2011年2月11日金曜日

泳ぐことについて語る時僕の語ること②

 2011年2月11日。東京も雪になった。氷点下の中、8時過ぎには家を出てプールに向かう。こういう寒い日は朝からプールにやって来る物好きはそういないだろうと思うかもかもしれないが、逆である。泳ぐ人(走る人、筋トレの人も同様だろうが)は、こういう日こそ、施設がすいていてのびのび身体を動かせると考える人ばかりなのである。気のせいかいつもの休日より混雑している。

 「泳ぐこと」の一連の動きは、ひとつの儀式だ。電車に揺られて施設まで行き、着替えてシャワーを浴び、そして泳ぎ、風呂につかり、髪の毛を乾かし、ベンチでしばし休む。このおよそ1時間半は、いわば流れ作業だ。しかし、それは単に習慣化された惰性の所作というのではない。気持ちの上では悩んだり、後悔したり、少しばかりの勇気を出したりと、自分の中でひとつのストーリーを形成している。
 この日は、普段にも増して身体は芯から冷え切っていて硬かった。シャワーがひとつの関門だ。何回通っても体を濡らす瞬間はちょっと躊躇する。どうにか第一の関門を乗り越え監視員のカウンターの前を軽く会釈しながら通り、いつものコース(低速コース)に行く。

 「たかが泳ぐだけ」にどうしてこんなにも毎回心悩むのか。特に冬場、水に入る瞬間は、まるで肌に貼った絆創膏を産毛が抜ける痛さを覚悟して一気にベリっとはがしてしまう行為そのものだ。一挙に水に入り、すぐ泳ぎ始める。身体に寒いだの、イヤだのと考える余裕を与えないようにするためだ。筋肉はまだ起きていない。肌は水の冷たさを受けでこわばってくる。しかし我慢してゆっくり腕を回す。
50mプールを1回、2回と往復するうちにようやく肌と筋肉が慣れてくる。最近は体力も少しは備わり1000mを越してからもなんとか気力がついてくる。この日は思いのほか調子がよかった。2000mを50分を少し過ぎるくらいで泳ぎ切った。

 快感は事後的に得られる。泳ぐことを続けていて得られたのは、そんな単純なことだけかもしれない。村上春樹さんが「走るとき語る時、僕の語ること」(新潮文庫)の中で書いていたことが、印象に残っている。

『誰かに故のない(と少なくとも僕には思える)非難を受けたとき、あるいは当然受け入れてもらえると期待していた誰かに受け入れてもらえなかったようなとき、僕はいつもより少しだけ長い距離を走ることにしている。 いつもより長い距離を走ることによって、そのぶん自分を肉体的に消耗させる。そして自分が能力に限りのある、弱い人間だということをあらためて認識する。いちばん底の部分でフィジカルに認識する。そしていつもより長い距離を走ったぶん、結果的に自分の肉体を、ほんのわずかではあるけれど強化したことになる。腹がたったらそのぶん自分にあたればいい。悔しい思いをしてらその分自分を磨けばいい。そう考えて生きてきた。黙って呑み込めるものは、そっくりそのまま自分の中に呑み込み、それを(できるだけ姿かたちを大きく変えて)小説という容物(いれもの)の中、物語の一部として放出するようにつとめてきた。』(文庫版 P48から 引用)

怒りとか悲しみとか恐怖とか、心の動揺を抑えてくれるのは、体を動かすことだけかもしれない。心と体のバランスをいかにとるか、50を越して自分の中で大きなテーマになっている。
 「走るときに語るとき・・」については、また別の機会に“語り”たい。