2016年4月9日土曜日

北島康介が背負っているもの アスリートのこだわりとは何か②

 
netより「引用」
北島は敗れた。「引退」を決めた。
RIOの五輪切符をかけた水泳日本選手権200mブレストでは6位に沈んだ。
 この結果はある面予想されていた。距離が長くなればスタミナが勝敗を分ける。32歳の北島がどんなにトレーニングを積もうととも、20代の若手を越えられないカベがある。
それは50代も後半になった自分が、体力の衰えをどう感じて、どう抗ってきたかを顧みれば、スポーツ選手と一般人の違いはあっても容易に想像がつく。
 彼の本当のねらい目も100mだっただろう。実際準決勝では、派遣標準記録を上回っていたという。その意味では、100mが終わった段階で事実上北島の今回の挑戦は終わっていたのだ。
 
 いわゆるキャラとしては、私は北島はあまり好きではない。でも、試合後の彼のインタビューを聞いていると、きちんとモノゴトを考え、自分の言葉を持とうとしている知的さは伝わってきて、それは共感できた。
 
 2大会連続で2種目で金メダルという輝かしい実績がありながらこのトシまで選手として続けてきたのは、もちろんスポンサーとの関係など様々な要素があったかもしれない。しかしそれだけではない、五輪選手としての「何か」があったのだろう。だからメディアは試合後の彼に群がり、ぶしつけな質問も浴びせながら彼から言葉を引き出そうとしていた。

 彼を突き動かしていたものは何か、それは野口みずきとも重なるが、一度頂点を極めた(五輪金メダルが頂点と仮定した場合だけど)者の心情は、なんとなく分かる気もするし、もっと知りたいという思いも沸く。なぜだかモヤモヤしたものが、アタマの中に残る。腹に落としたいという思いがつのる。
 それは自分もやはり身体を動かすことをなんとか習慣化させているからなのだろう。泳ぎ始めるまで、また走り始めるまで、正直心はいつも重い。自分でやらなくてもいい「言い訳」をいつも考えている。それを乗り越えて泳ぎ始めてやっと身体が起動してくる。「やれやれ、なんとか泳いでいる」と自分の姿をプールサイドのすみから見ているもうひとりの自分がいる。

 北島も野口も、また選手にこだわる人々はそれぞれ、「栄光を勝ち取った」自分の姿を“柱の陰から”じっと見ている自分を感じているのかもしれない。そんなこだわりは、長い人生の先を考えると、どこかで断ち切る必要があるかもしれないし、また反対に、持ち続ける方がいいのかもしれない。それはわからない。

結局、自分は何を書きたいのか、この項を書いていても、書いたあとも、この問題はわからなかった。(笑)。


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