2015年12月30日水曜日

図書館を開放せよ! 年末年始こそ開けるべきだ。武雄市を見倣え

 クリスマスから年末年始にかけては、世間は華やいだ気分になるのは、世界多くの国で同じかもしれない。紛争地域(キリスト教の地域)では「クリスマス休戦」があることもあるし、日本に「年忘れ」という言葉があるよう、まあ悪いことも年があけるのだから忘れて、いわば「前向き」に生きようというメッセージなのだろう。それはそれでよい。
 反対に、ひとりの人、生活が苦しい人にとっては、年末はイヤな時期なのかもしれない。「年越し派遣村」が社会で注目を集めたのは記憶に新しい。

 前置きはそのくらいとして。
年中無休の武雄市の図書館(netより「引用」)
年末年始は誰でも休みたい。客が少なくなるという事情もあるのだろうが、普段は朝7時から空いているカフェも開店が1時間繰り下がったり、閉店が繰り上がったりしている。ビジネス街のカフェは需要がないのか年末年始を閉めるところも珍しくないだろう。またこれも、それはそれでよい。経済は需要と供給の関係で市場原理で動くことを否定はしない。

 しかし公共施設は、少し性質が違う。市場原理ではない「判断」があってしかるべきだ。
ジモト、大田区の図書館は12月29日~1月3日まで全館休館だ。もうひとつ利用する目黒区の図書館に至っては4日(月)まで休み。ネットで調べると世田谷区の図書館も29日から3日まで、一部は4日まで休みだ。これが公共サービスと言えるのだろうか?お役所仕事の極みだ。

 役所の事務が年末年始が休みだから、同様にお休みします。4日は月曜日で通常休館日にしているところがあるから休みます。という通り一辺の「扱い」でしかない。
年末年始こそ、まとめて勉強したい人、本をゆっくり読みたい人、またセンター試験が近い時期でもあり、最後の追い込みで集中して勉強したい人が大勢いる。こういう人々=「学びたい人」たちを支えるのが行政の大事な役割ではないか。誰しも家庭に静かに勉強できる環境がある人ばかりではない。そしたことに思いが巡らないのか、お役所の人々には「そんなのカンケイない」ということなのだろうか。自分たちが年末年始をゆっくり休めることが第一なのだろう。
何も、年末年始も通常通りの貸し出し業務を行えとは言わない。
「通常の貸し出し業務は停止するが雑誌・新聞の管内閲覧と学習室は開放します」というような経営上の“工夫”があってもいい。

 何も図書館で働く指定管理者の業者(最近はほとんどの図書館が「下請け」だ。)は年末年始もなく働けと主張しているのではない。業務を絞り込めば、交代で勤務することも可能だろう。はたからはやる気がないだけにしか見えない。
そもそも役所関係の人間には、土日や年末年始・お盆など多くの人がお休みする時期に働いでいる人が結構いることに対して想像力がない。交通機関やデパート、スーパーなどの店舗で働く人だけではない、介護など福祉の現場でも業務がお休みすることはない。大規模工場など高度成長時代の感覚を引きずっているのか、第3次産業の人口がいちばん多いことにもう少しアタマを働かせてほしい。

ちなみに武雄市(佐賀県)の図書館は365日無休で朝9時~夜9時まで開いている。TSUTAYA図書館には、選書などを巡って批判もあるだろう。しかし少なくとも住民サービスを第一に考えた運営を行っているのは確かだ。
よいところは見習ったらどうか。多くの自治体は。

*図書館サービスはそれなりに進化していて、ネットでの検索、同じ区内であれば取り寄せもすぐ行ってくれる。都内であれば区内にない書籍も時間は多少かかるが普段使用する図書館の窓口で借りられる。それはそれで喜ばしいことだ。だからこその提言である。


2015年12月23日水曜日

出張先の「朝ラン」 名古屋と仙台の巻

出張ランは、あまり大会に参加しない「孤高のランナー」には楽しみのひとつだ。知らない(地理に詳しくない)土地のそれも都心の朝を走るのは、出張中の面倒くさいを乗り越え走ってみる面白みがる。今回は名古屋と仙台。
○名古屋市内ラン(12月2日)
泊まりは名古屋の中心地中区栄のビジネスホテル「R&B栄東」。中区役所のすぐ裏手だ。6時過ぎに準備して出た。名古屋の大通りはなにしろ幅が広い。それだから信号も長い。ひっかかるとずいぶん待たされるのにはちょっと閉口したが、歩道もすごく広いので安全に走りやすい。
区役所の前を通り、久屋大通を北上。この通りは、中央の広い遊歩道(テレビ塔もある)をはさんである非常にデカい通りだ。(東京にはこんな通りはない)。
ホテルにあった簡易な地図を頼りに、大通りの東側の歩道を走ったら、認識と実際に走った道が違っていていつのまにか細い道になった。あとで調べたら愛知県庁の裏側だった。
ともかく、信号「市役所東」で左折して、名古屋城の端っこに出る。そこから左回りに名古屋城を一周した。思ったより短く、大阪城より小さいという印象を受けた。四方を3つ通って、お城の南側に出ると天守閣への入り口があるが、そこは「有料」でもちろん朝はやっていなかった。
(この点、大阪城が天守閣のすぐ真下で大勢がラジオ体操していたのとは対極だ)

お堀は西側と南側に残っていた。ちょっとあっけないお城めぐりだった。距離もそう出ていないので、とりあえず久屋大通りを南下、今度は道の右側、つまり西側を走った。途中から真ん中の遊歩道を走ってみたけど、かえって走りにくかった。途中、アーチ型の歩道橋がかかっているところもあるけど、すべての交差道路にかかっている訳ではなく、連続して走るには不向きだ。
栄をまでだとあまり距離がないので、今ん度は高速道路にぶつかる若宮大通りまで行く。少し周遊しながら、再び道の真ん中の遊歩道を北上して宿に帰った。距離は8.5㎞ほど。正直、少し物足りなかったけど、他に目標物が分からなかったからそこで打ち止め。
宿泊したホテルは安くでよいのだけれど、無料の朝食が少し貧弱。パンとゆで卵とスープとコーヒー、ミルク、ジュースだけだ。朝ランの身にとしてはもう少し食べたかったけど・・・。(笑)

名古屋市はご承知のように碁盤の目のような道だ。もう少し街をしれば、走る場所ももっと開発できるだろう。これからの楽しみだ。


○仙台市ラン(12月14日、15日)
仙台出張は、日曜入りだったので、月、火と2日間のランの機会があった。
泊まりは仙台駅から徒歩15分、県庁手前の「法華クラブ」。愛宕上杉通りと定禅寺通りの交差点の少し南だ。
●1日目
仙台も中心部は比較的碁盤の目になっている。朝5時半に目が覚めたが、真っ暗なのには驚いた。6時近くなってもまだ真っ暗だ。この日の日の出時刻を調べたら、なんと6時45分だった。
東京が6時42分なので3分しか違わないのに、ものすごく暗く感じたのはなぜなんだろうか。
ちなみに福岡が7時14分だった。

ホテル法華クラブを出て、愛宕上杉通りを北上。片側2車線だけど路側帯が広く歩道も広い道で、走るのには快適だ。右側にNHK仙台放送局を見て、左側に真新しいNTTドコモの高いビルを見て走る。しかし道は、左手に東北大学の農学部あたり、2㎞もいかないうちに細くなった。仙台市の中心街は意外と小さいと感じた。しばらく行くと、北仙台駅付近。山形と仙台を結ぶ仙山線の高架を見ながら、西に折れて進む。突き当りを更左に折れて南下。右側の東北大学病院沿いに右(西)に折れて進む。
この辺で引き返そうかと思って周囲を見上げたら、タワーマンションが見えた。ライオンズマンション青葉広瀬だった。(後で調べたら)。とにかくその「麓」まで行って、少し戻るように、回り道をして広瀬川に出る。
広瀬川は河岸段丘になっている所も多く、河川敷を走るという状態ではない。(もっと下流にいくと河川敷に出られると、あとから聞いた)。大きくくねった広瀬川の橋を渡ると左手は仙台第二高校だ。左前に東北大学のキャンパスを見ながら、左に折れて、再び橋を渡る。いわゆる仙台西道路だ。昔、山形から仙台に出る時には必ず通った道の「上」を走っている感じ。仙台市の中心街に戻り、一番町のアーケードの中を北上して、イルミネーションで有名な定禅寺通り右折して宿に戻る。だいたい9㎞ちょっとの道のりだった。



●2日目
青葉城を目指す。宿から南下して、青葉通りを西へ、広瀬川を渡り、仙台国際センターの前を左に折れて裏から青葉城へ。ここから結構な登りだ。(部分的にはほとんど登山)。
青葉城の城壁は美しい
走ることが無駄なような急坂だが、「走った」。思いだしたのは村上春樹の「走ることについて語るとき、ぼくの語ること」だ。この中で、村上さんはサロマ湖100㎞マラソンに出た時のことを書いている。くたびれてきても「決して歩かなかった」歩くようなスピードになってても「走る」ことにこだわったことが記されていた。それに倣い、急坂をほとんど足が靴のサイズの30㎝弱しか前に出ないけれど、走った。そして道路と合流し、その脇に遊歩道(時々階段になっていた)を「走って」青葉城に着く。距離にしたらたいしたことはないが、急坂を走るという経験がないだけに、きつかった。
翌日、すねの前の筋肉が痛かったので、登り坂で使う筋肉は違うということに気付かされた。
身体が冷えるので写真をとって早々に青葉城を後にする。
青葉城はなんと「護国神社」になっていることを知った。お城の中に「護国神社」というのは初めて知った。もちろん神社境内には入らなかったけどね。

仙台市の紹介では(定番」の伊達正宗像


















2015年12月19日土曜日

「生きて帰ってきた男」から『希望』について考える。

小熊英二さんの『生きて帰ってきた男-ある日本兵の戦争と戦後』は、読み応えのある本だった。これが岩波新書で940円というのは安い、お買い得。
「小林秀雄賞」がどんな賞で、この本にふさわしい章かどうかもわからないが、ともかく“賞”を獲得するにふさわしい内容だ。

生きるのに精一杯だった、農村出身のひとりの男の一生。
「平均的日本人」などというものは存在しないだろうが、ともかく近代において多くの日本人がそうだったような生い立ちと、徴兵、そしてシベリア抑留、戦後の混乱期を生き抜いてきた人間像を、その背景をデータや他研究から綿密に背景として描いた手法は、読み手に説得力を与える。

シベリヤ抑留について、これまで興味はなくその関係の本をまったく読んだことがなかったが、こういう描き方だと、読める。また戦前、戦中、戦後の社会の様子も非常に興味深く読むことができた。
本編の最後は、以下のように結ばれている。

「さまざまな質問の最後に、人生の苦しい局面で、もっとも大事なことは何だったかを聞いた。シベリヤ抑留や結核療養所などで、未来がまったく見えないとき、人間にとって何がいちばん大切だと思ったか、という問いである。『希望だ。それがあれば、人間は生きていける』そう謙二は答えた。」

おそらく謙二は、精神的には強い人間だったのだと思う。自暴自棄になることもなく、苦しい時にひたすら耐えることができる、苦しい中にも生きる望みを見出そうとする精神の持ち主だ。そして、限られた“資源”からも創意工夫で、生きるためさまざまなツールを生み出す才覚も実はあったのだろう。そういう面はあるにせよ、だからこそ「希望」を失うこともなく生きてきた。

『希望だ。それがあれば、人間は生きていける』。

これで思い出したのは、村上龍がどこかで書いていたことだ。
「日本には何でもある、しかし『希望』だけがない」(不正確だけどこういう趣旨だった。『135歳のハローワーク』だったかもしれない)

モノやサービスがあふれ、そういう面ではお金さえあれば何でも手に入るほど、表面上は豊かになった日本には、『希望』がないことを、短いことばで的確にとらえた一文だ。

玄田有史さんの『希望学』もある。最近の(2か月くらい前)の日経新聞で、若者が会社を辞める時はどういう時がという研究の話が載っていた。それは「先が見えてしまった時と、まったく先が見えない時」ということだった。つまり、どちらも「希望」が見いだせない時だろう。

小さなカイシャのソームをやっていると、いかに若い人に「希望」を提供できるかが重要なことが分かる。


「希望」を持つ。このシンプルで一見陳腐な言葉は、実は奥が深く、重い言葉なのだろう。

※その後、ネットで調べたら、村上龍の「この国には・・・」は、小説「希望の国のエクソダス」の中の言葉でした。
13歳のハローワークは、その後、「新・13歳の・・・」も出版されている。
職業は生きる手段ではなく、生きることそのものだということを、説いている。





2015年12月5日土曜日

ラグビー日本代表「歴史的勝利」とは何か?。

 五郎丸選手は、物腰が穏やかで、紳士然としているところもあり、国民的な“人気者”になってもおかしくない。好感の持てる人物だ。その意味ではにわかラグビーファンが増えてもおかしくない。別のそのことに異議を唱えるものでもない。

 が、先のワールドカップで南アフリカに勝利したことを「歴史的勝利」と言うことには、違和感を感じる。先日の今年の流行語大賞で、再びこのフレーズを耳にして、抵抗感を覚えた。
 長くラグビーに関わってきて、諸外国の中で辛酸をなめてきた選手や関係者が、「歴史的勝利だ」というのは、理解できる。当事者にとって一大事だということが伝わる。そういうことは個人史でもあるだろう。
 しかし、テレビジョンのアナウンサーが「国民誰もが感動した・・・・」(朝のニュースで確かにこう言っていた)とか、「歴史的勝利」などと言うことに、どれほど裏付けがあるのだろうか。こういうのを言葉が滑っていると言うのではないかね。
そもそも「歴史的」とはどういうことを指すのか。歴史上の意外性ということなのか。それは何の、どういう立場から見た「歴史」なのか、言葉の定義をはっきりさせないで言っても意味が伝わらない。

 一連の「歴史的・・・:はスポーツについてのことだからまあどうでもいいけど、メディアがこういう言葉を何の疑問も持たず使っているとしたら、それは少々問題なのではないか。

ISという集団が国の中に新たに国として「宣言」することの方が、よっぽど「歴史的」な出来事だろう。でもニュースを見ていて、新聞も含めて、ISの独立宣言を「歴史的」と言っているのを見たことがない。どうも「歴史的」とはモノゴトを肯定的にとらえる時しか使わないらしい。メディアは。

こういう些細なことが、次第にメディアへの不信感につながっていくような気がする。