出羽の国の名峰・鳥海山の八合目付近から見渡した庄内平野とその向こうの日本海。我が人生もこのくらい見通せたらどんな気分なのだろうか。 一生を400㍍走に例えると50代はちょうど第3コーナーあたりかもしれない。 一番息苦しくなり、足が重くなっているところを耐えて走っている。 第3コーナーでは前を見てもまだゴールは見えない。レーズ全体をイメージするのが難しい。 第1コーナー、10代・20代のころは、わずか10年先さえも想像できなかった。 いつも未知の世界に向かって走ってきた。 バックストレッチの30代・40代は様々な制約の中でも、少し自分のペースをつかみながら前に進んだ。 第3コーナーのカーブに入ったいまはどうか。まっすぐ前を見ているだけでは、自分の立ち位置は見えてこない。体を傾けたままうまく周囲を観察しなければならない。50代、「いまだ天命を知らず」である。第3コーナーを抜け出し、最後の直線に入った時、そこにはどんな光景が待ち受けているのだろうか。その時どう身を処すればいいのだろうか。考えるしかない。 再レースはないのだから。
2014年10月2日木曜日
「八月の六日間」。久しぶりに読んだ小説。十分想像力を味わった。
「小説」を読まなくなってずいぶん経つ。
昔は、夢中で読んだ時期もあった。
村上春樹は支持するが、小説は初期のものを読んだだけで、あとはエッセイばかり読んでいる。
「作りモノ」に対して懐疑がある訳ではない。単に、「作りモノ」を読んだり味わったりする気が起きないだけだ。
それよりも、教養書(と言っても新書やペーパーバックが主ですけど)を読むことの方が、面白いし、充実するからだ。
村上春樹はエッセイの中で、なぜ小説を書くかということについて、オウム信者になりかけた人のことを取り上げていた。村上の小説を読んで、踏みとどまったエピソードだった。
だから「ボクは小説を書き続ける」という趣旨を記していたと思う。
その意味から言うと、齢を重ね50代の半ばになった今の自分には、「迷い」があまりなく、小説の力を借りなくても、なんとか生きているということなのだろう。
と、前置きが長くなったが、新聞の書評につられて久しぶりに購入して読んだ「八月の六日間」は、とても面白く、夢中で字を追った。
山行の工程の中に日常を織り込ませて、40歳になろうという(小説の中でなる)主人公の心理を描いている。行ったことのある山の風景を思い浮かべながら、そして、そこですれ違った主人公と同じような年恰好の女性を思い浮かべて、読んだ。
「小説」という自分にとっては昔懐かしい味を、思いがけず食したような気分だ。
山歩きが好きな人、または山に行ってみたいと思っている人には非常におすすめの一冊だ。
ちなみに購入した書籍は6刷だった。売れているのだろう。
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