2011年3月12日土曜日

スキー場の黄昏と希望

 「私をスキーに連れてって」という映画が評判になったのは確か1980年代の初めだった。(ウィキペディアによると1987年11月公開となっている)。私自身はすでにそのころ「スキー愛好家」であり、この映画に魅了されたという訳ではないが、周囲に聞くと、世の中的には、この「わたスキ」が一大スキーブームの先駆けになったという。

 そもそもスキーは登山と並んで戦後の一大レジャーであった。多くの人が満員の夜行列車に揺られながらスキー場を目指した。 (「サザエさんを探して」という朝日新聞の土曜版コラムでも取り上げられていた。)

 しかしいま、スキー場は黄昏ている。私の知る限り、今シーズン、12月の八方、正月の蔵王、2月平日の苗場、そして3月初めの志賀高原とどこも人は少なく滑る分には快適であった。しかし苗場なんかでゴンドラもリフトも動かしていないものがあり、さびしい営業だ。レストハウスもすでに「廃墟」と化しているところも多い 志賀高原の焼額山のロープウェイで一緒になった年配の方がしみじみ言っていた。ピークは1998年の長野五輪の時かな。それ以来落ちるばかりだ、と。その人が泊っている400人収容可能だという宿は、前夜わずか14人だったという。

  ビギナーにとってスキーは確かに面倒くさいスポーツである。道具をそろえ、時間をかけて、その場所まで行き、慣れない重い道具を身に着けリフトに乗ってようやく準備ができる。 (ここまで記したのが3月11日より以前であった。 3月11日を境として、スキー場の黄昏などという、この状況下ではのんきな言説は語れないので、しばらく時間を置いて、以下は再開した。)

  いまスキーヤーの多くは、比較的コアな人々だ。スノーボーダーも、かつては無謀な若者が多く、技術がなく自らを制御することができず、スキー場の危険な存在だった。しかしそういう人は今や少ない。少なくとも私は今シーズンにそういうボーダーは見かけなかった。スピードは出してもコントロールできる人々だ。

 かつて、平日のスキー場は学校名の入ったゼッケンをつけて講習を受けていた、高校生や大学生であふれていた。ゲレンデそばの、いわゆるロッジと言われる宿には、大食堂があり、10畳の畳部屋に6~7人が詰め込まれて、4日間か5日間、みなスキー訓練(それは体育の授業の一環でもあったのだと思う)を行っていた。 私がよく参加していたのは、YMCAのスキーキャンプだ。小学生のころは毎年冬休みと春休みに参加するのが楽しみだった。そしてゼッケンを着け、斜面に並んで順番を待ちながらスキーを教わっていた。

 そうした光景を見ることは、いまはまれだ。ほとんどいないと言っていい。スキー講習の「聖地」志賀高原の熊の湯スキー場で、唯一高校生のスキー教室を見ただけだった。集団で講習を受け、少しでもスキーに親しめば、中には興味を持ってその後続けてみたくなる人が出てくる。が、こうしたスキー教室そのものが行われない中で、スキーをやろうという人は、新たにはなかなか生まれない。  

 世の中には、他に楽しいことは山ほどあるから、別にスキーがレジャー&スポーツとして衰退してもよいではないかという考えもあるかもしれない。しかし、である。自然の中で、寒さを感じながらも爽快感を得るこのスポーツには、スキーならではの魅力がある。それを少しでも多くの子どもたちに経験してもらいたい。
 
 銀世界の中で自然を考え、自然と向き合うきっかけになればと思う。  例えば、標高1800m余りの北アルプス八方尾根の第一ケルンから見る峰々の景色は、言葉に表せないほどのすばらしい眺めだ。リフトやロープウェイで一気に高度を上げて山の上まで行くのは、山屋から見れば邪道かもしれない。それ自体が自然破壊だという主張もあるだろう。それはその通りだ。私も山の頂上までリフトやケーブルを引くことには反対だ。しかしより多くの人が楽しめるようにある程度の「開発」は、もちろん自然に配慮しながら行うのらば容認したい。どこまでがよくて、どこからがダメなのかはきちんと議論を経て決めればよい。

 スキー場の黄昏は深刻だ。旅館やロッジは相次いで閉鎖している。バブル期に開発された小さなスキー場はもはや経営がなりたたない。ある程度の集約化は避けられないが、逆に空いていることを逆手に、若い人たちにもっと来てもらいたい。冬場、まずスキー場に行くこと。それがきっかけになるのだから。そこにスキーというレジャー&スポーツに希望がある。

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