2016年7月16日土曜日

「孤独なランニング」。自分を起動させるものは「不安」なのかもしれない


 リースマンの「孤独な群衆」は社会学の古典であり、大学時代に“読まされた”記憶があるけど、内容をすっかり忘れていた。改めて読み返すほどの力量はないのでお気軽にWikipediaで要約を見返す。伝統型社会では人は恥によって行動し、内部指向型社会では罪の意識によって行動する。そして現代のような外部志向型社会では人は「不安」によって行動する。というのが、そのごく簡単な内容。(だと言っていいですかね)

 毎日のように走り、そして最低週に1度は泳ぎ、つたないながらも筋トレをして、そしてさまざまな書籍を読む努力をする。仕事にも一応全力を傾ける。
 そんな自分を起動させているものは何なのか、常々考えていた。
 走る準備をしている時、泳ぎに行こうとする時、そこにはどこかイヤイヤやっている自分がいる。何か、しなくていい理由がないか頭のすみで考えている。雨が降ってきたとか、今日はプールが休みなんじゃないかとか。そうした「期待」を裏切られて、走りはじめても、それほど走ることに喜びを感じない。しかたなく走っている自分がいる。特に走り始めは身体が重く(この現象は加齢でますます大きくなってきた)、調子が出ない。100mくらい走ると思わず歩きだしてしまいそうになるほど足が上がらないことがままある。それでも多少は忍耐力があるからどにかこうにか2,3㎞走り、やっと身体も温まり調子が出て来る。すると今度は必死さだけが全身を覆う。なんとか走らないと自分は追われている身なのだと、無意識(前意識)の中で考えているようだ。こうした時に何を考えるかと言うと、村上春樹さんの『走ることについて語るとき・・・』の一節だ。自分をロバと思う。壊れないぎりぎりのところでロバには荷役を担ぐことが仕事だと体に覚え込まさないと、続かないという趣旨だ。そうだ自分はロバなのだ。走ことは、しなければならない苦役だ。サボるとムチが飛ぶ。エサを食べさせてもらえない。と、自己暗示にかけて必死に走る。泳ぐ時も同じだ。
もちろん終わった時の爽快感や達成感はある。でもこれを味わいたいがために走り始めるということはない。
 そうしたイヤイヤ走っている自分を起動させているものは、何か。それは「不安」なんだと考えが行きついた。老いることそのものへの不安、老いて身体が動かなくなることへの不安、そして体型が醜くなることへの不安、何よりも健康への不安。読書も、知識欲(もちろんこれもあるけど)というより、知識がない教養がないことへの恥の気持ちへの不安。すべて不安という言葉がよくあてはまる。食事に気を付けているのも同じだ。
 まあこう言ってしまうと身もふたもないけど、自分自身が一番納得してしまうから仕方ない。ムラカミさんはなんで走るんですか。改めて聞いて(読んで)みたい。

だだひとつ言っておくと、少なくともムラカミさんの著書を読むのは「不安」からでなくて、純粋に読みたいからという気持ちからです。
 「孤独なボウリング」はパットナムの大著だけれど、それをもじって、自分を「孤独なランニング」と言うことにした。
 こう書くと、なんだかスッキリして、かえって走り始めることに抵抗が少なくなったかもしれない。自分は不安から走っていると言い聞かせればいいいんだから。