2012年8月23日木曜日

飯豊連峰 14歳の息子と石転び沢を登る 2012年8月10日

山形・飯豊連峰 石転び沢を息子と2人で登った。
8月9日、飯豊連峰の登山口にある飯豊山荘に入る。
http://www.siroimori.co.jp/iidesansou/index.html
飯豊山荘の夕食 なかなかおいしい

ここはなかなかの宿だ。近くの国民宿舎、梅花皮荘(かいらぎそう と読むのだ)
と同系列の経営のようだが、部屋はきれいだし、食事もよい。BSだけだけどテレビも写り、携帯電話も通じる。

受付をしてくれ、食事の準備もしていたひとりの若い女性がいた。小柄で清楚な美人。とても山奥の山荘に似つかわない存在だ。言葉遣いも地の方言ではない。
ふつう、こういうところは地元のおばちゃんたちが働いている。実際飯豊山荘も何人かの気のいいおばちゃんたちが何人か働いていた。
どういう人なのだろうと、翌日雪渓を登りながらも気になった。

さて、本題の登山。
飯豊山荘 2012年8月9日
当初の予定はここに1泊したあと、石転び沢を詰め、稜線の梅花皮小屋に1泊し、そのあと飯豊本山や大日岳をまわり、もう1泊稜線の小屋に泊まって大日杉登山口に降りることを考えていた。
しかし、親族が「死にそう」ということで、急遽、石転びをつめて梶川尾根を下る1泊2日の行程にすることになった。

息子とふたりで小屋泊まり縦走をするのは去年の朝日連峰についで2回目だ。実は私には少し不安があった。もちろん年齢をひとつ重ねたこともあるが、それなりの重量を背負っての登山は1年ぶりだったこと。その間に再びぎっくり腰をやっていたことだ。

温身平から石転び沢に向かう途中の砂防ダム
石転び沢は危険だと言われているが、1度ほとんどカラ身で稜線直下まで行ったことがあり(16年も前のことだけど)、文字通り石が転がってくるのと雪渓の踏み抜きと最後の急登を気をつけていれば、あとは体力勝負だと思っていた。

記憶はあてにならない。16年前、ここにきた時、砂防ダムの堰堤をすぎると20~30分で雪渓に出たように思っていた。ところがここから雪渓まで2時間半もかかった。地図のコースタイムを見ればその通りなのだが、「思い込み」が、重要な情報を見落としていた。

コースタイムより少し遅れて雪渓の取り付きに到着。6本爪クランポンとヘルメットを着用。そしてシングルストックで登り始める。

砂防ダムを超えて1時間半。ようやく見えてきた雪渓
はじめは比較的緩やかな傾斜だ。しかし単調な直登は、けっこうくたびれる。息子を引っ張る形で先頭を行く。30分ごとに、落石の危険がないかどうか見ながら休む。
雪渓の上は涼しく快適。時に吹く強い風は寒気すら感じるほどだった。雪渓上部がちょっとやっかいだった。雪渓が切れるところの強さが分からない。この日われわれより先に登ったのは、単独行くのひとりだけ。踏み跡がよく分からない。あと下ってきた5人パーティーと出会っただけだ。ストックでちょっと突っつきながら慎重に土の上に移る。そこでくクランポンをはずした。
息子は少しくたびれた様子。気を抜くと危ない。クランポンを外してあげ、それを私が持って、時に手を差し伸べて持ち上げた。安全なところまで約15分。ようやく緊張がとけてほどなく稜線の梅花皮小屋にたどり着く。
 管理人にひとり1,500円を支払い、2階に荷物を広げる。水場は近い。豊富な冷水が流れている。クランポンの泥を素手で落としていたら、手が凍るようだった。

雪渓下部の取り付きから 傾斜はそうないように見えるが・・・


雪渓上部まで上がってきた。結構傾斜がある。6本爪で登る

上部から見た8月10日の石転び沢

飯豊は高山植物の宝庫だ







梶川尾根を「下る途中 石転びを見る

稜線からの眺め



梶川尾根は結構キツイ
11日 梶川尾根を下る “緩い”のはここだけ あとは急坂だ

2012年8月17日金曜日

岩手4区 小沢一郎の地元をゆく 彼は旧来の土建政治家でしかなかった

夏休み、岩手の名峰・早池峰山に登った。日帰り登山のできる手軽な山だが、結構遠いのでこれまで行く機会がなかった。早池峰山は岩手県の花巻市(遠野市や宮古市にもかかっている)にある。
立派な道に驚く(速度超過にご注意)
そう、ここは小沢一郎の地元だ。この地域を行くと、小沢は単なる旧来形の土建政治家でしかないことが非常によくわかる。

 花巻市街地から早池峰山へ向かう国道や県道はたいへんよく整備されていて、快適だ。ほとんど人家もないところが多く、道幅も広いため、“安全”に70~80㎞/時で走ることができる。
本当に人がいない。しかし道だけはものすごく整備されている。

 途中、何のための建物なのかわからない小屋で、写真をとった。一郎さんのポスターである。まだ民主党時代のものだった。こうしたポスターは道路沿いのいたる所で目にすることができる。花巻の中心街でも商店の店頭のガラスによく張ってあった。

いたるところで一郎さんはほほ笑みかえてくれる
同じ地方の地域でもお金の配分が少なくところと多いところがある。人口規模も産業構造も似ていながら恵まれたところ、恵まれないところの差。
一郎さんのポスターに「公正な社会、ともに生きる国へ」とあるのが、皮肉にしか見えない。
自分の地元(選挙区)だけは「特別」にしておいて、あとは「公平にどうぞ」ということなのだろう。

別に花巻市民が悪いわけでも民度が低いわけでもない。どの地域でもだれでも自分の住む場所が豊かになることを望んでいるし、地域に雇用が生まれたり活気が出ることを願う「権利」がる。

何の小屋か不明 バス停でもなかっら(と思う)
だが、と、考えてしまう。経済で言えば「合成の誤謬」最近の言い方で言えば、「部分最適」とでも言うのだろうか、それが日本全体(とりあえず日本という器で考える)にとって、はたしていいことなのかどうかは別問題となろう。

花巻は「道の駅」も充実している。宿泊したJR東日本の系列が経営する「フォルクローロいわて東和」の脇にある「道の駅 東和」。8月7日の午後2時すぎ、100台は駐車できるスペースに、営業車らしきライトバン数台と、大型トラックが2台停まっていた。店をのぞくといわゆるお客さんはゼロ。かわりに地元の人らしき2人が、店の奥まった板の間の小上がりで昼寝していた。なんとものどかな光景だ。ホント。

みちの駅「はやちね」
早池峰山登山口に行く途中にも「みちの駅 はやちね」がある。行きに通った時間は午前8時ごろだったので、車が一台もなく店も閉まっていたのは気にならなかったが、帰りに通った午後3時ごろも、やはり車は数台停まっているだけだった。
非常に立派な「建物」と広い駐車場を備えているが、営業しているのかどうかさえ分からなかった。
道の駅を推進する国土交通省は、なんとも太っ腹だ。

Wikipediaによると、「道の駅は、道路管理者の国(地方整備局)や都道府県が基本的な施設である駐車場やトイレを整備し、市町村、またはそれに代わり得る公的な団体(ほとんどは第三セクター)が地域側施設を設置する形が取られる。」とある。
つまり、税金で基本施設が整備され、自治体の関係企業が運営するという形をとっている。なんとも安易な設置だ。

○フォルクローロはJR東日本ホテルズが経営する「長期滞在型リゾート」をうたったホテルだ。

http://www.jre-hotels.jp/ff/

HPによるとファミーリオと合わせてJR東日本管内に8か所あるが、ここ花巻市周辺には旧東和町と隣接する遠野市の近いところに2か所にある。なぜだろう~~。としばし考えてしまった。

JR東日本はよっぽど花巻周辺がお気に入りのようだ。何か深い訳でもあるのだろうかね。

東北新幹線「新・花巻駅」
JRと言えば、東北新幹線の「新花巻駅」にも驚いた。お昼をどこかでたべようと地図を見ながらウロウロ走っていて、新幹線の駅に行けば、ちょっとしてお店くらいはあるだろうと向かった。駅にはそれこそ何もなかった。あるのは広大な駐車場と駅前のドライブイン風の食堂兼土産物店。わざわざここで食べようと思うにはちょっと無理があり、やめた。

新花巻駅は釜石線と接続しているが、駅は無人駅だ。ちなみに釜石線は日に13本、盛岡と釜石を結んでいるようだ。

新幹線の駅で、これほど辺境にある駅を私はしらない。なぜここに駅ができたのか。理解できなかった。

花巻は言わずとしれた宮澤賢治ゆかりの地だ。(生地なのか暮らしただけなのか調べてないので、“ゆかり”とだけ記した) これがまたスゴい。賢治関係の箱モノはたくさんあり、花巻は賢治を売り物にして観光に力を入れているのがよくわかる。

http://www.city.hanamaki.iwate.jp/sightseeing/sightseeing_institution.html
花巻市の観光施設一覧のweb siteだ。
○宮澤賢治記念館 ○宮澤賢治イーハトーブ館 ○宮澤賢治童話村 など新渡戸稲造関係の記念館の類や歴史博物館、歴史博物館、民族資料館など 市が掲げる「観光施設」は40近くある。
中にはアイスアリーナもあったりして、花巻市は文化、スポーツに非常に力を入れていることがわかる。

観光だけではない。旧東和町の中心部には立派な県立病院と老人保険施設があった。旧東和町の人口は2006年時点で約1万人(Wikipedia)だ。どうしてこんな予算があるのか不思議だ。

こうしたことを書き連ねても尽きることはないし、無意味かもしれない。
とにかく分かったのは、小沢一郎の地元は、私の知っている他の地方とはまったく違う、別世界だったということだ。

ちなみに早池峰山は8月上旬だというのにまったく賑わっていなかった。頂上で出会ったのはわずか数組。それでも震災の影響のあった去年に比べて人は多いと管理事務所の人が言っていた。

ついスピードが出てしまうような道です

2012年8月2日木曜日

北島「自分に対しての挑戦だった、この4年間は」に喝采。

時事通信より「引用」
ロンドン五輪200m平泳ぎで、立石が銅、北島は4位。レース後のぶらさがりインタビューで、北島は「3連覇というよりも自分に対しての挑戦だった この4年間は」「悔しいですけど メダルに届かなかったというのは」「でも(立石)諒がとってくれたので悔いはないです」(午前630NHKニュースより)と語った。


インタビューに答える北島の顔は、やっと“本当の自分の気持ち”を吐露できたという、穏やかで充実感すら満ちていた。周囲=熱狂する小市民・大衆とそれを煽るメディアの前で、(もちろんスポンサーへのカオもあっただろうが)3連覇を目指すという以外に、言えることはなかったのだろう。
もし北京五輪後、「これからの4年間は、金を目指すのではなく、自分自身の(精神や肉体)への挑戦です」と言ったら、スポンサーは離れるだろうし、大衆もメディアも振り向かなくなる。プロスイマーとしては、その選択肢はなかったことは容易に想像がつく。
でも彼は、自分自身と戦ってきたのだ。欧米の選手に比して劣る体格、そして年齢、練習による鍛錬とテクニックだけではとても勝ち目がないのは、冷静に考えればわかる。
しかしメディアは北島を勝手に「3連覇を目指す闘士」として勝手に祭り上げてきた。なぜか。そう言うことが新聞や雑誌の部数やテレビジョンの視聴率向上に跳ね返る(と思っている)からだ。
そして「熱狂」を求める愚かな大衆も、そのメディアといわば相思相愛だったのだろう。

「自分に対しての挑戦」、換言すれば「自分自身と戦う」ことが、いかに困難で苦悩に満ちているか、フツーの人ならだれでも経験することだろう。それは受験や試験の勉強の時、ランニングでサブ4やさぶ3を目指すとき。見渡せば「自分」の回りには常に「ラク」な誘惑があり、悪魔が囁いている。
それを、自らの意思だけで振り切ることはそう簡単ではない。だから、一人で勉強するのではなく、講習会に通ったり、仲間作りをして走る「目標」を立てたりするのだ。
反対側からみれば、「金メダル」に熱狂する大衆は、自分自身と戦ったことがない人なのかもしれない。

7月31日朝日新聞より「引用」
さて、きょうの夕刊で新聞各紙はどう書くか。どういう見出しを立てるか興味深い。

その前に朝日の記事を紹介しておこう。7月31日、西村欣也編集委員による署名記事「けっして敗れたのではない」だ。
この方はずっと北島を見てきたからこそ書ける冷静な筆致だと思う。