2011年4月1日金曜日

捨て石について~囲碁から学んだこと~

囲碁を学んで、いまさらながらに気が付いたことがある。碁盤に白と黒の石を置いていき、領地の広さ(目の数)を争う囲碁というゲームは、どういうものなのか。改めて“解読”してみたい。ただしこれはあくまでも初心者の浅知恵でしかないことは、予め断っておく。  

    囲碁の簡単なルールは小学校低学年の時から知っていた。しごく単純なものだ。相手の石を囲えばその石をとれる。「目」に石を入れることができるのは石を取る時だけ。従って(つながっていない)2つの目がある領地は絶対にとられない。この単純さの中に、凡人では考えも及ばないような深く、複雑な動きがあるのだが、それはとりあえず脇に置いておく。

  さて、初心者は(少なくとも私は)、置いた石をすべて「生きる」、つまり相手に取られないように頑張ってしまう。そして結局はすべてを失うのだが・・・。しかしちょっとテクニックを覚えていくと、「捨て石」という考え方が有効なのが分かってくる。私の場合、それは入門書を読んで学んだ。

  「捨て石」とは、 置いた石のいくつかを犠牲にすることで他の領地を生かし、相手より多くの目を獲得するという方法だ。考えてみれば当たり前だ。相手もまた同じように領土を広げようとしていて、いずれどこかで黒と白の石はぶつかり、どちらかが取られるのだから。

  「布石」とは石を置いていく戦略のことである。だから「捨て石」もまた布石のいち方法である。この、ごく当たり前のことに気づいた時、企業経営者や幹部と言われる人々、またヒエラルヒーの真っただ中にいるサラリーマン戦士に比較的囲碁が好まれることとつながった。

  ネットを「囲碁and経営者」などで検索すると、もっともらしい言説が出てくる。曰く、経営トップに立つ者は囲碁で戦略を学ぶとか、逆に、囲碁のうまい経営者は強いなどと。だが「捨て石」に関する記述は見当たらなかったが、実は「捨て石」こそが上に立つ者のキーワードなのだと思う。

  凡人は、すべての人が仲良く生きられるようになればと思う。しかし経営エグゼクティブはそうは思わない。捨て石になる(する)人がいて初めて領土(会社)は守られるのだと。「総資本」対「総労働」とまでは言わないが、労働組合的な皆が豊かにという発想は、経営者側の捨て石があってこそ組織は生きながらえるという考えとは原理的にかみ合わないのだ。

   小沢一郎という人は囲碁愛好家として知られている。これは単なる趣味ではない。彼のこれまでの政治活動、いや政局活動を振り返ると、犠牲を払うことで、より多くを獲得するのだという、囲碁の「布石」=戦略とぴったり符号する。

  企業社会では 「捨て石」状況はいたる所にあるだろう。派遣労働者、季節工などは、最初から捨て石として布石されたものかもしれない。酷なようだがそれが現実だ。大企業の下請け構造そのものもそうだろう。正社員は最初から捨て石として決定して訳ではない。事態が進んでいくうちに次第に捨て石になっていくのだ。それは石の置かれた場所と相手の戦略が複雑に絡み合って決定されていく。

捨て石も、あっさり取られてしまうものもあれば、最後まで「捨て石」としてあることで存在感を示し、重要な役回りを担うこともある(と思う)。でも最後は、やはり犠牲にされる存在なのである。それが捨て石だ。

  社会人1年生として世間にデビューした若い諸君に告げる。組織は必ず捨て石を「必要」とする。社会全体のパイが広がらないのだから、なおさらだ。自分が捨て石になるのかどうかは、いま見てきたように、自身の努力だけでは決められない。相手があり全体状況があって、その形勢判断があって初めて、「経営トップ」によって決定されるのだ。いま自分のいる位置が捨て石になる可能性があるところかどうか、早く悟ることが肝要だ。