「泳ぐこと」の一連の動きは、ひとつの儀式だ。電車に揺られて施設まで行き、着替えてシャワーを浴び、そして泳ぎ、風呂につかり、髪の毛を乾かし、ベンチでしばし休む。このおよそ1時間半は、いわば流れ作業だ。しかし、それは単に習慣化された惰性の所作というのではない。気持ちの上では悩んだり、後悔したり、少しばかりの勇気を出したりと、自分の中でひとつのストーリーを形成している。
この日は、普段にも増して身体は芯から冷え切っていて硬かった。シャワーがひとつの関門だ。何回通っても体を濡らす瞬間はちょっと躊躇する。どうにか第一の関門を乗り越え監視員のカウンターの前を軽く会釈しながら通り、いつものコース(低速コース)に行く。
「たかが泳ぐだけ」にどうしてこんなにも毎回心悩むのか。特に冬場、水に入る瞬間は、まるで肌に貼った絆創膏を産毛が抜ける痛さを覚悟して一気にベリっとはがしてしまう行為そのものだ。一挙に水に入り、すぐ泳ぎ始める。身体に寒いだの、イヤだのと考える余裕を与えないようにするためだ。筋肉はまだ起きていない。肌は水の冷たさを受けでこわばってくる。しかし我慢してゆっくり腕を回す。
50mプールを1回、2回と往復するうちにようやく肌と筋肉が慣れてくる。最近は体力も少しは備わり1000mを越してからもなんとか気力がついてくる。この日は思いのほか調子がよかった。2000mを50分を少し過ぎるくらいで泳ぎ切った。
快感は事後的に得られる。泳ぐことを続けていて得られたのは、そんな単純なことだけかもしれない。村上春樹さんが「走るとき語る時、僕の語ること」(新潮文庫)の中で書いていたことが、印象に残っている。
怒りとか悲しみとか恐怖とか、心の動揺を抑えてくれるのは、体を動かすことだけかもしれない。心と体のバランスをいかにとるか、50を越して自分の中で大きなテーマになっている。
「走るときに語るとき・・」については、また別の機会に“語り”たい。
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