本はアブナイ」と言う思いを抱くのではないかな。

2012年1月19日木曜日

何かを得ることは何かを失うこと スマホから何を得るのか

土曜日の朝の山手線。五反田から代々木に向かう外回りの6号車は座席がほぼ埋まる程度の人だった。ほぼ毎週この電車に乗り、車両中央付近に座る。
土曜日なのでいわゆるサラリーマン風の通勤者は少ない。意外に多いのが若者。サービス業など週末も仕事のある人々、あるいは大学、専門学校への通学なのかはわからない。年配の女性も何人かいる。

扉から扉まで7つの席がある。その両側で14人が座っていた。このうち携帯電話やスマホを操作していた人は10人。寝ていた人2人。何もしていない人ひとり。私の両脇の人はどちらもスマホだった。覗くと右側はゲーム、左側はネットらしい。
14人中10人も携帯端末をいじっている光景は、私にはちょっと異様に見えた。
電車内は本を読むところという「固定観念」がまだ私にはある。またそれはいいことだと思う。
しかし彼らは携帯端末をいじくることに時間を費やしている。

14人という母数で一般論を言うのは飛躍かもしれないが、これだけの割合で車内で携帯端末を使用している人が増えたということは、それだけ本を読む人が減ったということだ。電気機器メーカーやそのソフトを作る企業は潤うが、書籍に関係する企業は衰退する。

人口というパイが増えない(むしろ減っている)中で、本を読む人がどんどん減っていく。これを携帯機器の製造や販売に関わる人々は喜んでいるだろう。だってシェアが増すのだから。
しかし、書籍関係者にとっては危機だろう。また本を読む人にとっても業界が衰退することは、いい製品(作品)が少なくなるので残念だ。


スマホ現象。
こうした電車内の光景が、単に自由競争の中での奪い合いということで片付けられるものであればそれでよい。
しかし「本を読まないということはどういう人間になるか。」という、検証不能だが深淵な問題は、何も論じられない。

説教じみてこんなことをいまさら記すのはイヤだが、物事を深く考えない、結論を急ぐ、浅はかな議論をする、自分への万能感などなど、多くの識者が指摘することだ。
読書とリテラシーの間に、相関関係はあるかもしれないが、因果関係は証明だれなと言ってしまえばそれで終わり。でもそれでいいのか。

失なわれるものは、書籍だけではない。スマホをいじっている人々も、限られた人生の時間をスマホに奪われていることに気付いていないだろう。

自分の子どもが電車内での読書の習慣を身に着けてくれたことに、密かにホッとする。(小説ばかり読んでいるけど)

人々はスマホという魔法の箱から何を得ようとしているのか、「読書」の時間を失うことによって。
週末の山手線の中で考えた。

リスクはゼロではない~“放射能だけ”を忌み嫌う人へ~

リスクはゼロではない。
電車で通勤していれば、いつホームで突き落とされるかもしれない。車を運転していれば、いつ後ろから追突されるかもしれない。日常生活の危険は実に様々で、決して確率的に低いとは言えないものも多い。
だから、ホームでは周囲の人間に気を配りながら注意して歩くし、運転も常にバックミラーで後ろを見ながら、車が暴走してこないか注意を払っている。
どんなことでもリスクはゼロではない。そして、ゼロではないリスクの確率を、自分でも、わずかでも低くしながら生きている。
問題は、そのリスクの許容限度が人によって違うということに尽きる。

下の表は、雑誌エコノミスト(毎日新聞)に載った、がんリスクの比較表だ。

松永和紀さん(科学ライター)の論文からの引用。

松永さんは、リスクのとらえ方について、実に分かりやすく、しかも論理的に説明している。
マスコミの在り方も含めて鋭い指摘を行っている。

「もうダマされないための『科学』講義」(光文社新書・共著)でも詳しく論じておられるが、あまりにも無知・無見識に報道されるリスク論議を批判している。

ヒトは得体のしれないものを恐れる、という。放射能はその最たるものかもしれない。だからこそ放射能についてできるだけ正しく理解し、付き合うことが必要ではないか。
(続きを書く予定だが、とりあえずup)

放射能より地球温暖化が心配だ

2011年、年末の新聞に気になる記事がいくつかあった。どちらも小さな扱いでしかなかった。

CO2の排出量が過去最高
米エネルギー省が発表した2010年の世界のCO2の排出量は、前年比6%増の355億㌧で、過去最高の伸びを記録した。これは日本の排出量の約1.7倍が1年で増えた計算になる。地球環境産業技術研究機構の予測では、このまま対策をとらないまま新興国の成長が続くと、90年に屋久200億㌧だったCO2が、2050年までには500億㌧を突破するという。このままなら気象変動に関する政府間パネル(IPCC)が07年に報告したシナリオのうち、今世紀末には平均気温が4度上昇する最悪のしなりを超える勢いで温暖化が進むという。海面上昇な異常気象で毎年数百万人が洪水の被害に遭い、生物種の4割以上が絶滅する。(20111129朝日新聞)

 ●世界の平均気温も事実上最高
世界気象機構(WMO)は2011年の世界平均気温が14.30~14.52℃となる見通しで、過去最高値だった2010年に並ぶと発表(20111129日)。2011年は海面温度を下げるラニーニャ現象が強く見られ、本来ならば寒くなるが、地球温暖化のペースがそれを上回ったという。ラニーニュ現象があった年としては過去最高で事実上最も暖かい年になったという。(20111130朝日新聞)

●日本の夏も、一昨年は「異常気象」 
日本では2010年の夏(6月~8月)が記録のある過去113年の中で一番の暑さだった。これは気象庁が「異常気象」と認定。国連機関の「気象変動に関する政府間パネル」は報告書の中で、地球温暖化が進むと異常気象が起きやすくなると予測している。(2011122朝日新聞)


私は温暖化が一番心配だ。何よりも。
いまある自然の摂理が失われてしまうのではないかと。



震災以後の原発問題の議論を眺めていると、温暖化を斟酌した議論が少ないように思う。CO2削減の2年前の鳩山首相の「約束」(国際公約)などなかったもののように、一部のジャーナリズムは「放射能リスク」をとにかくゼロに限りなく近づけることが第一だという報道を繰り返しているし、世論をそう誘導しているように見えてならない。

彼らに対して「温暖化はどうするんですか?」と聞くと、おそらくこういう答えが返ってくるだろう。「まずは放射能汚染、脱原発。化石燃料によるエネルギー消費は国民の努力と節約で抑えればいい。」と。
どんな議論もそうだが、一方を主張する者は、その実現可能性について都合の悪い部分は「精神論」で逃げ、議論を避ける。


いわゆる革新勢力が好きな「理想論」。
しかし「理想論のまやかし」が、原発・放射能の議論をダメな議論にしている。


なぜか、「理想論」は人間の「欲望」を斟酌していないからだ。


*「欲望」についての論考はまた後日


2012年1月14日土曜日

毎日新聞「歯車にはならない」とはどういうことなのだろうか

毎日新聞が新年の企画記事で争点を当てたのが30代。「リアル30’s」だ。
この世代も、いわば将来の担い手。彼らの身の処し方、活躍次第で、社会が変革するかどうかにかかわっているというのは、その通りだろう。ねらいは日経が取り上げた20代と同様、悪くないかもしれない。新年のシリーズ企画としては。
しかし内容はあまり伴わなかった。元旦の第1回を読んでやめてしまった。

どの新聞も「次につなげるため」、つまり次回からも読んでもらうため、第一回にはとりわけ力が入るし、一番いいネタを持ってくる。しかし、そうそういいネタなんて転がっていない。第一回で取り上げた人物は、転職を繰りかえし、「歯車にはならない」という人だったが、そこに30代の「みなぎる力」も「可能性」もあまり感じられなかった。
そもそも転職をしてキャリアアップしていくことが、「良いこと」なのか「悪い」ことなのか。またいまや、転職自体に良し悪しの評価を着けることに意味がないのかもしれないが、少なくとも読者の共感を呼ぶ素材とは言い難かった。

「歯車にはならない」という言葉を企画のキャッチコピーにすること自体、この新聞社のセンスに首をかしげたくなる。社会一般では皆「歯車」として地道に働くからこそ社会が回っているのではないか。多くの人は歯車として社会を支えているし、また支えられている。
確かに「歯車では満足しない」人が事業を興したり、新しい何かを試みて社会は変わる。でも毎日の企画は、「歯車にはならない」と“言う”人を取り上げて何をメッセージとして伝えたかったのだろうか。私にはわからない。

こうした企画記事を読んで思うのは、構成の難しさだ。取材者ががん首そろえて議論し、練りに練った企画ほど「いいもの」ができるとは限らない。案外シンプルな企画の方が読み応えがあったりする。熟慮することは必要だが、こねくり回しすぎると、それは読者に見透かされる。

おそらくテーマ設定から取材して集めてきたネタ(人物)がイマイチだったので、そこを筆力でカバーしようとしたのだろう。苦し紛れに、出てきたコピーが「歯車にならない」に凝縮されたようだ。

文章を書く時の「反面教師」になる企画だった。

新機軸を打ち出すのは、なかなか難しい。新聞各紙 新年企画 読み比べ

社説と並んで、新聞各紙が力を入れるのが、新年企画記事だろう。
それこそプロジェクトチームを組んで、構想を練り、テーマを絞り込み、そして“そのテーマに合う”素材を探して取材をする。全体を見渡す統括(論説委員クラスだろうか)がいて、おそらく彼が巻頭言を書き、兵隊(取材記者たち)が素材を見つけてきては「読み物」に仕立てる。こんな方法はあまり次代が移っても、また新聞社が違ってもあまり変わらないのではないだろうか。



○日経「C世代 駈ける」

20代の若者を「C」をコンピュータ(Computer)を傍らで育ち、ネットで知人とつながり(Connected)、コミュニティー(Community)を重視する。変化(Change)をいとわず、自分流を編み出す(Create)、「ジェネレーションC」と定義づけて、この世代への期待を込めて30代、40代も含めた「活躍しているヒト」を取り上げた企画。「20年後、20代の若者は社会のけん引役になっている。次の世代が描く未来図はどんな形だろう」と問いかける。しかし内容にあまり新味も面白さも感じられなかった。日経は「C」のように何かでくくった「こじつけ」げ結構好きなようだ。「大人」から「20代への期待」は、一見寛容な大人の態度で若者に理解を示しているポーズに見える。しかし、ちょっとうがった見方をすると、日経の読者が減っていく中で若者をもっと取り込もうというねらいが透けて見える。
日経の主な読者は中堅のビジネスマンだろう。少子化と就業の変化の中で、次世代の日経読者をどう獲得するかは、結構大きな課題なのだろう。日経を読むことが「ステータス」だと若者にもっと刷り込む必要がある。その結果生まれた「ジェネレーションC」だったのかもしれない。
内容にいちいちケチをつける程のものもなかった。


他社の企画も同様の傾向があるが、「活躍するヒト」「珍しい活動をしているヒト」「ほか様々珍しいヒト」を取り上げて物語として仕立てあげるのが定番だ。読者をひきつける記事に、他にいい方法がないのも確かだが、この手法自体、だいぶ手垢が付いている気がする。だから(後述する朝日もその典型だが)、取り上げるヒトがどんどんエスカレートしてくる。
ふつうの人には誰も振り向かないから。それはまるで民放テレビ番組のバラエティーと言われるジャンルが、同じような企画しか打ち出せない中で、より過激な表現・手法になっていくのに似ている。



○毎日「リアル30's」

毎日が争点を当てたのが30代。
「『失われた20年』に思春期を過ごした世代が今、30代を迎えている。仕事、結婚と岐路に立たされる年齢」と規定し、「社会は閉塞感に覆われ、どんどん生きづらくなっている。」「件名に考え、悩み、迷う30'Sを追う」のだと。
その背景に、彼らの世代が、就職氷河期とされる1993年~2005年に就職期を迎え、多くが正規雇用に就けず、低賃金で不安定であることだという。

日経の「20代」同様、この世代も、いわば将来の担い手。彼らの身の処し方、活躍次第で、社会が変革するかどうかにかかわっているというのは、その通りだろう。ねらいは悪くない。
しかし内容は、企画倒れになってしまっている。2回目以降を読む気にはなれなかった。。
なぜか。それは別項で。


○朝日「カオスの深淵」

「民主主義」に正面から取り組んだ、つもりらしい。かつて朝日も民主的でないと批判した(と自ら書いている)無投票で多選の首長が決まっていた大分県姫島村の話と、総選挙(ファン投票)で第一に選ばれた「AKB48」の前田敦子を並行して第一回で取り上げている。これで読者を「おや?」と思わせて引き付けようとしているのだろうが、どう読んでも、奇をてらったとしか思えなかった。論考は別項で述べる。


○ サンケイ 「The リーダー」。

「リーダー論」はこのところ様々なメディアで盛んな印象がある。これだけ政治が混迷すると、どの言論機関も「リーダー」を求めるのは、もっともな話だ。しかし、リーダー論の限界も同時に感じる。サンケイの企画は「平成の龍馬はどこに」と銘打ち、自社で行ったネット調査の結果を一面で載せている。
結果、現役政治家で1位になったのは、あの橋下だった。おそらくサンケイもこの結果を知った時点で、企画の「失敗」を悟っただろう。
なにしろ①坂本龍馬、②織田信長、③徳川家康、④小泉純一郎、⑤橋下徹、⑥松下幸之助なのだから。いくらサンケイさんでも、橋下を現代のリーダーと持ち上げる訳にはいかないだろう。どう企画記事の筆を進めるか迷ったにちがいない。5面で「東京編集局長」氏が、一昨年橋下と石原慎太郎の対談をセットしてそれに立ち会った時のことを書いている。「閉塞感を打ち破りたいと考える2人」そして「リーダーはどうあるべきか・・・真のリーダー像を見つけたい」と意気込む。

「リーダー論」は「プレジデント」や歴史雑誌の十八番企画だが、今年のサンケイ企画もこの路線の紋切型の「リーダー論」を抜け出せない印象は否めない。

○東京(中日)
「雨ニモマケズ 3・11から-連載企画10の数字」というのが、どうやら新年企画らしい。
切り口は「2012年問題が飛び交う今年、…日本を象徴する十の数字に着目」したという。そして「十の数字の背景にあるものを取り上げ、どう乗り越えていくのか考えていく」という。
その十とは
①OECD調査で「家族以外と交流のない人の割合、15%
②OECDの学習到達度調査で日本の数学的応用力が日本は2000年の1位から9位に転落
③国内の再生エネルギー割合3%
④去年4月から年末までに脱原発を訴えるデモが300件
→「政治家に頼らず直接世の中を変える新しい民主主義の動きと注目する見方もある。」と。
⑤1次産業に従事する人口4.8%.
⑥新卒で入った会社にとどまっている若年層の割合44%.
⑦科学技術費は民間企業の投資も含めて17兆円。
⑧カロリーベースの食糧自給率39%。
⑨社会保障費の伸び毎年1兆円。
⑩生活保護受給者206万人。
ん~~。それぞれに重要な課題であることは分かるが、改めて数字を見せられて「問題の所在を思い出す」以外、どれも重いテーマすぎて考えが深まらなかった。
ちょっと大上段に構えすぎではないだろうか。だいいちなぜこの10項目なのか、それが分からなかった。


2012年1月12日木曜日

元旦の各紙の社説を読み比べる

毎年1月1日の新聞は定期購読紙以外も購入し、よく読むようにしている。元旦の1面はどの新聞も企画に力を入れている。また社説も、その新聞の“姿勢”を知る上で参考になる。
さて、2012年1月1日の各紙(朝・毎・読・日経・サンケイ・東京)はどうだったか。
まず社説から
朝日…「ポスト成長の年明け・すべて将来世代のために」
毎日…「問題解決できる政治を」
読売…「『危機』乗り越える統治能力を~ポピュリズムと決別せよ」
日経…「資本主義を進化させるために」
サンケイ…「日本復活の合言葉『負けるな』」(年のはじめに 論説委員長署名記事)
東京…「民の力を今、活かそう」

印象で言うと、一番力が入っていたのは読売だ。
経済活性化は復興からと、成長促進を促しつつ、財政破綻もあり得ると、政治に党利党略を超えて財政再建に取り組み必要性を訴える。一方対中緊張への対応やTPP問題にも言及し、エネルギー政策については従来の主張である原発の再稼働を訴える。副題に「ポピュリズムとの決別を」となっているが、そのことには直接は触れていない。もちろんこれは政治を進めるために世論の反対があっても財政再建やTPP,原発再稼働等を進めてほしいというメッセージだろう。網羅的・具体的な社説で分かりやすいという点では光っていた。

読売新聞 2012年1月1日


対する朝日はどうか。
やはり財政赤字を心配するが、経済成長ばかりを追い求めることに異を唱える。去年ブームになったブータンの国民総幸福を引き合いに出し、草食系の若者の登場を「ポスト成長の環境変化に適応して進化」したからと言う新説を紹介。と、言いながら「新興国が激しく追い上げてくる大競争の時代」という認識を示しながら、「世界に伍していける若い人材」の育成を訴える。最期は、成長から成熟社会への転換を訴える。
論旨に一貫性を感じない、はっきり言って「分からない」社説だった。言いたかったことは成熟社会なのだろうが、それを実現させるのが、大競争時代に世界と伍していける人材というのは、どういう意味なのだろうか。理想主義を掲げるがその方法論や実現可能性に弱さがある、朝日の悪いクセとも言うべき内容だった。

朝日新聞 2012年1月1日
毎日。
マックス・ウェーバーやチャーチルの言説を引き合いに出しながら、「なぜ妥協しないのか」と、政治が進まない状況をもっぱら憂いているだけだった。
毎日新聞 2012年1月1日

日経。
グローバル化を経済再生のテコに資本主義の進化を訴える。

サンケイ。
「日本が強い国に生まれ変わるためには胆力と構想力を持った指導者が欠かせない」と、新年企画「The リーダー」と呼応した内容で、「がんばれ」と剛毅(ごうき)さ、克己、礼節を唱える精神論でまとめる。

東京。
民主党の消費税増税は公約違反だとして、また予算案を批判し、まず「無駄を徹底的に削る」ことが先決と、社民党の主張そのままみたいな論旨。最期は橋下の独裁を憂いて、デマに惑わされるなと締めくくる。新味のない東京(中日)の従来の主張だった。

こうしてみると、どれもアッと言うような斬新な主張はどれも感じられなかった。がっかりな社説ばかだ。朝日が2011年12月29日の「社説余滴」で「誰にも読まれる新聞社説を」と、読まれない社説に自戒を込めた一文を載せているが、ほとんど何も変わっていなかったと言わざるを得ない。
やはりこれでは読まれなくて当然だろう。
朝日の読者には富裕層でやや保守的な層からインテリ、組織労働者などおそらく幅広い層が想定されているのだろう。だからそれらの層すべてに「配慮」した言い回しになる。もっと言えば筆が甘くなっている。

それを克服しない限り、やはり社説は読まれない。当たり障りのない文章なんて読むだけ時間の無駄だから。

企画についての「感想」は次回に。

2012年1月9日月曜日

石原千秋さんの著書との出会い



子を持つ親として、教育は大きな関心ごとだろう。私自身も例外ではなかった。東京神田神保町の三省堂や新宿紀伊国屋の「受験コーナー」には、子どもが小学校2年くらいの時から足げく通い、親としての予習を行ってきた。


新潮選書「秘伝 中学入試 国語読解法」は、実は子どもを授かるかなり前、初版が出たころに購入して、“積ん読”しておいた書籍だった。


この時、なぜ購入したのかは、よく覚えていない。子どもを授かる見込みもない中で、将来を見据えてという訳ではなかった。ただ出たばかりで平積みになっていたこの本がなんとなく魅力的だったのだと思う。

おそらく一般書のコーナーに置いてあった。



もともと文章術に興味があった。本多勝一「日本語の作文技術」は高校生の時に読み、目からウロコだった。この本は後に何回か頁をめくった。一方、読解力にはコンプレックスがあった。大学受験でも、どうして現代国語の点数があがらないのか悩んだ。そんなこんなで、この本を購入していた。


しかし、この本を購入したことなど、忘れてしまっていた。そして子どもの受験準備で、受験コーナーでの再会である。
「あ、この本!」と心の中で叫んだ。ウチにあるはずだ。まだ絶版にならずに生き残っているのかと少々驚きだった。しかし持っているずの本を、どこにしまってあるのか、にわかには思い出せなかった。なにしろ就職してからこの時まで9回引っ越しをしていて、読まない本はどの段ボールに入っているのか、またはどこかに置いてきてしまっていたから。


そして結局、後日、改めて購入した。
私と息子の「父と子の受験」それは、この本が後押ししてくれたと言っていい。
前半は、父親の中学受験体験記であり、後半に中学入試の国語読解法の“秘伝”が書かれている。
小学生に受験勉強をさせるというのは、(凡人の場合)本人の意志だけではなかなか難しい面がある。家族の様々な支援があって初めて成り立つ、と思う。

この本の詳しい内容はもう忘れてしまったが、確か石原さんは、息子の受験のために引っ越しまでしたように記憶する。不得意な教科をどう後押しするか、親としてどう振る舞うか、言われてみれば親として「当然」のことかもしれないが、それはそれでとても参考になった。

「読解法」の本を何冊も著しているので、当然文章は非常にうまく読みやすい。これをきっかけに、石原さんの本の“愛読者”になった。

石原さんは漱石研究家で現在早稲田の教授。
以下には読書論の著書を紹介する。


ちくまプライマリー新書

「未来形の読書術」石原千秋著(2007 ちくまプライマリー新書)は、高校生くらいに是非読んでもらいたい本だ。読書術というとハウツーもののように思うかもしれないが、そうではない。どういう心構えで「文学」と向き合うことができるのか、また向き合った方がいいのか、わかりやすく導いている。

 石原さんは本書の中で控えめに「もし私の著書の愛読者というのがいるのなら、他で書いたことと重複している」と述べている。確かに「読者はどこにいるのか」(  )などと内容は重なるが、それでも構成が違い、書き方が違うから、新たな気分で読める本だ。



読書に没頭するとはどういうことか。本を読む前にわかること。本が他のメディアと違うところ。ヤウス「読者の期待の地平」、物語の4つの型など本をどう読むか分かりやすく書かれている。


印象深い部分を以下に引用
P21
若いということは今の自分に満足していないということでなければならない。いまの自分に満足している若者は現実にへたり込んだ精神的な「老人」である。精神的な若者はいつもいまの自分に不満を抱えている。だから「理想」の自分へ「成長」しようともがくのである。それは少しもみっともない姿ではない。「大人」はそういう「若者」を暖かく見守るものだ。
現実には未来に書かれた本はない。本はいつも過去に書かれている。しかし本の中に未来形の自分を探したいと願う人がいる限り、本はいつも未来からやってくる。そのとき、本には未知の内容が書かれてあって、そこにはそうありたい自分が映し出されている。これは理想の自己発見のための読書、未来形の読書と呼べそうだ。古典を新しいと感じることがあるのは、そのためなのだ。本はそれを読む人の鏡なのだから、その人が読みたいように姿を変えるのである。