2011年11月14日月曜日

「国益を最優先に・・・・」という言葉のいやらしさ

  TPPを巡る首相や政府・与党、また野党の中にも「国益を考えて」とは「国益を最優先に」とか言っている。「国益」という言葉にはひっかかる。自分の国さえよければよいという本音が見え隠れしてはいまいか。

 「世界はグローバル化している。もっと広い視野で考えるべきだ」などと木で鼻をくくった言い方をするつもりはない。ただ今や「国」単位で物事を考える時代ではないのではないか。
 今度のTPP参加騒動のような利害に直結した話しになると、決まって偏狭な思いが頭をもたげてくるこの国のメンタリティーを問題にしているだけだ。これは何も日本人だけではないだろうが。

 家族→ムラ(コミュニティー)→世間(生活圏の人間関係)→小社会(都市機能を含んだエリア・都道府県)→日本→東アジア→環太平洋→世界→地球・・・・

 このようなカテゴリー分けが適切かどうかわからないが、こう書きだしてみると改めて見えてくるものがある。われわれはこの世にあって、家族を大事にしている(していない人もいるが)が、家族だけでは生きていけないから、より大きな枠組みに身を置いていきる。

 単純に言えば、人は農村では教育機会も職業も限られるので都会に出るし、産業は生産現場や市場をより広いエリアに求めていくのは、自明の流れだ。
 東京都内の農地や農業を守るため、埼玉県の農産物に高い関税(のようなもの)をかけるべきだという人はいないだろう。人が地域だけで生きられるよう、すべての市町村に農地から都市機能まですべてを備えるべきだという人もいまい。
 国内問題と国際関係はまったく違うというかもしれない。確かに一律には比べられないが、構図は同じである。そして何をどう守るのか、考える基礎になるのではないか。
 
 議論は、どちらが「国益に叶うか」に終始していた。これから「開発・発展」する国々も含めて、ともに繁栄できる生き方を探っていこうという前向きな発想は、今回のTPPの論争において、推進派にも慎重・反対派にも感じられなかった。日頃、アジア、全世界の人々と手を携えてとか言っている社民党なんかもTPPに関して「国を守れ」と言っているのは、ほとんどパロディに近い。

 もちろんアメリカ合州国を始め、各国はそれぞれ「国益」優先の思惑で動いているのは承知の上だ。だからこそ、それを乗り越える「大きな物語」を提示してほしかったな、野田さんには。
もしかしたらこの人は、そういう思いを持っていたのかもしれないが、様々な立場の人に配慮して「国益」と言わざるを得なかったのかもしれないが。

 全中(全国農協中央会)の会長がドスの利いた声で反対を叫ぶ姿は、悪いけど、この人の視野の狭さと、むき出しの利己主義的思想しか見えてこなかった。この人は国を守ると言っているが、実は、黄昏ている農協を守ることしかアタマにないのだろう。その応援団の議員たちのパフォーマンスも滑稽なものだった。

 11月06日の日経新聞「今を読み解く・TPP問題と日本の農業」で、経済金融部次長が署名記事で「毎日の食を担っている農業が滅びていいなどと思っている人はいない。けれどもその代弁者としての団体が拳を振り上げ叫ぶ姿には違和感を覚える。政治家の署名を集めて公表し、考え直せ迫るような手法に至っては、弱者の側を装う脅しのようだ。」と書いていた。そして「市場を開くか閉ざすか、保護か競争。生かすか殺すかといったいびつに単純化した論点になっている」「1999年のウルグアイ・ラウンド合意。11兆円、66兆円ものお金を投じて効果はあったのか。その検証も曖昧。」と指摘していた。まったく同感である。

単純な議論と権益団体の利益擁護運動、それに惑わされ、動かされる「大衆」という図式は古典的でさえある。なぜこの国では、こうした議論が深化しないのだろうか。

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