2017年11月25日土曜日

小池百合子「希望」への“失望”の本質は何か。

 社会学者の小熊英二氏が10月のアサヒの論壇で書いていたけど、歴史的に新党ブームは1回しか通用しない。それはここ数十年の日本の政治、というか選挙を見ればシロウトでも分かる。古くは新自由クラブ(河野洋平)、日本新党(細川護熙)を思い出すが、その後も新党さきがけ、・・・あとはすぐには思い出せないほどいろいろあった。
 総選挙が終わり国会が始まった中で、「希望」の失速などの検証記事がアサヒにも2日に渡って掲載されていた。解散表明から選挙までのキーマン(キーウーマン)たちの証言や動きはそれないり面白いが、アサヒも検証記事の結語は「排除」だった。でも本当に「希望」の失速は排除の論理が主原因だったのだろうか。いまだに疑問だ。
 「排除」という言葉が一人歩きして国民の支持を失ったというロジックは、単純で分かりやすい。マスメディアはそうした言説で、分かりやすさを強調する。それは裏を返せば、選挙民を単細胞の幼稚な思考しか持ち合わせていない存在と言っているようなものだ。(だからますますメディア離れが起きる)
 
 東京都議選では、トミンは、石原、(猪瀬)、升添と続く、エリート的な強引とも言える都政運営にいささかうんざりしていたところにうまくはまった。石原の強引さで唯一よかったのは「ディーゼルエンジンの排気ガス規制」だけだった。(政治家としてはシロウトの猪瀬は、ここでは無視します)。升添は、アタマがいいから、形の上では合意形成をしながら政策を進めてきたように見えた。でも本人の貴族趣味(成金趣味と言ってもいい)と育ちからなのかお金にセコイところが、結局猛反発をくらった。
 だから小池の「トミンファースト」という言葉に都民は「希望」を見出したのかもしれない。ただしそれは都民に限ったことだった。
 「希望」の失速は、都政なのか国政に関与するのか、党首としてのカオはどうするのか、など政党としてまた方針ととしての分かりにくさが、投票を遠慮する人々が予想外に多かったからではないのだろうか。「排除の論理」も確かに日本的な融和精神からはちょっと違和感があり、それがマイナスに作用したかもしれない。アサヒの検証記事では、キーマンの証言からそれをあぶりだしていたかのように書かれていたが、世論調査の分析など選ぶ方の取材・分析がまったくない、セイジ記者の読み物記事にしかなっていなかった。
 トミンファーストの時も思ったけど、今回の総選挙で最もポピュリズム的だったのは、「希望」だろう。そのことはある程度のリテラシーのある選挙民は感じ取ったのではないか。その反動が「立憲民主党」に流れたといえる。

 20歳になったその日が投票日だった息子は比例は自民党に投票したという。理由は消費税の値上げに対して一番真摯だったからだという。超高齢化社会を迎えるにあたり、消費税は20%にしなければもはや国家はやっていけないのは明らかだ。それなのに8%を10%にすることすら「見直せ」と言う人々を信じられない、支持できないというのは当然の論理だろう。
常套句の「行政の無駄遣いを正す」という言説は、それはそれで部分的には何の批判も受けないまっとうな論理だけど、それで消費税を上げないですむという論理への飛躍にウソがあり、それこそがポピュリズムだということは、まあ、少々勉強している若者には見抜けることだ。
 森本あんりさんの「宗教国家アメリアのふしぎな論理」で、反<知性主義>(反知性<主義>ではない)とポピュリズムは非常に親和性があることが繰り返し指摘されているが、その意味では、希望は最も「反知性主義的」政党でしかないということだろう。
それを分かった上で、選挙に勝ちたいがために乗っかった知性派もいただろうけどね。

 11月30日のアサヒの論壇時評では、小熊英二さんが日高六郎の言葉を引用して、看板より実態が大切だという趣旨のことを書いていた。当然のことであり、「維新」だとか「〇〇ファースト」だとか、「希望」だとか、また「立憲民主党」も含めて、看板をつけかえることで、生き延びようとする政治家、でなかった政治屋の人々にはいささかウンザリだ。「さきがけ」だとか、「みんな」とか「生活が第一」なんてのもあったっけ。
 その意味にでは変わらないのは「自由民主」と「共産」くらいかね。自民党が強い理由は案外このあたりにあるのかもしれない。
 自民党と共産党の性格の“違い”については、よく指摘されているのでわざわざ記すこともないだろうけど、現実主義者が理想主義かという違いにほかならないだけでしょ。