2011年11月30日水曜日

“代償”としての、再びの「ぎっくり腰」

再び、「ぎっくり腰」をやった。今度はじわっと来た。場所は前回(およそ1年前)と腰の反対側である。しかし今回は冷静に対処した。
 
◆経緯
 土曜日の朝、床に広げた新聞をしゃがんで見ている時に、ウッという感じで痛みを感じた。なんだかやばい気がしたが、そっと立ち上がるとそれほどでもなかったので、気を付けながら、この日も習慣にしている水泳に朝8時15分に出かけた。そして午前中2,000m泳いだ。
 悪化し始めたのは午後になってから、昼食を取るころには痛みが次第に大きくなり、昼寝をしたあと夕方には、パンツもはけない状態になった。これもいわゆる「ぎっくり腰」だろう。
 
 しかし今回は冷静に対応できた。
痛みは、座った状態から立ち上がる時、寝た姿勢から起き上がる時に感じる。ずっと立っているのは案外平気だ。なぜなのかは分からないが。
また前回購入したザムストのコルセットもあった。コルセットはそれ自体で症状を改善させるものではないが、痛みがある時、「腰砕け」を起こさないようにできる効果はある。
(もうひとつ意外な効果として、腹が締め付けられるため、つけ始めは便通が良くなる。次第になれてくるとその効果もなくなるが…)
◆対処法
以下はまったくの素人診断とその対処法である。
 椎間板ヘルニアではないと、これまでの経験から自己判断(去年整形外科にかかった時ヘルニハとは言われなかった)していることから、これはインナーマッスルの炎症だろうと断定。炎症が収まれば治ると考えていた。

 もちろん痛みはある。前述したように、パンツを履くのも苦労する。家の中、外を問わずトレッキング用ストックをついて歩く。痛みの走った翌日日曜日はまあ家で安静にすごし、月曜日はストックを2本ついて出勤。翌日、翌々日はストックを1本で出勤した。
 
 1週間もすると腰かけた姿勢から立ち上がる時と朝寝床から起きる時を除いて、ほとんど痛みを感じないので、ちょうと1週間後の土曜日には水泳を再開、日曜日には軽くジョギングも行った。(7㌔程)。 そういう行動をとった根拠は、何冊か読んだ腰痛の書籍に負うところが大きい。


◆書籍から学んだこと
 様々な腰痛の書籍を読む中で、共通していることがある。

▽整体などの施術は一時的な痛みの緩和などには効果があっても、「治療」には至らない。
▽ある程度筋肉を動かす方が、回復は早い。
その訳は、ヘルニア以外の腰痛は、ほとんどが「インナーマッスルの炎症」だからで、いわゆる「つる=こむら返り」だからだと言う。

この2冊は、地元の図書館で借りて読んで参考になった書籍である。基本的にこの2冊の「教え」に従った。
椎間板ヘルニアなど、治療が必要なものは別として、普通の腰痛は安易に整形外科や整体師に頼ることなく、自分で「なんとかする」ことが大切であろう。



翻訳本でちょっとうさん臭い面もあるが、
ななめ読みでつまみ食い



慈恵医大の脳神経外科医・谷諭教授による著書
納得の1冊である。



◆腰痛に対する(素人の)結論

  経験則で言うと、2回の「ぎっくり腰」は、いずれも運動が効果を出して体重が落ちている時に起こったように思う。体重が落ちる時は脂肪が燃焼するだけでなく筋肉にも何らかの影響を与えているのではないか。だから、前回のぎっくり腰の後は、筋トレを心掛けて週に1回を目標に、足腰を鍛えてきた。しかし素人の筋トレではいわゆるインナーマッスルまできちんと鍛えられていなかったのだろう。
 体も急激な変化には弱い。体脂肪も本当にゆっくりゆっくり落としていった方がいい。

 体脂肪率、ひとケタを維持するのは、このトシになると結構たいへんだ。目標にしてからかれこれ2年かかっただろうか。体重が落ちる時は一直線ではない。運動を同じように続けていても足踏み状態が続き、ある時押し始める。一定程度落ちるとまた足踏みが続く。この繰り返しだ。

 体脂肪減少の「代償」としての一時的な「ぎっくり腰」。これは「つりやすい筋肉」の持ち主なら致し方ないのかもしれない。
 腰痛のある方、ご参考にどうぞ。


2011年11月18日金曜日

TPPは「国論を二分」するほどの問題なのだろうか

「刺激」と「共感」。この2つが、大衆がメディアに求めている要素だ。

 テレビのニュース番組や新聞に限らず、(というか雑誌の方がより顕著だが)、センセーショナルな見出しと記事の扱い、そして・視聴者・読者に寄り添っていることを装う内容が、顧客を獲得し、視聴率や部数を伸ばす最も“安易”かつ“安上がり”な方法である。
 
 環太平洋パートナーシップ協定(通称TPP)に関する報道もまた、メディアにとっては結果としてその「刺激」と「共感」を生む道具でしかなかった。「結果として」というのは、伝え手は、その時その時でおそらくささやかな正義感と使命感に支配されながら善意で伝えていただろうから。それが「合成の誤謬」として結果としてどうなるかまでは計算していないから「結果として」なのである。悪意であればそれを攻めたてることは容易だが、善意にはそれがしにくい。特に日本人は。
  
 TPP報道を通じてメディアは、そのマッチポンプとしての機能を顕著に表していた。

 TPPは、国論を二分していたのか?.
10月の世論調査では「協議への参加反対」は10%だった。そして11月の世論調査では20%。賛成は36%。(そもそも電話によるRDD方式という世論調査自体に問題があるが、それは別項で考察することに。)

 この間何か状況が変わったというのだろうか。何も変わっていない。ただ反対派の活動が次第にエスカレートし、それが連日メディアで取り上げられることによって、更に反対派の活動は活性化する。このサイクルがメディアとしう触媒によってなされただけだ。実際、世論調査ではどの社のものでも、「わからない」「どちらとも言えない」が一番多かった。これはこれでまともな見解だろう。
 
 伝え手の未熟さと勉強不足は、主に2つの「主張」に回収されていた。ひとつは「政府は国民に説明を」という説明責任論であり、もうひとつは「TPPによって困る(と主張する)人々を繰り返し、取り上げる」分かりやすい、つまり安易で思慮のない報道である。 

 世の中の人がよくわかっていないTPPの内容やメリット、デメリットについて、「政府の説明不足」という、いくつかの「ニュース・ショー」で聞いたフレーズはそらぞらしく、メディアの当事者意識のなさを吐露していた。
 一般の人々がわからいことに「共感」して、自分たちも「わからない」と言いつのっているだけでなないか。いったいどんな内容ををどんな方法によって国民に「説明」するべきなのかは、まったく語っていない。自分たちも「よく分からないこと」を「政府は説明せよ」と愚痴を言っているようにしか見えない。勢い、分かりやすい、取材しやすい、書きやすい、「刺激的」な方向にベクトルは向く。

 反対運動そのものを取り上げること。困っている農業現場をとりあげる。これを刺激的かつ、読者・視聴者が共感できるように味付けして報道することが、王道となるのだ。

 また新聞のよくやる手は、賛成・反対の2人の論者の意見を「対論」として載せる記事である。これが有効である場合もあろうが、TPPに関して言うと、ハナから意見のかみ合わない、別の材料でお互い論じている識者の考えを並べても、なにも生み出していないということだった。

 一方は日本農業を擁護し、衰退を心配する。もう一方は、中小零細の、いわゆる町工場の生き残りや大企業の海外移転加速を懸念する。どちらも総論としては「正しい」ものを並べても、まったく無駄とは言わないが、あまり建設的ではない。

 まともなメディアならば、農業擁護論者にこそ、工業製品の貿易立国として生きて生きた日本の企業はどうなるのかと聞くべきだし、TPP推進論者には、農業はどうするのか聞くことが、本来の役割なのではないか。それが聞けないところに大手メディアの脆弱さがあり、そのことにうすうす気が付き始めた善良な人々が離反し始めているように思う。

 直面する課題を「深化」させる工夫をすることなく、「国論を二分している大問題」として、刺激に大上段でぶちあげて、それぞれの主張を“そのまま”載せる、あるいは映像化することのむなしさを感じないわけにはいかない。

 
 余談になるが一番滑稽だったのは、頑なに「反対」を唱え続けた民主党の 山田正彦元農林水産相と原口一博前総務相だ。
 反対運動中の山田氏のあの苦悩に満ちた顔は、農業を心配する苦悩ではなく、振り上げた拳を下ろすことができなくなって困った苦悩だったのだろう。
 野田首相が「協議への参加」という言い方で参加表明した後、「参加と言わなくてよかった」とホッと胸をなでおろしたのは、拳のもって行き先があってよかったという安堵にしか見えなかったのは私だけだろうか。

 いまどうしてるんですがね、山田さん。

この表情は何を物語るんだろうか


2011年11月14日月曜日

「国益を最優先に・・・・」という言葉のいやらしさ

  TPPを巡る首相や政府・与党、また野党の中にも「国益を考えて」とは「国益を最優先に」とか言っている。「国益」という言葉にはひっかかる。自分の国さえよければよいという本音が見え隠れしてはいまいか。

 「世界はグローバル化している。もっと広い視野で考えるべきだ」などと木で鼻をくくった言い方をするつもりはない。ただ今や「国」単位で物事を考える時代ではないのではないか。
 今度のTPP参加騒動のような利害に直結した話しになると、決まって偏狭な思いが頭をもたげてくるこの国のメンタリティーを問題にしているだけだ。これは何も日本人だけではないだろうが。

 家族→ムラ(コミュニティー)→世間(生活圏の人間関係)→小社会(都市機能を含んだエリア・都道府県)→日本→東アジア→環太平洋→世界→地球・・・・

 このようなカテゴリー分けが適切かどうかわからないが、こう書きだしてみると改めて見えてくるものがある。われわれはこの世にあって、家族を大事にしている(していない人もいるが)が、家族だけでは生きていけないから、より大きな枠組みに身を置いていきる。

 単純に言えば、人は農村では教育機会も職業も限られるので都会に出るし、産業は生産現場や市場をより広いエリアに求めていくのは、自明の流れだ。
 東京都内の農地や農業を守るため、埼玉県の農産物に高い関税(のようなもの)をかけるべきだという人はいないだろう。人が地域だけで生きられるよう、すべての市町村に農地から都市機能まですべてを備えるべきだという人もいまい。
 国内問題と国際関係はまったく違うというかもしれない。確かに一律には比べられないが、構図は同じである。そして何をどう守るのか、考える基礎になるのではないか。
 
 議論は、どちらが「国益に叶うか」に終始していた。これから「開発・発展」する国々も含めて、ともに繁栄できる生き方を探っていこうという前向きな発想は、今回のTPPの論争において、推進派にも慎重・反対派にも感じられなかった。日頃、アジア、全世界の人々と手を携えてとか言っている社民党なんかもTPPに関して「国を守れ」と言っているのは、ほとんどパロディに近い。

 もちろんアメリカ合州国を始め、各国はそれぞれ「国益」優先の思惑で動いているのは承知の上だ。だからこそ、それを乗り越える「大きな物語」を提示してほしかったな、野田さんには。
もしかしたらこの人は、そういう思いを持っていたのかもしれないが、様々な立場の人に配慮して「国益」と言わざるを得なかったのかもしれないが。

 全中(全国農協中央会)の会長がドスの利いた声で反対を叫ぶ姿は、悪いけど、この人の視野の狭さと、むき出しの利己主義的思想しか見えてこなかった。この人は国を守ると言っているが、実は、黄昏ている農協を守ることしかアタマにないのだろう。その応援団の議員たちのパフォーマンスも滑稽なものだった。

 11月06日の日経新聞「今を読み解く・TPP問題と日本の農業」で、経済金融部次長が署名記事で「毎日の食を担っている農業が滅びていいなどと思っている人はいない。けれどもその代弁者としての団体が拳を振り上げ叫ぶ姿には違和感を覚える。政治家の署名を集めて公表し、考え直せ迫るような手法に至っては、弱者の側を装う脅しのようだ。」と書いていた。そして「市場を開くか閉ざすか、保護か競争。生かすか殺すかといったいびつに単純化した論点になっている」「1999年のウルグアイ・ラウンド合意。11兆円、66兆円ものお金を投じて効果はあったのか。その検証も曖昧。」と指摘していた。まったく同感である。

単純な議論と権益団体の利益擁護運動、それに惑わされ、動かされる「大衆」という図式は古典的でさえある。なぜこの国では、こうした議論が深化しないのだろうか。

信用できない理由~「言説」を変えるには説明が必要だ~

前回の追記。
朝日新聞は、2011年11月13日の社説「政治を鍛える」で、「ひとたび総選挙で民意が示されれば、基本的には4年の任期を全うする慣行の確立が求められる」と論じた。またしてもあれれ・・である。 常日頃から、重要な政策決定には解散して民意を問えと訴えていた社説とは180度違うではないか。またこの社説では「衆院『尊重』の慣行を」とも言う。これもぶれた。民主党が初めて参院で第一党になった時、参院に示された民意をくみ取れと注文していたのではないか。

 この変節はどうしてなのか。あまりにも混乱し、足を引っ張りあう政治(業界では政局と言うらしい)の在り方に、さすがにまずいと思い始めたからだろう。おそらく。 それはそれで判断としては妥当だ。しかし社説を変えるのなら、読者、それも長年購読している定期購読者に対して、説明が必要なのではなかい。なぜ説を変えたのか。変えた理由はなにか。変えるに至った社内の議論はどうだったのか、検証すべきだ。

だって新聞は日頃言っているではないか、政府に対して、「もっと国民に説明を」と。その言葉をそのまま返したい。さもなくばますます読者は減っていきますよ。ご都合主義では。

 と、まあ新聞だけを責めてもちょっと酷かもしれない。

 自民党総裁・谷垣禎一氏は自民党の政治家としては結構まともで頭脳も明晰な人だと思っていた。彼はかつて日本の政治について、日本の政治には「解散」があり、そのためどうしても「政局」というものができてしまい、政治運営が行き詰まることがあると、日本の政治制度を嘆いていた。まっとうな認識である。

 しかし今彼は、自身が総理大臣になるには自分の総裁任期中に解散総選挙して勝利する以外に道はないと悟ると、これまでの言説や彼の本質的思考とは関係なく、常に与党の粗探ししと批判、そして解散総選挙を叫ぶことに終始するようになった。これは看過できない。

政治家を信用できないという大衆的一般世論(そんなものはメディアが作りだした幻想かもしれないが)とは別の次元で、「政治家としての、人を信用できない」という思いだ。

「人の醜さ」とは何かといえば、それはこうしたご都合主義にほかならないが、そうせざるを得ない「大衆社会」そのものが問題なのではないかと、オルデカなら言うだろう。

2011年11月12日土曜日

ランナーズハイ

NHK出版刊
 
すこしずつ走るようになって、走ることの「意味」をいろいろな角度から考えるようになった。いまのところ一番影響を受けたのは、このブログにも以前少し書いた、村上春樹さん「走ることについて語るとき、ぼくの語ること」だ。
このことについては、別項で考えたい。

キワモノ本をひとつ紹介。 「脳を鍛えるには運動しかない」。
なんて分かりやすい、しかし安易なタイトルなんだろう。原題がどういうタイトルなにか、すでに図書館に返してしまったのでわからないが。



要するに、多くの人が感じる運動して爽快感を味わうと、他のことにも好影響を与えるということを、最新の“科学的知見”でいろいろ言ってる書籍だ。
これが科学的なのかどうかはわからない。が、運動している身には、なるほどねと、妙に納得する記述が多々あるのも確かだ。きっと、自分が日頃運動して感じていることを“科学的に”補強してくれているからなのだろう。自分に同意を求める「無意識」に心地よく働きかけてくれている。

この本の中で「ランナーズハイ」について触れられている。確か、これは「走ることに」にしかない気分の高揚で、他のスポーツではないと書かれていた。

しかし経験から言うと、そうでもない。泳ぐこと登ることにおいても同じような身体的気分になることを経験することがある。最近ようやくコンスタントに2,000mを泳げるようになったが、1,200mを越したころから、なんとなく脱力してすこしラクに泳げる。スピードは落ちるが、持続性は出てくるのだ。

登山でも同様だ。単調なだらだら道を歩いていると飽きてくる。しかし足が妙に軽くなる時がある。走ることについて、私のようなビギナーでも5,6㌔mあたりまでは苦しいが、それをすぎると
これもスピードは出ないが時間は稼げるようになる。いずれにも共通しているのは、割と単調な動きを反復している時だ。

誤解を恐れずに言えば、それは苦しみの後にやってきたエクスタシーだとも言える。

コンスタントに運動をするようになって身体的に変わったこと。まず睡眠がラクだ。床に就くと5分もたたずに寝られる。運動しなかった日はそうはいかないし、夜中に目が覚める。肩こりがなくなった。食事がおいしい。お酒はごく少量でOK。これらと運動に「因果関係」があるかどうかはわからないが、そう感じることは確かだ。本を読む量はあまり変わらないかな・・・。

2011年11月10日木曜日

「新聞社説」の憂鬱

ユーロ危機にあってギリシャ救済に関する国際公約を国民投票にかけるという(結局はなくなったが)首相の判断を、購読しているある新聞は社説で「危険なかけ」と断じていた。
そのこと自体は常識的な主張だろう。何しろ世界中がギリシャ首相の判断に驚いたのだから。

 しかし、あれれ…である。この新聞は日頃、国内政策に関して、重要な事案は解散して信を問えとか、国民投票、住民投票による「直接民主主義」を唱えていたんでないの。これでは日頃の主張とはなんなのかと思ってしまう。こういうのを都合主義と言うのだろう。

 「ギリシャも国民投票を行い、その結果ユーロ各国の支援がされず国が破たんしても、それは国民が選択したことだ」と主張するのなら、日頃の社説との整合性はある。このへんに新聞の「苦悩」を見てしまった気がした。 

 かつて高度成長のころ、日本という社会には希望があり、確かに物質的に次第に豊かになっていった時代だった。もちろん、水俣病のような深刻な公害被害や薬禍、交通戦争、大きな事件、事故もあり、被害に遭われた当事者には、重大で忌まわしい時代であったと思うが、総体として、多くの人々には、少なくとも今よりも豊かになっていくことを実感できた時代だったろう。オイルショックやインフレもあったが、国や地方自治体は増える税収の使い道を考えていればよかったし、労働組合も賃上げを叫んでいればすんだ。

 そういう時代にあって新聞もまた、世の中の不幸を嘆き、政治や行政、そして大企業などの「権力」批判をしていれば読者は満足し部数も伸びていったのだろう。それが新聞の生きる道として。
 佐藤栄作が首相退任会見で新聞を締め出したのは、(そのこと自体は大人気なく稚拙な行動だが)、背景に、長年の新聞の権力に対する「態度」に対しての不満が爆発したものだ。

 しかし新聞はじめマスメディアが権力を批判をしていればいいという時代は終わった。これだけ複雑化し、月並みな言い方をすれば価値観が多様化し、ひと言では言い表せないからみあった利害関係があり、地球をみれば多民族が70億人住む事態に、簡単な答えはない。

 社説も当然方向性が定まらない。ぶれる。それを多様な事態に対応した言説と見るか、ご都合主義と見るかは読者によるだろうが、わたしは何かしっくりこない。社説が首尾一貫していないからけしからんと言っているのではない。世の中の迷走と同じようにメディアの主張も迷走していることを感じているだけだ。

 なぜ社説を問題にするか。その辺のエセ知識人やタレント学者の言説と違い、クウォリティーペーパーの社説を書く人間は間違いなく知識人であり、それも様々な分野の専門知識人の“熟議”を経ての言説だろうからだ。それが定まらないということは、苦悩であろう。

 確かなのは「社説」が“多様化”すればするほど、新聞はクウォリティーペーパーとしての地位を失っていくということだ。大衆紙と変わらなくなっていく。

 そのことに、新聞自身が気づいている。

 このところの社説は権力批判をする返す刀で「大衆」への啓蒙的説教もよく見るようになってきた。その典型が、この項に「引用」した朝日11月7日の社説である。 
2011年11月7日朝日社説を“引用”



ポピュリズムという言葉は、新聞やテレビは注意深く避ける。見てくれる、購読してくれる人を批判することは、自殺行為だからだ。しかしホンネはそこにある。
「世論調査政治」「テレポリティックス」の責任はマスコミ自身にある。いまさら「熟議」とか「輿論」の喚起とか言い出しても、もう大衆は元に戻れないかもしれない。
 東日本大震災の一連の報道は、「昔の悪いクセ」が出て行政の責任、説明不足、対応の遅れを批判するオンパレードだった。
 確かにご指摘の面は否定しようもなく、実際政治や行政の対応にもどかしさを感じていた人が大多数だったことも確かだろう。が、あれだけの大惨事の中で、放射能問題にしろ復興にしろ、もう少し冷静な伝え方はなかったのだろうかとも思う。

 「要求」しているだけでは希望も豊かさも逃げていってしまうことが自明の世の中になって、新聞の「わが社の主張」は、苦悩している。

検察証拠ねつ造事件など、新聞がはたいている役割は依然大きいことには変わらない。だからこそご都合主義から脱皮した、もう少し質をあげた「主張」を展開してほしいし、そういう社説を読みたい。



財務省は悪ものなのか

経済政策は、どうしてこうも両極端の意見が対立するものなのか。
いわゆる「大きな政府」「小さな政府」論のような大きな“物語”でなく、マクロ政策においてである。

 ある学者は国債の発行をやめて財政再建しないと国が破たんすると言うが、正反対に景気対策にはじゃぶじゃぶ公共事業を行う必要があり、日本の中でお金が回っているので借金の心配はいらないという言う学者もいる。

 デフレは悪だという言説に対して、デフレは悪くないという著名学者もいる。成長がなければ経済はへこむという意見と、もう成長は見込めないのだから定常型社会を目指すべきだという人もいる。ゼロ金利はいけないという人ともっと量的緩和をしろという意見もある。

 こんなにも違う意見が乱立する経済、おそらく世間の人々(大衆)は本当に理解しているのだろうか。月例になった新聞やメディアの「世論」調査(「輿論」ではないところが悲しい)で、政府に望むことというと、必ず「景気対策」という項目がある。なんと無意味な質問なことだろう。
景気対策をどう行うかが問題なのに、「景気対策」という答えしか用意していない調査なんて一般大衆をバカにしているか、さもなくばこういう設問をするメディア各社が愚かなのかどちらかだろうが。

 ともかく、経済政策におそらく「正しい道」なんてない。あるのは何を選択するかという「決断」だけだろう。しかしその決断はしばしば大衆迎合的、もっと端的に言えば人気取りの政策が決断されてきた。故人を責めてもしかたないが、小渕は「世界一の借金王」とうそぶいて国債をがばがば発行した。それが景気にどれだけの効果があったのかは、ほとんど検証されていないのではないか。(検証した論文があれば教えてほしい。是非読みたい。)

 政策がどうしても大衆迎合的になるのはどの政党でも同じかもしれないが、国の天文学的な国債発行残高をどうするかは、真剣に考えられていない。政治の尻ぬぐいは「あとは官僚におまかせ」といったとこだろう。

  財務省は政治家が人気維持のために「決断」した国債発行を、この国を今後も維持するためになんとかしようと必死になっている、と思う。その表意が細川内閣の「国民福祉税」構想などの仕掛だったのではないか。

 私はなにも財務省の応援団でもシンパでもない。が、冷静に見ると総体として財務省(旧大蔵省)は、少なくともバブル崩壊以後は必至になっていると。残念なのはそういう役所にあって、一部の愚かな高級官僚が不祥事をおこしたことだろう。

 権力(のようなもの)を攻めたてていれば気の済む大衆と、そうした大衆を読者とする雑誌などのイエロージャナリズムが、ここぞとばかりに財務省をスケープゴートにして、面白がった。財務省陰陰謀説などという言葉も、不祥事以後よく聞くようになった。

 で、消費税10%問題である。われわれの子・孫にも日本が持続していくためには、最低限必要な税だろう。だれだって増税は困るが避けることができない道だ。

 それでも財務省を陰謀の悪人に仕立てて喜んでいるこの国の人々は、10%の道をふさぐのだろうな。悲しい。