2014年12月13日土曜日

剱&槍 息子と登頂の記 ~56歳の記録として~ ②槍ヶ岳 

一瞬晴れた時に撮影 久しぶりに見た姿だった
8月下旬、仕事も再開し「夏休みも終わりか~」などど通勤電車でボケッと考えていたが、剱に登った“感動”が忘れられず、この夏の間にもう一つという意欲が湧いてきた。

普段走っても泳いでも、筋トレをしても、あまり楽しいとは思わない。もちろん終わった時の達成感はあるが。しかし山は違う。苦しくてもその過程も結構好きなのだ。それが同じ身体を動かすことでも決定的な違いである。

で、穂高か槍に狙いを定めた。上高地へなら車でのアクセスも比較的たやすい。問題は天気だ。日本列島に前線が停滞し、ぐずついた天気が続いていた。

特に今年の夏は、週末ごとに北アルプス周辺は天気が悪かった。
槍岳山荘のブログにもそのことが記されていた。

8月最後の週末、それは決行された。
29日(金)。朝5時に東京を出発して槍を目指す。松本で中央高速を降り、沢渡の駐車場へ。
金曜日ということもあり、駐車場はがら空きだった。幸い天気はいい。青空も見えている。

バスに乗り換え、お釜トンネルを越えて上高地へ。思い出すと上高地に来たのは確か91年に中継の仕事で来て以来だ。夫婦で槍・穂高を目指したのは更に前の89年か90年。実に24,5年ぶりだ。

あの頃はまだ高山に抜ける安房トンネルもなかった。釜トンネルもまだ岩がむき出しだったように思う。それが快適な道に変わっていた。

上高地に着いたのは11時ごろ。結構賑わっていた。この日は横尾山荘までだ。身支度をし、妻が翌日泊まる予定の西糸屋に下りてきた時の着替えなど少しの荷物を預け、河童橋で「記念写真」をとって、梓川沿いの道を歩きはじめた。快適な日だった。

途中、コースを離れ嘉門次小屋でイワナを食べる。息子が事前に調べていて、どうしてもイワナを食べたかったという。ざるそばとイワナのセットは、快適な天気と少し歩いて適度に空いた腹には、たいへんおいしかった。

徳沢では、ヤマケイの催し物をやっていて、メーカーなどのブースが並んでいた。それぞれのブースを回りながらクイズに答えると、さまざま品物をくれる。楽しい時間をすごした。この時手に入れたのは、コーヒー、真空パックのパン。ホイッスル、手ぬぐいなど結構な戦利品だった。

横尾山荘も建て直されていた。快適なかいこ棚の寝床。食事もうまい。風呂もある。
後で上高地の西糸屋の主人に聞いた話だけど、横尾山荘も地元の旅館組合に加入したそうで、「もはや旅館です」ということだった。
まあそうは言っても電気も来ていない場所。山小屋としての機能や体裁を保ちながら、観光客の取り込みにも力を入れているということなのだろう。

翌日の天気がどうなるかだけが心配だった。前線はあいかわらず本州のど真ん中に停滞していて、いつ雨が降ってもおかしくない状態が続いていた。

この時点ではまだ槍に行くか、穂高にするか正直迷っていた。
実は20数年前、この地を訪れた時、徳澤から槍を目指したのだが、妻が初めての「高地」で体調を崩したのと天候が悪化して、槍岳山荘まで行きながら、テッペンを極めることなく撤退したことがある。今から思うと軽い高山病だった。この時は、いったん横尾山荘まで戻り、翌日、涸沢~奥穂高へ回りった。この時、ザイデングラードで滑落した人がいて、道すがらに血の跡がポツポツついていたのを思い出す。あとで新聞を見たら初老の一人登山者が亡くなっていた。

話が逸れた。さて、8月30日、朝。5時すぎに外に出てみると晴れているではないか。うっすらと雲がかかっているがところどころ青空も見える。槍に決めた。

息子にそう告げると、本人も納得。準備にとりかかる。5時半に小屋の朝食をとり6時ちょうどに横尾を出発。妻は上高地に戻るだけなので、ゆっくりだった。

横尾山荘の前には「←上高地 11k →槍ケ岳11k」とう標識が立っている。どちらに進んでもちょうど11㎞ということだ。もちろん槍に行くには標高差1,400mを登らなければならないけど。

小屋泊まりなので背中の荷はそう重くない。今回は湯沸しのストーブもコッフェルも持ってこなかった。中味は雨具と着替えが少々、行動食と宿に頼んだ弁当(これがパン食だった)、あとはヘルメットとストックを2人で1組、ヘッドランプなど小物だ。

水は十分に持った。槍沢で補給もできるが、水1.5リットルとスポーツ飲料1リットルを持った。
快調に梓川沿いを進む。槍沢小屋までは地図のコースタイムだと1時間40分。しかし1時間ちょっとで到着した。少しペースを上げ過ぎかとも思ったが、天気もまあまあ、体調もよく無理なく行けた。

槍沢小屋で小休止、5分程の休憩で再び歩き出す。ほどなく小さな幕営地につく。ここが地図上の「ババ平」なのか赤沢岩小屋(跡)なのか分からなかった。たいらで水もすぐある。テントを張るには絶好の場所だ。3人ほどが幕営していた。われわれは水を補給し、行動食を少し取ってすぐ歩き出す。

しばらく行くと、水俣乗越分岐に行きつき、谷は左に大きく曲がる。天気がよければ槍の頂上が見渡せるのだろう。あいにく雲にかかっている。ちらほら下ってくる人たちと出会う。6時過ぎに槍岳山荘を出れば、1時間半~2時間でこの辺になるのだろう。ストックを出してひたすら谷を詰める。

途中、雪渓も小さいながら残っていた。100mほど雪渓の上を歩いて右岸に取りつく。ここからは傾斜もきつくなる。それでも意外と足は軽い。

槍の穂先に最後の登り
しかし、高度は次第に上がり、傾斜もきつくなっていく。いつしか森林限界を超え、草もなくなり、石ころだけの登山道を進む。大槍山荘への分岐近くで、昼ごはんにする。横尾山荘の昼食弁当は、モダンだ。クロワッサンと野菜ジュース、アルミパック入りのシャケフレークなど行動食になっている。もの10分もかからず食事がおわり、ちょっと一息入れて出発。すでに槍岳山荘は見えている。ここからが最後のひと踏ん張りだ。

息子は3,000m級の高度にはあまり慣れていない。最後の登りは足どりが重くなっていた。息子を見捨て、振り切って山荘まで到達した。
ハッハハハ…。まだ負けておれんよ。

ちょっと遅れて息子も小屋前に到着。
山小屋前の椅子でひと休みして、荷物をおいて、山頂を目指す。天気があまりよくない。槍の穂先が見えたり、またすぐ霧で隠れたりしている。カメラとペットボトル、雨具、手袋だけ持ってヘルメットをかぶって岩場を進む。

足場を見ながら登っていたら、山の北側へ回り込んだ所で、ステップを踏んで一段上がった際に
頭を岩にぶつけた。結構ゴツンと。ヘルメットが初めて役に立った。さすがに岩場となると、息子の方がスムーズだ。

頂上では何も見えなかった。残念
最後の梯子を、順番を待って登ると山頂だ。祠(ほこら)は狭い山頂の一番奥にある。10数人いたが、ほとんど身動きできないほどの混雑である。ヘタすると滑落する。団体さんが下ったあと、ゆっくりするが、天気は霧が濃くなり、何も見えない。残念な山頂である。トホホ。

槍岳山荘に泊まるのは、確か89年ごろだったので25年ぶりくらいだ。その場にくると25年という時間が急激に近づいてくる。詳細な記憶はほとんど残っていないが、感じ方は、つい2,3年前のことのように思えてくるのだ。単なる懐かしさとはちょっと違う。かと言って強烈な思いでという訳でもない。うまく説明できないなんとも言えない「気分」だ。山にはそういう不思議さがある。

さて、山荘に戻ってもまだ正午だ。下ろうかとも思ったが、雨も降ってきて、足には結構疲れがきていたので、のんびりすることにする。長い午後を過ごすことになる。
山頂直下のハシゴを下る。もちろん一方通行

槍岳山荘は朝のベーカリーなど「近代化」の部分はあるが、部屋の布団はまだ「旧体制」だった。
重い綿の布団と毛布は25年前と変わらないように思えた。

 これは、剱山荘と剣沢小屋が近くで競争関係にあり、部屋の近代化を進めているのとは正反対だ。槍岳山荘グループは一体の小屋を経営していて、競争原理が働かないと言っては言い過ぎだろうか。談話室などはきれいで過ごしやすいが布団までは設備投資が回っていないように思った。

食事はまあまあだけど。
この秋、「カンジャニ8の明日はどっちだ」で槍岳山荘で修業する青年の話題をやっていたから見った人も多いかもしれない。












2014年10月18日土曜日

大田区立図書館とのバトルの記①。 「公共物」について考える

大田区立図書館でのできごとから考える。

洗足池のほとりに立つ大田区立の図書館
先日(と言っても3か月も前になるけど)、大田区立のある図書館で新書を借りた。
(「こどもの貧困」(岩波新書))。初めから借りることを決めていたので、書庫から取り出しそのまま借りて帰って家で開いてみたら、なんと書き込みがあるではないか。鉛筆書きだったが、いたるところに線が引いてある。

書籍の内容からいって、おそらくボンクラ学生かなんかが、やっつけでリポートをまとめるのに借りて「引用」(要するにアナログ的コピペ)をするため、線を引いたのだろう。前半3分の1位まで、“要所”にマーキングされていた。

本の損傷としてはたいした部類にならないが、かねがね思っていた図書館運営に対しての不信と不満が湧いてきた。

 まず窓口に行き、なぜ「破損」した書籍を書庫に置いてあるのか。、いつ誰に貸し出されたのか、返却時に確認したのか等々質した。
しかし、「書庫から自分で出して書き込まれると分からない」と言うだけだ。

 あえて執拗に質したのは訳がある。
 書籍や雑誌、CDを借りると、染みていたり破損していたり、またCDなどは歌詞カードがないものも多い。もちろん一義的には利用者の方に問題があるが、問題ある利用者に対して「啓蒙」して税金で賄われている公共財を守るのが、管理・運営する人の役目だろう。それがきちんとなされていない事実に不信感があったからだ。

 この図書館に限らず、いま公共の窓口は、「お客様」の不満が出ないように、迅速な対応を心掛けている(ようだ)。 「お待たせしました」「少々お待ちください」「ありがとうございます」等、時にはバカ丁寧な対応が、フツーだ。
この図書館も例外ではない、利用者を「お客様」と呼び、そのお客様を窓口でお待たせしない対応には心血を注いでいるよに見える。しかし反面、返却された図書をきちんと確かめるという必要な作業を怠っていると感じていた。

これでは、借り手に、公共物を丁寧に扱おうというインセンティブが働かない。
平たく言えば、「どうせ見ていないんだから、少々汚しても、敗れても平気」という気分になるというものだ。大衆は。

この図書館の運営を担っているのは○(株)TRC・図書館流通センターだ。
http://www.trc.co.jp/

たまたま同じ指定管理者が運営を行っている港区のさる図書館では、扱いが違っていた。返却時には必ず、ページをめくり破損等がないか確かめていた。また汚れが見つかった場合、利用者に「指摘」をし、注意を促していた。
小さなことだがこうした積み重ねが、利用者の意識を変えさせる。それが大田区のこの図書館ではなされていなかった。
つまり、会社に問題があるというより、個々の図書館の運営方針に問題があると感じたのだった。

ここで朴念仁ジジイのしつこさを発揮することになった。
窓口に「責任者」を呼んでもらい、破損した図書を放置していることに対して文書で回答するようにお願いした。

数週間待って得た回答は、お粗末なものだった。突き返してしまったのでその時の文書は正確には覚えていないが、よくある謝罪文と「適正な運営に努めてまいります」というお粗末なものだった。

そこで次の手に出た。区役所に行き、条例に基づいた情報公開請求で、指定管理者との業務委託契約書、大田区内での図書等の破損と弁済状況の文書を求めた。
日程を合わせて、公開文書を閲覧できたのは1か月後くらいだった。
その結果、さまざまなことが分かってきた。

(長くなりそうなので、以下別項で、)








2014年10月11日土曜日

剱&槍 息子と登頂の記 ~56歳の記録として~ ①剱編

①台風一過を狙った計画

今年の夏の異常気象では、観光地は大きな打撃を受けただろう。それは山小屋とて例外ではない。7月下旬から8月一杯の1か月半、週末が好天に恵まれたのはなかったかもしれない。槍岳山荘のブログに8月本当に晴れたのは4日しかないと、書いてあった(と記憶する)

7月の海の日に目指した剣岳は去年、今年と2年続けて悪天で断念。去年は剣沢小屋まで行ったが登頂を目指す日が大雨で引き返す。今年は、立山への長野県側からの玄関口、扇沢まで行きながら室堂のライブカメラを見て、やめた。ここから往復1万円の交通費を使う気になれなかった。
大町駅に車をとめて昼飯にそばをたべて、少し仮眠をとって、日帰りで東京に退散した。

あきらめの悪い「老人」としては次のチャンスをねらっていたが、お盆前後の夏休み時期には、台風11号が日本を通過するところだった。
チャンスは台風一過しかないと確信し、山梨に大雨洪水警報が出ている中、中央高速に車を走らせ、大町駅前の旅館に、家族3人宿をとった。
素泊まりひとり4200円。小雨が続くなか、それでもわれわれと同様の山を目指すグループ、家族連れが一組づついた。
夕食は、駅前通りのカフェ風の店でとる。こんな(と、言っては失礼だが)ところに珍しい店だ。だが、この店以外商店街はさびれていた。目立った店といえば、駅前のタクシー会社、地元の学校の制服を取り扱う洋品店、ここの「名物」カツライスを売り物にする居酒屋風食堂、あとは郵便局と電力会社の支店くらいしかない。そば屋もあるが、お盆だと言うのになんと閉まっていた。
さびしい大町駅前。北アルプスの登山基地でもある町だが、やはり過疎化の波の例外ではないのだろう。
さて、
翌日、まだ少し雨雲が残るなか、バイパス沿いのコンビニで「朝食」を済ませて、扇沢まで車を走らせ立山を目指す。ねらいどおり台風は日本海に抜けていたが、中部地方には前線がかかり不安定な天気だった。
8時台のトロリーバスに乗り黒部ダムへ、薄日ものぞき、まだこの辺はまずまずの天気だ。私は去年息子と来たが、妻にとっては夫婦2人で行ったとき以来だから25年ぶりの黒部だ。ケーブルカーを一台遅らせて、ダムの展望台でしばし写真をとったら景色を眺める。そしてダムを渡り立山を目指す。


②室堂~剱山荘

室堂についたのは11時前。立山は最後のトロリーバスで着くと、建物の中のため、意外にも外の様子が分かりにくい。とりあえず山支度をしてから、恒例(と言っても去年だけだが)の立ち食いの立山ソバを2つ頼み3人で分ける。
きょうは、われわれ(私と息子)は剣山荘泊まり。妻はみくりが池山荘までだ。少し時間に余裕がるので、ホテル立山のコーヒーショップに入ることにした。
ここからは外がよく見える。濃い霧と小雨模様だ。周囲の客は一般の観光客ばかり(正確には少しは登山姿の人もいた)の中、人目もはばからず、順番にトイレを済ませ雨具を着込みスパッツをつけて山の準備を済ませ12時過ぎに歩きだす。

雨はさほどでもないが、意外と風が強い、視界もよくない。一番緊張していたのは、剱を目指す私の息子ではなく、妻だったかもしれない。なにしろ3月に八方尾根でのスキーで膝を痛め、医者から長くかかりますと言われていたのだから。まともに歩けるようになったのは2週間後。加齢とともに治るには時間がかかる。みくりが池山荘までわずか20~30分とはいえ、不安があったに違いない。
ともかくも3人楽しく山荘までついた。ここで妻とは分か、雷鳥沢を経由し剣山荘を目指した。

前剱の手前の最初のクサリ場 結構こわい所
去年来たのは7月中旬、そのときに比べれば残雪の量は格段に違う。去年は雷鳥沢に降りる石段も一部雪の上を歩いたが、さすがにお盆の時期、快調に下ってゆく。しかし雨具をつけての山行は本当に憂鬱だ。汗の蒸気を外に放出するゴアテックスの有り難さを感じながら、別山乗越への登り返しを行く。
ここも雪渓が残るのはごく一部で、アイゼンを着けるほどでもない。(実際今回は4本爪すら持っていかなかった)。
剱御前小屋のある別山乗越は非常に風が強かった。小屋の中でしばし休憩とる。
ここからは基本的に下りだ。
剣山荘に着いたのは午後3時過ぎだったと思う。入り口を入ってすぐ脇にある乾燥室はすでに多くの雨具でいっぱいだった。なんとかスペースを確保して雨具を干す。もし明日雨模様だったら雨具を来て出発しなければならない。濡れた雨具を朝から着るのは、なんとも気分が悪い。雨具を乾かすのは大事な作業だ。
剣山荘は快適だ。去年泊まった剣沢小屋もそうだが、わりと最近建て替えられている。2軒あるから競争原理が働くのだろう、2つの小屋に泊まってみてそのことを強く感じた。

山小屋につくとシャツは湿気でかなり濡れていた。剣山荘は半分くらいしか泊まっていなかった。
昔(もう20年以上も前)の山小屋のイメージからすると、ずいぶんゆったりしていて、快適なスペースだ。フトンはミズノのサーモ何とかという軽くて暖かい、清潔なヤツ。ベッドの畳も合成のもので快適だ。こんなにも山小屋は進化していたのだ。

思えば、最初に泊まった山小屋は鳥海山の山頂小屋だった。結婚前だから1985年のお盆の頃だっと。ものすごく混雑し、毛布も2~3人で1枚という感じだった。

さて、快適な剱山荘で、シャワーも浴びてスッキリし、夕食にも満足した。食後、ペットボトルに入れて持参したワインを飲みながら衛星放送のデータ放送で翌日の天気を息子とにらむ。

なんとか天気は持ちそうだ。翌朝の朝食は5時半。6時出発を目指して床に着く。


③登頂当日

山小屋では早寝はできるが、その分あまりにも早く目が覚めてしまう。9時前に就寝して、目が覚めて時計を見たらまだ12時前だ。それからウトウトしながら、たぶんまた寝たり目覚めたりしたのだろう。4時前には目と身体は、もう起きる準備が整っていた。息子は隣でまだ寝ている。こちらが起き出したに目覚めて時計を見て、なんだ4時じゃねえかという風にまた寝た。

ゴソゴソやっているのに観念したのか5時前には起き出した。着替えて準備をして水を飲みトイレに行った。外に出てみると剱岳がよく見える。「よし、やった」と心で叫ぶ。早い人は早い。(当たり前か)。まだ薄暗い中、登り始める人々も多い。カニのタテバイで渋滞に巻き込まれるのを避けたいのだろう。天候が急変するリスクもある。早く出るにこしたことはない。

この時は、朝飯弁当にすればよかったと、少し後悔した。でも焦りも禁物だ。5時半の朝食前になるべく準備を整え、食堂に並んでいち早く、朝ご飯を食べる。やはり暖かいゴハンと味噌汁はありがたい。味噌汁をお代わりしたくなった。

6時丁度だったと思う。私と息子は剱に向け出発した。余計な荷物は小屋にデポし、なるべく身軽になった。ヘルメットをかぶりハーネスをつけて歩き出した。

快調な登り、前剱までは何の問題もなく到着。写真を撮る余裕もある。
途中、ちょっとコワイところもあるが、それでも順調に前へ進む。息子との剱は2年越し、都合3度目のトライだ。内心、胸が躍る。私にとっては20年ぶりの剱でもある。

カニのたてバイの最後のところ
カニのタテバイは意外とあっけなかった。「ほぼ垂直な岩」というような表現をしているガイドブックもあるが、おそらく70~80度くらいではないか。クサリの4,5ピッチ分、20メートルくらいはあるが、ハーネスにシュリンゲにカラビナをつけた確保用のロープはダブルで用意して、万が一にも転落しないようにした。その安心感があるからこそ、足がすくむことなくスムーズ登れる。

渋滞は4,5人待ちだった。縦に列をなして登るので、躊躇している暇はない。ある意味で無心でひたすら上に進む。先に登らせた息子が写真をとってくれた。

もちろん転落したら間違いなく大けがをする岩場である。しかし意外とここで事故は起きないないようだ。適度な緊張は人を注意深くさせるのだ。事故が起きるのは油断した時、気の緩みが生じたときだろう。それは下りで多い。

山頂に着いたのは8時すぎ。案外ひろくすでに30人以上の人たちがいた。ガイドに引率されたオバさんのグループもいてにぎやかだった。時間からするとこの人たちも別山尾根を来たのだろう。
オバさんたちは、「怖いもの知らずな」人たちだ。すごい。

山頂でしばし写真をとったりして喜んでいると、一転にわかに黒い雲がかかり出し、ポツポツ雨が降ってきた。
ヤバいと山頂にいた誰もが思ったに違いない。岩は濡れるとすべる。雨の中を下るのはリスクが格段に増す。

下山路は「カニのヨコバイ」だ。ここは最初の一歩が難しい。特に上背のない者にとっては、見えないところで足場を探す。息子はちょっと怖がったがなんとか取りつく。ポツポツ大粒の雨が降り始め、すこしクサリが滑る。息子はアンザイレンのカラビナをかけながら慎重にトラバースする。
後ろが詰まりはじめているので、少しあせるが、もちろんここでせかしたりはしない。足場はしっかりしているので、一度横にステップを刻むコツがわかれば、あとは問題ない。

わたしはかねがね息子に行ってきた。万が一の時、片手で自重を支える筋力と握力がないとまずいぞ、と。滑った時、一瞬でも片手で身体をささえることができれば、かなりの確率で落下を逃れることができる。そのための筋トレを私はこのトシになっても続けているのだ。
話しは横道のそれるが、年齢を重ねると筋肉を傷めることが多くなる。急激に力をいれると筋繊維が切れるのか、痛みがかなり長い期間続く。去年、久しぶりにバタフライをやった時、気を付けていたのだが、右の二の腕の筋肉を傷めてしまった。痛みが完全にとれるまで8か月近くかかった。トホホというほかない。

カニのヨコバイを過ぎると、まもなくハシゴがある。7から8mで晴れていればまあなんでもないところだ。しかし突風が吹き始め、雨も次第に強くなる中、急激に温度低下で手もかじかんできた。手袋は濡れてきている。最初に私がおりて息子が続く。鉄製の濡れたハシゴはすべる。手にもちからが入りにくい。おまけにハシゴの上に立つと、ちょうど風の通り道なのだろうか、身体が持っていかれそうになる。息子はかなり怖がった。下から「サポートするから慎重に降りろ」と促す。
あとから振り返ると、実はここが一番しんどかったかもしれない。急激な天候の変化は怖い。
トイレにも行きたくなった。

剱の「不便」なところは、避難できるところが下山路の小さなトイレ小屋しかないことだ。なんとかこの小屋の脇までたどりつく頃には雨はますます強くなってきた。かじかんだ手にはうまく力が入らずやっとの思いで雨具を身に付ける。スパッツをつけるのに手間取った。かがみ込んでチャックを閉めるのはけっこうたいへんだ。

山頂です。このあと天気が急変した。
オシッコをしたいのを我慢しながら、再び歩きだす。この後は、途中鎖場はあるものの、さして危険なところはない。ひたすら先を急ぐ。着ていた服はだいぶ濡れていたので、雨具を着ると蒸れて気持ちがわるい。しかしゴアテックスはありがたい。身体が暖かくなればしだいに蒸気は抜けてくれる。

前剱、一服剱と、戻りながら剱山荘を目指した。雨は剱岳の周辺だけだったのだろうか、遠ざかるにつれ弱くなり、いつしかやんでいた。あの強風と雨はなんだったのかと思うほど落差の大きい天気だ。

前剱あたりだったろうか、これから山頂を目指すであろう親子連れとすれ違った。父親が小さなナップザックで、中学生くらいの子どもは何も待っていなかった。雨具を持っているのだろうか?あまりにも無防備な感じでちょっと驚いた。剱山頂までの往復は、順調に行けばさほど時間を要するところでもない。運動靴でビニール雨合羽でも、何とかなるかもしれない。しかしそういう「心構え」で登山をしていいのだろうか。最悪の事態を想定した構えで行くのが山ではないのか。そんなことを考えた。息子も「あればヤバい」と言い、帰ったあと「絶対遭難した」と言ってネットニュースで探していた。

剱山荘に帰ってきたのはちょうど11時少し前。トイレに飛び込んで、膀胱にたまった水分を吐き出す。気持ちいいい。結局持って行った弁当は小屋で食べた。ごはんはものすごく冷たくなっていたが、いつものことながらひとつ山仕事を終えたあとの食事は格別だ。

小一時間小屋で休み、室堂に向かった。
劔岳にかかる不気味な黒い笠雲 これが超局地的に雨を降らせたのかも
90年に登った時以来、24年ぶりの剣岳は、こうした無事終えた。息子とこうして登山する自分をあのころは想像すらできなかった。もちろん子どもはいなかったし、「四半世紀」後の自分を考える想像力すらなかった。息子とは2年越しの剱岳。終わってみれば「フツーの登山」かもしれないが、私にとっては、55年の人生の中で大きな山行だった。メデタシメデタシ。

余話。このあと室堂まで一気に戻った。さすがに雷鳥沢から最後の登り返しの階段はへばった。それでも3時前には室堂にたどり着き、みくりが池山荘でソフトクリームを食べ、ターミナルで、一ノ越までハイキングしていた妻と合流して、休むまもなくトロリーバスの列に並んだ。

扇沢についたのは5時ごろ。この日の宿は決まっていない。それから電話をかけまくって八方のスキーの時の定宿の民宿に転がりこんだのだった。






2014年10月2日木曜日

「八月の六日間」。久しぶりに読んだ小説。十分想像力を味わった。


「小説」を読まなくなってずいぶん経つ。
昔は、夢中で読んだ時期もあった。
村上春樹は支持するが、小説は初期のものを読んだだけで、あとはエッセイばかり読んでいる。

「作りモノ」に対して懐疑がある訳ではない。単に、「作りモノ」を読んだり味わったりする気が起きないだけだ。

それよりも、教養書(と言っても新書やペーパーバックが主ですけど)を読むことの方が、面白いし、充実するからだ。

村上春樹はエッセイの中で、なぜ小説を書くかということについて、オウム信者になりかけた人のことを取り上げていた。村上の小説を読んで、踏みとどまったエピソードだった。
だから「ボクは小説を書き続ける」という趣旨を記していたと思う。

その意味から言うと、齢を重ね50代の半ばになった今の自分には、「迷い」があまりなく、小説の力を借りなくても、なんとか生きているということなのだろう。

と、前置きが長くなったが、新聞の書評につられて久しぶりに購入して読んだ「八月の六日間」は、とても面白く、夢中で字を追った。

山行の工程の中に日常を織り込ませて、40歳になろうという(小説の中でなる)主人公の心理を描いている。行ったことのある山の風景を思い浮かべながら、そして、そこですれ違った主人公と同じような年恰好の女性を思い浮かべて、読んだ。

「小説」という自分にとっては昔懐かしい味を、思いがけず食したような気分だ。

山歩きが好きな人、または山に行ってみたいと思っている人には非常におすすめの一冊だ。

ちなみに購入した書籍は6刷だった。売れているのだろう。







2014年6月12日木曜日

戦場で人は心を病む。映画「ディア・ハンター」が描いたこと。

通っているスポーツジムの更衣室で流れていた静かな音楽が、何かしばらく思い出せなかった。手持ちの映画音楽・音声ファイルで探して、それが「ディア・ハンター」であることが分かった。

物悲しい、しかしとても印象に残る曲だ。「マディソン郡の橋」とともに好きな曲である。

1978年に公開されたアメリカ映画『ディア・ハンターは、監督はマイケル・チミノ主演は、あのロバート・デ・ニーロだ。
1960年代末期におけるベトナム戦争での過酷な体験が原因で心身共に深く傷を負った若き3人のベトナム帰還兵の生と死、そして3人とその仲間たちの友情を描いた、アカデミー賞受賞作品だ。
詳しくはウィキペディアを参照されたい。

 記憶の限りで言うと、劇中、北ベトナムの兵に捕えられたアメリカ兵が「ロシアンルーレット」をさせられ恐怖におののくシーンが出てくる。精神を病み、後にベトナムに舞い戻った一人が、やはりこのチキンゲームで死ぬ。これを巡って、本多勝一氏が、「マイケル・チミノ氏への手紙」というコラムで、ベトナム兵が捕虜にしたアメリカ兵にロシアンルーレットを強要した事実はあるのか?と強く批判したことを、なぜだか覚えている。ベトナム戦争を長く、しかも深く取材してきた本多氏にとっては、許しがたい「フィクション」だったのだろう。
web より「引用」

確かに、ベトコン側から見れば、「残酷なベトナム人」が「徴兵でしかたなくアジアの戦地に来た、いたいけなアメリカ青年」をもてあそぶという図式は許しがたく映るだろうし、ベトナム人の感情を逆なでするものであり、本多氏の批判はもっともだ。(もっとも私は、映画を見てそういう印象は特に持たなかったが)。 しかもその映画がアカデミー賞をとったとなると、結局はこの賞そのものが、白人主義的性質の賞でしかないという見方もできる。

そのことを分かった上で、なお「ディア・ハンター」は、なぜか深く心に残る映画だった。「アメリカ人の側」「アメリカ人の論理」からしか描いていなかもしれないが、そこに人間の精神を深く考えさせる「何か」があったのだ。(この映画はDVDで出ていて、なんと港区の図書館にもある。)

戦争とはいえ人を殺すこと、殺されるかもしれないという恐怖を体験することが、どんなに人の精神にダメージを与えるか、それは計り知れない。すぐ忘れてしまい何ともない人もいれば、心の奥底にマグマがたまり、さまざま形で「噴火」してしまう人も、決して少なくないだろう。

なぜ、35年近く前の映画のことを書いたかというと、アメリカでも日本でも、「戦争」による「心の傷」が生んだ悲劇が、最近も伝えられたからだ。

(以下はweb ニュースの引用である)
米陸軍基地:3人射殺、イラク帰還兵が自殺 16人けが
毎日新聞 20140403日 1058分(最終更新 0403日 1303分)
 【ワシントン和田浩明】米南部テキサス州のフォートフッド陸軍基地で2日午後4時(日本時間3日午前6時)ごろ、男の兵士1人が拳銃を乱射して軍関係者ら3人を射殺、16人を負傷させたうえ、自殺した。基地司令官が発表した。現時点ではテロ目的ではないと見ている。容疑者はうつ症状などで治療を受けていた。2011年に4カ月間イラクに派遣されていたというが、今回の事件との関連は不明だ。同基地では09年にも軍人が乱射事件を起こし13人が死亡している。
 記者会見した基地司令官によると、容疑者は基地内の医療部隊施設付近で発砲を開始。車で別の建物付近に移動し、さらに発砲した。その後、女性兵士の反撃を受けると、自分の銃で頭部を撃ち抜き死亡したという。
 病院関係者によると、搬送されたけが人のうち9人は集中治療室で治療を受けている。
 事件を受け、オバマ米大統領は緊急声明を発表。09年の事件にも触れ「このような事態が再発するのは痛恨の極みだ」と述べ、真相解明を約束した。
 フォートフッド基地は兵士やその家族ら数万人が生活する米国最大級の軍事施設で、所属部隊の多くはイラクやアフガニスタンへの派遣経験がある。
 09年11月に精神科医の陸軍少佐が同僚兵士に発砲し13人が死亡、32人が負傷した。少佐はパレスチナ系米国人で当時、中東での米軍の作戦との関連が指摘された。
 米国では、昨年9月にも首都ワシントンの海軍施設で元予備役兵が乱射事件を起こし職員ら12人が死亡している。オバマ政権は銃犯罪抑止を主要政策目標に掲げているが、具体的成果は出ていない。


「3人の死、無駄にしない」 乱射事件追悼式でオバマ氏、基地安全強化に決意 
2014.4.10 09:06  
9日、米テキサス州フォートフッド陸軍基地で行われた追悼式典で演説するオバマ大統領(AP=共同)
 米南部テキサス州フォートフッド陸軍基地で2日に起きた銃乱射事件で犠牲になった米兵3人を追悼する式典が9日、同基地で行われ、オバマ大統領は3人の死を無駄にしないためにも基地の安全確保策を「刷新しなければならない」との決意を示した。
 オバマ大統領夫妻のほか、オディエルノ陸軍参謀総長や遺族ら約3千人が出席した。
 同基地では2009年にも13人が犠牲となった銃乱射事件が起きている。オバマ氏は追悼演説で、同基地でのこうした式典への出席が在任中2回目となったことについて「非常につらいことだ」と表明。2日の銃乱射後に自殺した兵士が心的外傷後ストレス障害(PTSD)の検査中だったことに関連し、精神的問題を抱える人が銃を入手できないようにすべきだと訴えた。(共同)

4月18日放送のNHKクローズアップ現代でも、イラク派遣の自衛隊について、驚くべき事実を伝えている。
http://www.nhk.or.jp/gendai/kiroku/detail_3485.html
番組によると、イラクへ派遣された陸海空の⾃衛隊員は、5年間で延べ1万人。NHKの調べで、このうち帰国後28人が、みずから命を絶っていたというのである。
戦地に派遣された人々の中には、心の傷を負う人が少なからずいるということであろう。


で、映画「ディア・ハンター」に話を戻す。
そうした戦地での心の傷をえぐりだしたということでは、この映画は秀逸だった。観ている者に深く訴えるものがある。それは単に「反戦」とか「平和の尊さ」とかいう話ではなく、生きていく上で、外的ストレスといかに闘っていくかということにほかならない。

平和で、ある種のどかなスポーツクラブの更衣室で、「ディア・ハンター」のサウンドトラックを聞きながら、そんなことを考えた。図書館でDVDを借りて、もう一度見てみよう。






2014年6月5日木曜日

「常識を疑え」ということを「あっさり死ぬ」こととともに考える

 島田氏の前の著書「葬式はいらない」も話題になったが、こっちも結構売れたようだ。

地域の図書館で3か月くらい待ってやっと借りれた。

結論的には、火葬場でそのまま骨も拾わず、「終える」のが一番という主張。
仏教がなぜ「葬式仏教」になったのか、とか、自然葬のススメなど、結構面白く読んだし、参考にもなりました。

あまり「先祖」にこだわるより、現世の自分を大事にしたほうがいいということを改めて感じさせてくれたのは確かだ。

葬式も寺や葬儀社など、ステークホルダーが多いので、島田氏のような主張は、業界の反発を招くけど、それだけ、葬儀や墓のありかたについて、「これでいいのか」と考えている人が多いということなのだろうか。

一昨年、喪主として葬儀を経験した者としては、いろいろ考えた。
なるべく節約したし、世間体など気にはしなかったが、自分の考えひとつで決められない現実もあり、理想通りとはいかなかった。

葬儀にしろ、墓の管理にしろ、「常識にとらわれるな」ということが肝心だ。


「常識を疑え」ということを考える事例が、最近いくつかあった。



●ご存じ、「獺祭(だっさい)」
山口の片田舎の旭酒造の「純米大吟醸」だ。
あまりお酒を飲めず、まして味などわからぬトウシロだけれど、一度は飲んでみたいと思った。

「獺祭」を知らない人のために、おさらいを記す。
このお酒は、日本酒造りには欠かせないとさらる「杜氏」が不在でできたもの。
お酒の仕込みは冬と相場が決まっていたが、これは1年中造られているというもの。
(報道が正しければ)
日本酒造りには必ず出てくる「杜氏」は、長年の経験で発酵を調整し、それぞれの銘柄のお酒を造りあげる「絶対的指導者」とされてきた。
しかし「獺祭」は、杜氏が去った中で、お酒で一番大切な「発酵」の過程を徹底的に数値化し、「獺祭」銘柄を科学的に造れるようにしたことだ。

「杜氏」が出て来て「厳しく」酒造りに臨む姿をテレビ等で見るたびに、酒造りなんてもうすこし科学的できないのかなと正直思っていた。でも一方で、「杜氏」次第というのも、「そんなものだろう」とも感じていた。
それが「獺祭」で、「やっぱり科学的に造れる」ことがわかった。「な~んだ」と。


●有機栽培、天然ものの鮮魚は、すべておいしいのか?
「キレいごと抜きの脳農業論」は、かねがねぎもんに思っていたことに答えてくれた。
野菜のおいしさは、鮮度と   が決めてだと。
著者は、有機野菜を「製造販売」しているが、それは「エロうまさ」を求めているからだと言う。
なかなか含蓄のある「お言葉」だった。


●以前、このブログに「手打ちそば」は本当においしいか?という論考(というほどでもないか)を書いた。

それは、いわゆる立ち食いそば屋でも結構イケてる店があり、そうした店を紹介するサイトもあることから、「手打ち」ばやりにちょっと疑問を呈したものだった。
手打ちと機械製麺で、中味の成分にどんな違いがあるのか?それともないのか?今は手元に情報はない。

いずれにしろ、「常識を疑う」ことは、結構重要な気がする。
まだ「獺祭」は手に入れてはいない。

2014年5月27日火曜日

東北六魂祭はにぎわったようだが・・・。地方都市はどうなっていくのか。

「東北六魂祭」が、今年は山形であった。
震災の年から始まった、東北6県の祭りをあつめたイベントは、太平洋側3県が終わり、日本海側では初めて山形で行われたのだ。

山形市の中心街はそざかし賑わったことだろう。
祭りが行われた通りは、毎年夏「花笠まつり」で花笠音頭が踊られる、市の目抜き通り「七日町通り」ではなく、その北側の拡幅されてあたらしくなった「新築西通り」だったようだ。

でも地方都市「山形」が賑わうのは、こうしたお祭りの時や大型連休やお盆の時期くらいだ。

5月の大型連休前後に山形にしばらく滞在した。
連休中こそ帰ってきた若者や家族連れ、また観光客で、新幹線は混雑し、市内も賑わっていた。しかし、旗日が終わった5月の7日、8日は、山形市の中心街は、さびしい限りだった。

「asahicom」より引用
山形の目抜き通り、七日町通り周辺には、市役所や地方銀行の本店、農協中央会、老舗のデパートなどがあるが、人影はまばらだった。正直、活気を感じられなった。

要因のひとつには、イオンモールなど郊外型のショッピング施設が、山形市の北と南の両方にあるなど、地方都市内の「問題」もあろうが、それだけではない。高齢者人口そのものも減少しつつあり、かつまた「元気な老人」が減ってきているのではないだろうか。

30年前、初めてこの地で暮らした時に比べ、確かに町はキレイになった。ミニとはいえ新幹線の開業、それに伴う駅前の開発、城下町の細い道路は次第に整備され、スムーズになった中心街。しかし人は明らかに“減った”。

実は、山形市の総人口はここ20年、ほぼ25万人前後であまり変化はない。しかし、ごく大雑把に言うと、老齢人口は2倍、若年層は2分の1になっている。“減った”と実感するのはそのためだ。
山形市・七日町通り
(townphoto netより引用)

翻って、「大都市」はどうか。
東京で新聞を購読していると、このところ不動産のチラシ広告が多いことに気付く。それは今に始まったことではない。少なくともアベ政権が始まった頃から増え始めている。
アベノミクスはミニバブルで見かけ上の経済活性化をしようというものだから、不動産市場が活発になるのは、考えてみれば当たり前の話しだ。

五輪も東京で「開かれる予定」だ。しばらくは東京集中が続くことだろう。そのメリットも弊害もすべて呑み込んで。


山形の帰りに仙台に寄った。
仙台駅周辺の真新しいビルには、中小の建設会社等の「仙台支店」の看板が目立つ。震災復興の需要で、多くのカネがここには落ちてきていることが分かる。その意味では活気(けっこうギラギラした活気だが)を感じるのが今の仙台市だ。

●中心都市『東京』→その傀儡(と、いったら失礼かもしれないが)としての『仙台』。そして、多くを都市に吸い取られていってしまっている地方都市『山形』。

この構図は何も東北の都市だけではないだろう。このことが、いいのか悪いのか、正直、わからない。でも、これからの地域の「生き延び方」を考えていかなくてはならないのは確かだろう。







2014年5月24日土曜日

「木綿のハンカチーフ」で涙拭くのは、今や男性になった。

太田裕美の「木綿のハンカチーフ」。
ウィキペディアによると1976年に年間売り上げベスト4になった、彼女の最大のヒット曲だ。

恋人を置いて都会に出て行った「男子」が、“魅力的”な都会生活に次第に染まっていく。そして、ふるさとで待つ「彼女」に、最後は「僕は帰れない」と、決別していく。
彼女は「木枯らしのビル街、からだに気を付けてね」と2番で歌ったが、3番では、決別の結果、最後の願いが「涙拭く木綿のハンカチーフ下さい」と言って、歌は「完結」する。

3番まで聞かないと、タイトルの意味がわからないこの歌は、作曲:筒美京平、作詞:松本隆と出ている。歌謡曲として最強のコンビによる歌だった。

オイルショックから3年、ようやくどん底から抜け出しつつあった経済状況の76年当時、おそらく都市より地方の方がまだ不況の影響を受けていたのではないだろうか、若者男子の多くが都会に職を求めて出ていった現実のようすを、よく表した「名曲」だ。

もちろん農家の後継ぎの「嫁不足」はすでにあって、それはそれで農村社会では大きな問題だったが、ここでは置いておく。

朝日新聞より「引用」
「木綿・・」のヒットから40年。最近の新聞記事によると、これとはまったく逆の現象が起きていることが報道されている。
地方から若い女性がどんどん減っているという。それは子どもを産む世代が地方から減少していることを意味している。

5月1日のNHK「クローズアップ現代」では、「極点都市、新たな人口減少クライシス」として、地方都市では老齢人すら減少しているところがあり、そうした所では、女性の働き場所だった介護施設すら職場減少していることを指摘していた。

大都市への人の流れ、特に若い女性の進出は止まらず、それが地方の疲弊と少子化に一層拍車をかけているという分析には説得力があった。

都会で家庭を持って生活するのはハードルが高い。結果、未婚のままの女性も増えていく。(もちろん結婚できない男性も増える)。
これが少子化を亢進するサイクルのひとつになているのだろう。

緩慢な変化は気づきにくい。まして都会で、自分や家族を養うのに精一杯の精一杯の生活をしていると、社会の全体状況なんかには、気を回す余裕など、多くの人にとってはないだろう。

ある意味、社会の病理ともいえる、今日的状況は、ジワジワ進行するガン細胞のごとく、日本社会を蝕んでいる。それは単に、都会が豊かで地方は疲弊するといった単純な物言いで片付けられない問題だ。

ヒトはだれでも豊かになりたいと望んでいる。もちろんその「豊かさ」とは、一様ではなく、人によって価値観も実感も違うだろうが、少なくとも今より後退することを望んでいる人はいないだろう。
さまざまな意味での豊かさを維持するには、地方も地方なりの維持能力を備えている必要がある。

気が付いた時には涙ふくハンカチすらもなかったという世の中にはしたくない。次世代の人々がすこやかに暮らしていくためにも。



2014年5月20日火曜日

発酵の面白さ、奥深さを教えてくれた本「田舎のパン屋が見つけた『腐る経済』」


発酵と腐敗は紙一重。
発酵の不思議と奥深さを感じさせてくれた本だった。
著者が、原発事故による放射能の影響を心配して、千葉から岡山に「避難」したのは、あまり共感できないが、彼の実践してきたパンつくりには、共感した。

本の中にも出てくるが、奥沢(世田谷)の「CUPIDO」というパン屋さん。
拙宅から自転車で10分ほどなので、行ってみた。
なかなかの店だ。文句なくおいしい。

http://www.cupido.jp/index.html


この本をきっかに、発酵食品に関する本を図書館で借りて、何冊か読んだ。
肉も発酵(熟成)させるとおいしくなる。その方法は難しいのだろうが。


発酵食品「パン」の魅力は尽きない。
話題の「炭水化物が人類を滅ぼす」も、それなりに気になる主張なので、パンを味わうこととの折り合いをどうつけるか、食生活の基本が、自分自身に問われている。



「齢」を重ねるということ。衰えていく自分といかに付き合うか

久しぶりの「投函」になってしまった。1月に出場したハーフマラソンのブログ以来である。
2月3月は週末、八方尾根で滑りまくった。しかし結局、1級には手が届かなかった。いや足が届かなかった。八方スキースクールはキビシイ。

3月に風邪をこじらして、副鼻腔炎(要するに蓄膿症)になった。単なる風邪だと軽くみて、放っていたら、どんどん悪くなってしまった。耳鼻科にかかって分かったのは、同時期に突発性難聴になったことだ。医師によると、蓄膿と難聴は直接関係ないと言っていたが、トリガーになったのは間違いない。診察を受けるたびに聴力検査を受けたが、当初左耳が右の8割くらいまで落ちていた。
ステロイドの投薬を受けて、その後難聴は何とか回復したが、それでも高音域は9割ほどにしか戻らなかった。
それより深刻だったのは、いわゆる「耳鳴り」が始まったことだ。高音の「キーン」という音が絶えることなく左耳で鳴っている。3週間ほど医師から処方されたビタミン剤や漢方を服用していたが、結局、治らなかった。2か月以上たった今も耳鳴りは続いている。
医師には「一生治りません。歳をとればよくあることですから、あまり気にせずにしていてください」とあっさり言われ、結構落ち込んだ。

まあ、耳鳴りで寝つきが悪くなったということはない。何かに夢中になっていればあまり気にはならない。しかし夜や明け方目が覚めた時に、ああ「耳鳴りがしてるんだ」と、改めて実感することになる。あと何年生きるのか「神のみぞ知る」だが、一生続くとなると少々、落ち込む。

年をとるということは、こういうことなのだろうか。
加えて、3月に5年ぶりに受けた人間ドッグで、大腸にポリープが見つかり、5月の連休あけに、内視鏡手術で切り取った。左足は去年秋から足底腱膜炎で痛いところに、外反母趾が急にひどくなり、小指側と親指側で、骨が飛び出して、一時は靴がまともに履けず、日常生活にも支障が出るまで傷んだ。これも近くの整形外科にいったが、どうすることもできずに、こんど慈恵会医科大学病院の「足の外科」外来に行くことにしている。あるんですね。こういう専門外来が。
当事者になってみて、調べてわかるといことが随分ありました。

齢を重ねるということは、ポジティブに考えれば、経験を積んで豊かな視野を手に入れることでもある。しかしネガティブな面で言うと、それは、いろいろ傷んでいく自分のカラダと付き合っていくことにほかならない。その事実を受け入れるのは、実は少々気の思いことでもある。

去年12月、15年乗った車を手放した。最後の方はしょっちゅう、あちこちに不具合をおこし、修理代もバカにならなかった。大事に使ってきても寿命がくる部品も多々あるのだ。
自分のカラダもそうなっていく途上なのだろう。
ひとことで言えば、「トホホ」としか表現しようもない。




2014年1月16日木曜日

谷川真理ハーフマラソンの 参加の記

2014年1月12日(日)
2回目の谷川真理ハーフ(荒川河川敷)に出た。去年が、私にとって“初体験”レースであり、それから1年、4度目のハーフマラソンになった。

この日は風もなく、気温も「ちょうどいい」感じで、いわば絶好のコンディションだった。今年は1万人近く参加者がいるとアナウンスされていた。確かに前年よりずいぶん人が多いと感じた。

結果は1時間46分58秒。去年より5分も遅かった。

去年の初めてのレースは、何もわからずただ周りに合わせてがむしゃらに走り、後半は少し早そうな人にくっついて走り切った。いわばビギナーズラックのタイムだったといえよう。

猫ひろしさん(左端)も第3集団くらいで真剣に走っていた。
今年は少しレースを経験して「知恵がついた」分、ペース配分なることを考えて、前半をかなり抑えて走ってしまった。折り返し点を過ぎてからは自分としてはかなりペースを上げたのだけれど、前半の遅れが響いて、思ったほどタイムが伸びなかった。

唯一の収穫だったのは、最後の1キロほどはかなりペースをあげてヘトヘトだったけれど、ゴールした時は、これまでより比較的、体力的に余裕があったことだ。ラストスパートをしなければあと10㌔~15㌔は走れそうだった。(スピードはともかく)。

まだ未体験のフルも、4時間半くらいで走れるのではないかと、かすかな希望がわいた。さて、いつどこで走るかだけど。すでに長野マラソンは満員御礼だ。札幌や那覇はちょっとカネがかかるからどうしようか。

ともかくも、
「たかが走ること」が、これほど難しい、奥が深いことだと、改めて思い知らされた。
足の痛みは新たな問題が起きた。左足親指があたり、爪をやられてしまった。
足とシューズとランについての経験談的考察は別項に記そうと思う。


先頭の方々は意欲満々 すごいと思う
会場では1万人参加とアナウンスされていたが、確かにすご人だった。

1位になったのは、後で聞いたところによると、20歳の京都教育大学の学生、池上さんだった。一般参加だということだ。

先頭集団の選手とすれ違うのは、ちょっとした迫力だ。だって向こうは20㌔前後の速さで、こちらも一応12㌔くらい出ているから、すれ違う速度は30㌔を超す。あっと言う間に通り過ぎてしまう。

池上さんは、ものすごく汗をかいていた。100mくらい遅れて走っていたのが川内選手。いつもの苦しそうな表情が印象的だった。あとで家人が撮った写真をみると両足が浮いている。

そもそも同じマラソンでも、自分の走りとは根本的に違うんじゃないかと思う。それだけスピードが出ているということだろう。テレビ中継で見る走りではわからない、ド迫力を感じた。

猫ひろしもかなりマジに走っていた。第3集団くらいだったと思う。小さな体でけっこうなスピードが出ていたように思う。

1位:1時間3分9秒の池上秀志さん

川内選手は2位(1時間4分17秒)だった。


自分の走りはいつも「何かヘン」