2016年4月23日土曜日

「人生二毛作」と「考える」ということ

 『継続は力なり』とは、本当に的を射たことわざだ。齢を重ねると、この言葉の重みがずんと増してくる。ともかくも“良いこと”を細々でも愚直に続けることは、身に付き、実になる。
外山滋比古さんの本と言えば「思考の整理学」だが、91歳の時に書いたという、この「50代から始める知的生活術~「人生二毛作」の生き方~」は、手軽に読めるということでは、まあ50歳以上の人にはおススめかもしれない。
 言っていることは極めてシンプル。
・規則正しい生活
・身体を動かすこと(外山さんは散歩・ウォーキング)
・“考える”ことを続ける。
・人との会話
・様々な挑戦
・人生不義理・・・無駄な付き合いはやめる
等々だ。
中でも「考える」というのは、結構難しいことだ。トシをとると、深く考えることより経験則から物事を判断しがちだ。そういう“軽薄”な人間は周囲にたくさんいるし、自分もそうなりがちだ。
「考える」というのは基礎となるインプットが正しく、そして演算が合理的かつ理性的になされる必要がある。それを実践するのが年寄の務めだろう。






2016年4月9日土曜日

北島康介が背負っているもの アスリートのこだわりとは何か②

 
netより「引用」
北島は敗れた。「引退」を決めた。
RIOの五輪切符をかけた水泳日本選手権200mブレストでは6位に沈んだ。
 この結果はある面予想されていた。距離が長くなればスタミナが勝敗を分ける。32歳の北島がどんなにトレーニングを積もうととも、20代の若手を越えられないカベがある。
それは50代も後半になった自分が、体力の衰えをどう感じて、どう抗ってきたかを顧みれば、スポーツ選手と一般人の違いはあっても容易に想像がつく。
 彼の本当のねらい目も100mだっただろう。実際準決勝では、派遣標準記録を上回っていたという。その意味では、100mが終わった段階で事実上北島の今回の挑戦は終わっていたのだ。
 
 いわゆるキャラとしては、私は北島はあまり好きではない。でも、試合後の彼のインタビューを聞いていると、きちんとモノゴトを考え、自分の言葉を持とうとしている知的さは伝わってきて、それは共感できた。
 
 2大会連続で2種目で金メダルという輝かしい実績がありながらこのトシまで選手として続けてきたのは、もちろんスポンサーとの関係など様々な要素があったかもしれない。しかしそれだけではない、五輪選手としての「何か」があったのだろう。だからメディアは試合後の彼に群がり、ぶしつけな質問も浴びせながら彼から言葉を引き出そうとしていた。

 彼を突き動かしていたものは何か、それは野口みずきとも重なるが、一度頂点を極めた(五輪金メダルが頂点と仮定した場合だけど)者の心情は、なんとなく分かる気もするし、もっと知りたいという思いも沸く。なぜだかモヤモヤしたものが、アタマの中に残る。腹に落としたいという思いがつのる。
 それは自分もやはり身体を動かすことをなんとか習慣化させているからなのだろう。泳ぎ始めるまで、また走り始めるまで、正直心はいつも重い。自分でやらなくてもいい「言い訳」をいつも考えている。それを乗り越えて泳ぎ始めてやっと身体が起動してくる。「やれやれ、なんとか泳いでいる」と自分の姿をプールサイドのすみから見ているもうひとりの自分がいる。

 北島も野口も、また選手にこだわる人々はそれぞれ、「栄光を勝ち取った」自分の姿を“柱の陰から”じっと見ている自分を感じているのかもしれない。そんなこだわりは、長い人生の先を考えると、どこかで断ち切る必要があるかもしれないし、また反対に、持ち続ける方がいいのかもしれない。それはわからない。

結局、自分は何を書きたいのか、この項を書いていても、書いたあとも、この問題はわからなかった。(笑)。


2016年4月4日月曜日

野口みずきが背負っているもの アスリートのこだわりとは何か

3月の名古屋ウィメンズマラソンなんて、世の中的には、もう「終わった」話だろうし、五輪の代表が決まれば、関心も持たれない話題かもしれない。しかし、この1か月余り、野口みずきのことが、頭の片隅から離れなかった。同じ、「走る者」として(もちろんレベルはまったく違うけど)少し考えてしまった。
 「五輪への最後の挑戦」として臨んだ、アテネの金メダリスト・野口みずきは、選考レースとしては完敗に終わった。が、すでに37歳の彼女を、だれも責めないし、むしろよくやったという賞賛の声の方が圧倒的だろう。彼女自身も、ラストの走りの表情を見ると、自分自身に納得しているように見えた。でも彼女は、その後の会見で引退については「考え中」という言い方で、お茶を濁した。

 金メダリストの彼女が、30代後半なってまで、トップアスリートにこだわるのはなぜかなのか。もちろん彼女自身の中で、納得がいかないということなのだろう。北京での失敗、故障との戦い、などなど、マラソン選手としてやっていて、「本当の私はこんなはずではない」という思いが断ち切れないのかもしれない。それほど五輪とは競技者を惹きつける“何か”があるのだろうか。
ピークを過ぎたどころか、もう勝ち目がないのは、ある面明らかにもかかわらず、こだわる彼女の姿は、失礼だけど「みじめ」ですらある。こうした金メダリストの姿を見るのは非常に忍びない。

「あなたは、もう十分、選手としてやってきた。これ以上トップを目指すことはない。それは誰しも納得している。これからは市民ランナーとして、私たちと走ってほしい」。そう言いたい。

2013年の「やまがたまるごとマラソン」で出会った時の野口さん
話はさかのぼる。
2013年の『やまがたまるごとマラソン』(ハーフ)の第1回のレースでゲストとして来た野口さんは、ずらっと並んだスタートの市民ランナーの集団の中で、中盤にいた。それは私のすぐ前だった。最初に2~3㎞を彼女の背中を見て走った。周囲の多くが、「おお、野口みずきだ」と思ったに違いない。なにしろ五輪の金メダリストなんだから。彼女の軽々とした走りは、多くの人があこがれる走りだ。驚いたのは、奥羽線の跨線橋の坂に差し掛かった時だ。自分も含めて多くのランナーは、当然ながらスピードが落ちる。しかし彼女はフツーに流して走っているだけなのに、あっという間に坂を進み、引き離されてしまった。これがトップアスリートの走りかと実感した。
 彼女はゴール直前で足踏みしながらわれわれ市民ランナーを待っていた。そしてハイタッチ。素直にうれしい瞬間だった。21㎞を懸命に走ったことを祝福してくれた。

彼女はこの時、すでに十二分に、市民ランナーのシンボルとして存在していた。だから各地の市民レースに参加しランナーを励ましてくれる役割として生きる道もあったと思う。
なのに彼女はトップレースに挑み続けた。なぜなのだろう。わからない。

野口さん、あなたは「君原健二」を知っていますか。
http://kimihara.aspota.jp/
君原さんのオフィシャルブログ
日経新聞の「私の履歴書」で君原さんが語っていた、「選手としてのその後」は、参考になる。簡単に言うと、君原さんは新日鉄の社員として過ごしながらマラソンは続け、東京マラソンも初回からずっと出場していた。毎年円谷選手の墓参りを欠かさず、ずっと続けるスポーツとして、マラソンを楽しんでいるような感じだった。70歳を超えてもなお一市民ランナーとして走る姿勢に非常に共感を覚えた。野口さん、あなたには君原さんを目指してほしい。