2015年4月27日月曜日

ランナーの味方、EPSONの「リスタブルGPS」は、なかなかの優れものだ

『エプソン リスタブルジーピーエス』EPSON Wristable GPS 腕時計 SF-110B
購入した。
これまでランニングに使用していたユピテルのランナーズコンピュータを、うかつにも
ランニングに出ようと玄関で準備をしている時、踏んづけてしまい、液晶部分が壊れて表示しなくなってしまった。
メーカーに電話で相談すると、最低ても6,000円はかかると言われ、購入価格が9,000円前後だったので、修理をあきらめて、EPSONの腕時計式を買ってしまった。(エヘヘだよね)

ユピテルの「ランナーズ・・・」は、購入当時は、それはそれでなかなかのものだった。GPSの感度はあまりよくはなかったけれど、ランニング後、Google Mapに軌跡を出せるし、走教距離や時間、キロ何分、休止している時間も出せた。
役割を終えたということか。ご苦労様


腕時計型のGPSは、当時はSUNTOなど外国製の高価なものしかなかったように記憶しているので、1万円を切る価格でランニングをサポートしてくれるのはうれしかった。

外を走る時には原則これをつけて記録してきた。記録もweb上でできた。
だから愛着もあり、できれば使い続けたかった。

しかし、上記の理由でEPSONにしたら、こちらは、優れものだった。まだ1回しか使っていないけど、早くも、ユピテルは忘れさってしまうほどだ。人間ってゲンキンなものですよね。

EPSONのこのシリーズは最高機種の810(3万円台後半)から、今回購入した廉価版(消費税込みで2万円前後)まで何種類かある。

心拍数まではとれないが、走りながらラップも表示されるし、もちろん走行後、パソコンで記録を保存できる。
この「110b」は、シリーズの最後発だが、私のようなランナーには十分な機能だ。
何よりも軽いことに驚いた。

登山もやるので普段時計は「PRO-TRECK」を使っているが、この重さと比べたら、ウソみたいに軽い。もちろん時計としても使える(ただし、秒針はナシ。ストップウォッチ機能もない)から、
普段使いでもよい。活動量計もこの機種と最上位機種にはついている。

私はEPSONの回しものでも広告宣伝費をもらっている訳でもないけど、いいものはいいと記したい。

ただし一つだけ難があった。リストバンドが意外と短いのだ。これはなるべく軽くしようと腕が「太っている」人でもギリギリ着装せきるように考えられているのだろう。しかし私は汗対策に両腕にテニス用のリストバンドを着けて走る。その上からはめると腕の細い私でもギリギリの長さだった。
まあそれはそれでいいんだけと、もう少し余裕があった方が良かったかもね。

聖書でも言っている「汝自身を知れ」と。
このEPSONのマシンを着けて走ると、自分の1キロのラップが非常にわかりやすく、ペースをつかみやすい。これからフルに挑戦しようとする者にとっては強い味方だ。

ただ、印象として、ラップはいくぶん「遅め」に出るような気がする。帰ってから全走行距離からの平均ラップを見ると、走っていた時のラップから考えると速かった。

具体的には、毎キロ、5分9秒~15秒で出ていて、多摩川河川敷に行くまでの往路と河川敷から家までの登りは6分台の時間がかかっていたと思われるのに、平均では5分10秒と出た。こんなに早かったけ・・・と、ちょっと嬉しはあったが、少し疑問でもあった。





「反知性主義」のアメリカ、あれこれ



●アメリカの反知性主義 単行本 2003/12/19
  リチャード・ホーフスタッター (), 
  田村 哲夫 (翻訳) 

この本を手にしたのは、もう10年近く前になる。
どこかの新聞の書評で読み、図書館で借りてきた。

しかし、分厚くかつ翻訳本のために、読むのに苦労した。そのうち返却期限が来たので、途中で投げ出した、ことを「覚えている」

 恥を忍んで正直に言うと、この時、アメリカに「反知性主義」という概念があることを初めて知った。

Amazonの紹介によると
「知識人とは何か、知識人は民主主義の実現に貢献する力になれるのかと問いつづけ、アメリカの知的伝統とは何かを問う、感動のノンフィクションであり、アメリカ史の古典。」

1952年、マッカーシー旋風の吹き荒れるなかで行なわれた大統領選挙は、『知性』」と『俗物』」が対立する図式となった。そして後者、すなわちアイゼンハワー=ニクソン・コンビが圧勝し、知識人も批判派も「アメリカ社会が知識人を否認した」ことを理解した」

「――『知識人階級と大衆のあいだに巨大で不健全な断絶があることが明白になった』(『タイム』)
「知識人は今後、所得税から真珠湾攻撃まで、あらゆることの罪を背負わされるだろう」(シュレジンジャー二世)

しかし著者の意図は、アメリカの精神風土をもっぱら批判断罪することではなく、知識人とは何か、知識人は民主主義の実現に貢献する力になれるのかと問いつづけて止まない。読者には、アメリカの知的伝統とは何かを逆に問う、著者の熱い思いが伝わるだろう。

感動のノンフィクションであり、アメリカ史の古典である。」と、ある。

●余談1
この書籍の翻訳者・田村哲夫は、確か渋谷教育学園の理事長だ。同学園の渋谷(通称:渋渋)や幕張にある、「渋幕」は、首都圏ではちょっと有名な、新鋭の進学校。英語教育にものすごく力を入れ、東大入学者増やしている。一度、渋谷公会堂で行われた渋渋の学校説明会に行ったことがあtる。田村の自信に満ちた物言いが結構ハナについた。公会堂の前には大きな黒塗りの車が待っていた。むかし単なる「渋谷女子高」だった学校法人を有数の進学校に育てた功績は大きいのだろうが、長く理事長を務め、王様の雰囲気だった。


さて、横道の逸れすぎたけど
ちょうどあのころ(あの頃とは80年代ということ)、アメリカの人気牧師の衛星中継を使った説教や布教活動が盛んだと、テレビのニュース企画でたびたびやっていた。そして、ダーウィンの進化論を否定する人たちが少なからずいることも、盛んに報道していた。

アメリカに、本格的に興味を持ったは、実はもっと以前のことだ。。


本多勝一の「アメリカ合州国」を読んだのは、随分前だ。高校時代だったように思う。
アマゾンで調べると、単行本の出版が1970年になっている。このブログに載せたのは文庫本だが、単行本で読んだ。中味は忘れてしまったが、アメリカの一断面をうまく切り出したルポだったと記憶している。









そして、ずいぶん時代は先に進むが、渡辺 靖さんの一連の著書はほとんど読んだ。

●アフター・アメリカ―ボストニアンの軌跡と<文化の政治学>  2004/5/15
アメリカン・コミュニティ―国家と個人が交差する場所  2007/11
アメリカン・センター―アメリカの国際文化戦略 単行本 2008/5/27
アメリカン・デモクラシーの逆説  2010/10/21
文化と外交 - パブリック・ディプロマシーの時代  2011/10/22



















渡辺さんの著作は、別にアメリカの「反知性主義」を語ったものではない。読みやすい文体で書かれた、すぐれたルポと考察だ。清濁いろいろあるであろうボストンに憧れた。

なかなか面白い
まったく毛色は違うが、「アメリカ人の半分はニューヨークの場所を知らない」も、なかなか興味深い書籍だった。

記憶の範囲で書くと、「多くのアメリカ人は一生自分の生まれた州を出たことがない」など、大衆としてのアメリカ人のローカルさがルポされていた。
数年前の「1%対99%」騒ぎでも、思ったけど、グローバルに活躍すのは、ごく限られた人だということだ。まあ「活躍」の中味はいろいろあろうが・・・。









どんどん、横道の逸れる。
で、最近の書評に出ている。
反知性主義: アメリカが生んだ「熱病」の正体 (新潮選書森本 あんり  ()
まだ手にとっていないが、興味を魅かれる書籍だ。



アメリカ人の「反知性主義」について、書いてみようとこの項を立ち上げたけど、書いても、書くべきことが湧いてこなかった。

自分の「反知性」をさらけ出しただけのブログになってしまった。
しょうがないから、内田樹さん編の最近話題の書籍も読んで
自分の中の「反知性主義」について、反省しよう。
















2015年4月17日金曜日

「考える」とはどういうことか。「0(ゼロ)ベース思考」書評をきっかけに考える。


週刊ダイヤモンドの書評欄によると、「0(ゼロ)ベース思考」(スティーブン・レヴィット・シカゴ大学経済学部教授)が売れているらしい。

創造的な考え方をするには「週に1、2度考えるようにすればいい」という。多くの人は自分はモノを考えていると思い込んでいるが、実際はじっくりモノを考える機会事態、ほとんど持っていない、という。

著者がアイデアを得るためにしていることは2つ。
毎日の生活の中で、あらゆる物事に対して、「それは筋が通っているか」を考えること。
もひとつは、「普段と違うことをする」ということだという。

あと、「死前検証」をあげている。これは、もしプロジェクトが失敗するとしたら、どういう理由で失敗すると思うか、事前に考えるということらしい。

どの程度「お役立ち情報」なのか分からないが、書評を読んで、それ以上、わざわざ時間を使って読もうという気にはならなかった。

ただ、「立ち止まって考える」ことの重要さは、常に心に留めておくことが大事なのは再認識させられた。 

●「考える」ことについて「考える」

哲学的思索をしようという訳ではない。単純に「考える」とは、身体はどういう状態か、ちょっとさわってみたい。

 かねがね思っているのは、人は(もちろん動物も)、2つのことを同時にはできないということである。この「2つのこと」とは、考える行為についてである。少なくとも“同時にはできない”という認識を常に持っていることが、実は極めて重要な「謙虚な姿」なのではないだろうか。

「考える」とは、アタマの中に、余計なインプットをしない状態が必要だ。もしくは無意識に、そのインプットを遮断している状態がなければいけない。
 
 車を運転している時、アタマと身体は「運転」という複雑な行動を一体のものとして、駆動させている。前を見ながら、時々バックミラーで後ろも確認し、ハンドルを微妙に操作しながら道なりに車の方向性を決め、アクセルを加減しながらスピードが適正になるようしている。

 当たり前のようなことだが、それこそ“考えて”みると、結構複雑なことを一度にやっている。でもそれは車を安全に移動させるというひとつの目的のための一連の思考と身体的動きだ。

 この時、実はカーステレオ(っていう言い方は古いかな)から流れる音楽は、正確に言うと「聞いて」はいない。ただ耳の中に音が入ってきているだけだ。それは、例えば混雑しな高速道路で追い越しなどのより複雑な行動を起こした時に気が付くだろう。

一瞬、あることに真剣になった時は、他のことは無意識に切り捨てられている。反射神経の範疇で行えることは別なのかもしれないが、そうでない複雑なことは、2つ同時はできないのだ。

 クラシックのコンサートで生の音楽を聴きながら本を読んでいる人はいない。(いるかもしれないけど、まあ一般的に)。それは本を読んでいる時の音楽は、まさにBGMであって、真剣に聞くための音楽ではないから。本を読んでいる時は、その馴染みの音楽の旋律の心地よさは聞こえてくるが、微妙な、繊細な部分は入ってこない。だから、
 わざわざおカネを払ってコンサートに足を運んだ人は、そこで本を読みながら音楽を聴くことはしない。いや、できないのだ。当たり前だけど。

なぜ、こんなことを長々書いたか。それは「考える」ことをしない人が増えていると感じるからだ。

 いささか古い新書だけど、京都大霊長類研究所の正高信男さんの本をあげておく。
①:『ケイタイを持ったサル~「人間らしさ」の崩壊」』(2003年)、
②:『考えないヒト~ケータイ依存で退化した日本人』(2005年)

実はケイタイを持ったサルを読んだ覚えがあるだけで、今回この論考を書くにあたってアマゾンで検索したら②も出てきた。

 当時、携帯電話が普及し始めたころ。正高さんは、女子大生などの携帯依存に対して、そうとうアタマに来ていたようで、内容についてはもう忘れてしまったけれど、文章からその怒りだけはヒシヒシと伝わってきたことだけは覚えている。

②はまさに、今回の論考のテーマそのものだ。今度、立ち読みしてみよう。まだ絶版でなければ。

で、携帯電話がスマホにとって代わっただけで、「考えないヒト」は相変わらず多い。いや多いだけではなく日々増殖している、と感じてしまうのは、私(と、正高さん)だけだろうか。

 車内や駅構内で常にスマホをいじっている輩は、それがネットサーフィンであれ、ゲームであれ、アタマには、さまざまな情報がインプットされている状態だ。
インプット時には、「考える」ことはされていない。
かくして、スマホが便利になればなるほど、それが手放せなくなり、「考えるヒト」は減っていく。

「0ベース・・・・」が指摘するように、「考える」ことをしていると思っているビジネスマンなどの中産階級でも、実は「考える機会を持っていない」というのだから、そうでない人々はなおさらだ。


 いまさら書くほどのことではないが、考えない人はどう行動するのか。印象やイメージ、単純は発想で、モノゴトは判断し、それが「正しい」と思ってしまう。

選挙の投票行動にはそれが顕著に表れる。だから候補者もイメージ選挙を展開する。もっと言えば、人気取り。ポピュリズムだ。そういえば「政治はすべてポピュリズム」とかいう新書もあったな。

世の中に「考えない」人が増えると、テレビも新聞も、政治も、すべてのモノが「考えない人」を前提に作られる。書籍も、考えないで済む、カンタンなものが増えている。

「親切な作り」「丁寧な説明」「納得いくように」などの言葉が世の中にあふれている。考えないヒトのために。

考えるにはそれなりの時間が必要だ。いうわゆるアタマのイイ人、アタマの回転がいい人は、瞬時にものを考え判断しているようだけど、決してそれだけではないだろう。普段からさまざまなことについて考えをまとめているから、ある時に、即座に判断できるのだ。

このことを、考えないヒトは勘違いして、考えていないのに、自分は考えているという錯覚を持って、モノゴトを判断する。それはあまりにも安易で危険だということに気づいていない。

古市憲寿さんだったか、だれだか忘れたけど、沖縄基地移転問題にしろ、集団的自衛権にしろ、これがいいか悪いか、考えれば考えるほど、本当は「わからない」という答えが多くなって当然なのに、(単純に)イイ、ワルイということが世論調査で出てくるのが、不思議だという。
考えることなしに単純な思考で価値判断することを、世の中は奨励しているようだ。


では「考える」にはどうしたらいいのか。

「書くことは考えることである」というのは、確か、小林の「考えるヒント」だったけ。
内田樹さんも同様のことを繰り返し述べている。まず「書きたいこと」が事前にあって、書くのではなく、書いているうちに、考えがまとまり、書くべきことが「発見」されると。

書くことでアウトプットし、考える。
もうひとつが、「ぼんやりすること」なのかもしれない。
4月15日のNHK「あさイチ」で、やっていた。

http://www1.nhk.or.jp/asaichi/2015/04/15/01.html

これは「考える」こととちょっと違うのかもしれないけど。
「考える」ことを考えると、いろいろ「考え」が出てきて、短い文章ではまとめきれなくなってしまった。
支離滅裂な文章だけど。
これが自分の「ヘタの考え休むに似たり」なんだろう。自戒自省を込めて。