2016年11月26日土曜日

考える時間を持つということ。〔還暦を前に考えること①〕

 確か斎藤孝さんの書籍(というより、ハウツウ読み物)に「15分あれば喫茶店に入りなさい」というのがあったように思う。(いまアマゾンで調べたらあった)。

 アマゾンで閲覧可能jな目次(第1章のみ)には、「喫茶店はアイデア生産の場」「垂直思考を身に付ける」「インターネットから脱出」「自分を鍛える」「15分は仕事をするのに十分」などが並ぶ。ちょっと立ち読みしただけなので内容はまったく記憶にないが、タイトルからだいたい想像はつく。どれももっともなことであるし、齢を重ねればなおさら必要なことだろう。
 週日のほぼ毎日(と言っても週に3日くらいか)、仕事の帰りに自宅駅の喫茶店に寄りるようにしている。そして毎週土曜の朝は7時半ごろから1時間半、プールが開く前喫茶店で過ごすことにしている。
 
 週日の夜はハラも減り、早く自宅に帰りたい気持ちの方が大きい。でも寄る。それは自宅に帰ると、気持ちは弛緩してしまうからだ。ありていに言えばくつろぐから。そうするともう読書も“勉強”もしない。ただテレビ(ほぼ『きょうの料理』しか見ない)を見ながら新聞に目を通し、夕食を取るという1時間を過ごすことになる。そのあとは睡魔が襲ってきて、風呂に入ってその日は事実上「終わり」だ。
そうならないための装置が「喫茶店」だ。(喫茶店という言葉自体が古臭いけど、今ならカフェというのだろう。)
土曜日に必ず行く都心のエクセルシオールカフェ

 15分という時間も理にかなっている。前に書いたけど「18分集中法」に通じる集中できる時間だ。
まあ、喫茶店で15分集中するためにはその準備と片付けで前後の時間を考えて30分は必要だとは思うけど。
 で、喫茶店で何をするか。これは無限の可能性がある。読書、文章書き、資料の読み込み、そして思考の整理。スマホは持っていないのでPCを持ち歩いている。でもネットサーフィンだけは喫茶店ではやらないことにしている。これは夕飯を食べながらでもできる。
 
 トシをとるとどうしても集中力が落ちる。図書館の学習室に行って勉強しても、せいぜい1時間しか頑張れない自分に気付き、がく然とした。そのあとちょっと休憩しても、効率は明らかに落ちていた。毎日何時間も勉強している息子がエラく見えたりする。歳をとるということはそういうことか。それなら、いっそ逆手にとって、毎日1時間集中する時間と空間を確保することにしよう。それが喫茶店だった。でもいろいろ雑事もあり、仕事も時間通り終わらなかったりと日曜日を除く毎日に1時間を確保するのは意外に難しいことがわかった。

 何より喫茶店での時間は「立ち止まって考える時間」だ。これは生活の中で絶対必要だ。人はヒマがあれば考えるというものではない。忙しく働いている人の方がアイデアが浮かび、“考えている”ことがある。しかし走りながら考えたことは、どこかでせき止めて整理することも必要だ。でないと、考えたことは、ハタから見れば単なる「思いつき」でしかないこともしばしばあるから。

 喫茶店の「効用」を説く斉藤さんの本は、その意味では参考になるだろう。でも読まなくても自分でいろいろ試すことで獲得できることでもあるけどね。


2016年11月23日水曜日

持続可能なコミュニケーションとは。「東北食べる通信」から考える。

 blogにしろ何にしろ、文章を書く時、予め頭(又はメモなど)に、「書きたいことの結論」がある訳ではない。
 実は何を「表したい」あるいは「著したい」のか、自分でもわからない。
ただ、アタマの中に何かモヤモヤしたものがあり、それを何とか吐き出したいという感情だけが、最初にある。
 書くこと、かっこ良く言えば思考を言語化する過程で、自分が何を書きたいのか、書くべきなのか、何を言いたかったのか、次第に整理されてくる。
大昔に読んだ本で、小林秀雄が「書くことは考えること」と言っていた。このフレーズは、いまでも文章を書き始める時、思い出す。
整理されていないアタマをスッキリさせるのは、とにかく書き始めることなのだと。

 と、前置きが長くなってしまったけど、(一部で)話題の『都市と地方をかきまぜる~「食べる通信」の奇跡』(高橋博之著)を読んで、アタマの中がモヤモヤしてきて、書き始めてしまった。

 高橋氏が「グッドデザイン賞」金賞を受賞したという、「食べる通信」の試み、(というよりは事業と言っていいかもしれない)は、これまでもよくあった、「顔の見える農業」や、「生産者と消費者を結ぶ催し」とさほど変わらないビジネスモデルだし、これ自体が斬新という訳ではないけど、この事業をポピュラーにし、限定された地域から東北全体に広がりを持たせたこと、また「食べる通信」の内容の濃さなど、いくつもの斬新さがあったことは確かだろう。元県議、知事選挙立候補→次点で落選→政治家引退という経歴も「宣伝」に一役買っている。もともと新聞記者志望だったという著者の「文章好き」が、この事業を持続させているのは確かだ。

 我が家も、お米を山形・鶴岡市の有機農家の直販で買う。中には簡単な手紙が添えられていることもある。初めのうちは読むけど、そのうち飽きもくる。おそらく書く方もネタが尽きてくるのだろう。初めは生産者と消費者を結ぶコミュニケーションだったが、次第に陳腐化して、次第に、消費者の方も単に「おいしいお米」を手に入れるという手段化していってしまう。生産者の方も、おいしい有機米というウリを伝えることが、次第にショーバイ化してしまう。
 これはコトの成り行きとして仕方のないことだ。否定しようもない。なぜこの農家からお米を買い続けるのか。この農家を応援したいからというより(そういう気持ちもちょっぴりはあるけど)、単に安心でおいしいつや姫の無洗米が比較的リーゾナブルな価格で購入でき、それも家まで届けてくれるからにほかならない。こう言ってしまうと身もふたもないけど、冷静に言うとこういうことだ。

 「東北たべる通信」(直接読んだことはないけど)は、おそらく生産者本人が「書く」のではなく、この高橋氏が、ある種ジャーナリストの目で、生産者と消費者をつなぐ役目を負っていることが、内容の陳腐化を防ぎ、持続的な読み物として続いている大きな理由なのだろう。これは評価すべき大きな要素だ。
 逆の言い方をすると、有力な後継ライターが育たない限り、高橋氏が書かなくなると、やがて陳腐化し、たんなる農家直販のショーバイ化する恐れもあるということだ。

※自分が何を書きたかったのか、ここまで書きながして、初めて少し分かった。ここまで書いて、タイトルが浮かんだ。

著者は、かなりの読書家だということが伝わる。そのためこの本の前半は、著名人の引用が随所にあるけど、ちょっと説教臭く、読んでいる方は心の中で苦笑してしまう。第3章のチャプター2になって、やっと『食べる通信』の誕生のいきさつ、エピソードが出てくる。
リクツから入るところは、私自身のクセにも似ていて、だから妙に共感してしまうところもあるけどね。

 人口減少社会、都市への一極集中社会、都市の地方(農村)の結びつきをいかに取り戻すか、など所与の課題に正面から取り組んでいるし姿勢は支持するし、多くの人はそのこを否定しないだろう。この本を読んで、逆に課題が分かったのは、どんな試みも陳腐化、形骸化させずに、持続させるためにはどうすればいいかということだ。
 
 事業の多くが、属人的な能力で支えられているものは、ちょっと見渡すと結構ある。ソフトバンクの孫正義、『たいまつ』の“むのたけじ”、後継者がうまく育たないと、やがては消えていく。
トヨタや松下は、後継者が育ったから更に大きくなったとの言える。(ちょっと乱暴な論理かもしれないけど)。

 魅力的な文章で、食物とその生産者を支え、消費者との線を太くする。その活動には敬意を表したいし、参考になる事業だ。繰り返しなるが、それをいかに陳腐化せずに続けるか、自分なりに考えてみよう。漠然と農業を応援したい気持ちは心のどこかにあるのだから。

2016年11月12日土曜日

60歳フルマラソンを目指して。

52歳くらいから走りはじめて7年目。そう熱心なランナーではないが、
週に2、3日外走り、2日はトレッドミルで汗を流し、10㎞なら「朝メシ前」になり、日曜はハーフ(21㎞前後)走っても、午後からはフツーに他の用事ができるくらいまでにはなった。

 初めて「走り」はじめた時はわずか1㎞くらいで腸脛靱帯が痛み、3㎞の道のりをやっとの思いで帰ってきたことを思えば、大変な進歩だ。この間、足の指の爪は何度となく失われ、親指や薬指はずっと紫色のままだったけど、そんなことは、獲得した「健康」と比べればたした問題ではない。

 現在月間約120㎞、トレッドミルを加えて150㎞前後が平均だ。こんなんでフルマラソンを走れるのかどうか分からないけど、ひとつの目標としたいとは思う。時間はサブ4でね。

 走ることでこれだけは言えるのは、「健康」になったということだ。もちろん走らなくてもそれなりに健康な人はいくらでもいる。けど、余計な脂肪がとれ身のこなしが軽くなったこと、それを維持しようと“無意識”に行動するから、食い物に気を遣うようになったこと。(昼飯も含めて外食がすごく減った。)いろいろ生活が変わったことはある。

 これから少しづつまとめていこうと思う。春樹さんの「走ることについて語るとき、僕の語ること」のようにはいかないけど、私家版の「走ることについて・・・」語りたい。


小池百合子はあまり好きじゃないけど、今彼女が闘っていることは支持する。

戸田ボート場
悪いけど、ボート競技はどれほど日本の皆さんに親しまれているんだろうか。応援に行く人が周囲に大勢いた、スポーツニュースで大々的に取り上げられたという話は聞かない。もちろん、だからって、昔から五輪種目のこの競技を軽んじていいと言っているのではない。
 レガシー(遺産)だと言って、数百億円の施設を台場に作ることに、その費用を負担する納税者は納得できるのだろうか。なぜ波が多少立つところではダメなのかという程度問題の話だ。

 小池百合子さんは、そんな人々のホンネをすくい上げようとしているように見える。

 ボート競技の当事者たちにとっては、それは立派な施設で快適な環境で競技することは望みだろうけど、全体最適から行って、それ相応の費用対効果があるのかどうか当然斟酌されるべきことだ。

 人にはアンビバレントな考えはつきものだ。東京五輪で日本人が活躍してメダルをとる姿を見たい。(それがある種のナルシシズムであることは置いておいてね)。一方でそのための費用を、オマエが出せと言われたら、「ちょっと・・・」と躊躇するだろう。そういうものだ。身勝手なのが人間の「本性」なのだから。
 
 ボート連盟?の人たちに、税金から支出する費用を多くの納税者はどう思うと思いますか?今後その施設どうやって維持するんですが?と聞いてみたらいいと思うけど。メディアは決してそうした不躾な質問はしないよね。


横浜国際水泳場
水泳競技場も、レガシーと言うならば、五輪後に一般の人々が水泳を楽しめる施設でなくては、なるまい。東京湾の埋立地の先端に作られても、交通の便を考えると、あまりいい場所とは言えない。作るならば、より多くの人が利用できるような場所に作るべきでしょう。

スポーツは市民に広く親しまれてこそ価値がある。メダルを取るという一時的なナルシシズムのために施設が作られることにはちょっと疑問を感じる。

 横浜国際プールは何度も通っているけど、立派な施設だ。ここが現状のままで『国際大会標準』に合致しているかどうか知らないけど、改修で対応できるんじゃないの。
 辰巳の水泳競技場はいささか古いけど、こちらでも十分でしょ。

 辰巳に関して言うと、ここは一般市民に、十分開放されているとは言い難い。競技大会が優先されるのはいいとしても、もう少し一般の利便に応えた設備にならないだろうか。

辰巳プール
水泳は日本では多くの小中学校に施設があり、健康的なポピュラーなスポーツだ。それは非常にいいことだと思う。そのすそ野をいっそう広げる一助になる施設であってほしいよ。

 五輪誘致の際のお金の不透明さ、(これは長野の時もあったけどついにうやむやで終わった)から始まり、競技場の建設問題、エンブレム問題。余りにもオカシなことが多すぎる。小池氏はそうしたことへの素朴な疑問を問いかけているだけだ。

 この人のことはそれほど好きではない。けど、いま彼女がやろうとしていることは、支持しますよ。森喜朗と闘ってください。






2016年11月9日水曜日

トランプさん、大統領当選おめでとう。

 トランプさんアメリカ大統領当選おめでとう。あなたはアメリカという国の大統領になるべくしてなった。あなたはアメリカそのものだからだ。(もちろん半分皮肉です)
 
 あなたの当選の報を聞いて思い出したものがいくつかある。

その1:「アメリカの反知性主義」
分厚い本で、ナナメにしか読んでいないので、内容の記憶はあまりない。きっとたくさんの解説がブログ上にはあると思うのでそちらに譲るけど、アメリカという国の一端を見せてもらったと思う。
 知性、というか理性だけでは人は動かないし、ホンネは違うところにあるのが人間だから。トランプさんはそれを白眉にさらし、ホンネを言うことをタブー視しない社会を作ったんでしょう。

石川好さんが日経にコメントしていたけど、アメリカ人はもともと、マッチョなならず者が好きな面があり、トランプ氏の言説の中にも「真実」はあるので、そこが支持されたと言っていた。また、その意味ではアメリカ人は変節したのではなく、そのものだとも。

なかなか説得力あるコメントだった。人間に理性が働くのは、心に余裕がある時だけだもの。




その2:「超国家主義の真理と論理」(丸山真男)

 これも、数々の解説がネット上でもあるので、そちらを見れもらえばいいけど、確か「抑圧の移譲」について書いてあったっけ。
 
 生半可な知識で丸山真男の言説を言うと、「丸山ファン」や「丸山研究家」にしかられそうだけど、人間は本質的に差別をするし、それがホンネなんだ。自分より弱いものをいじめることで自分の存在を確認するんだな。それは暴力という形のこともあれば、高額の所得を得て、他を見下すという形もあろう。
 とにかく優越したいというのが本性。
 こう言ってしまうと身もふたもないけど、今や、そのことに目を背けられない事態が世界で起こっているということなんだろう。
 「超国家主義・・」で丸山が描いた日本人気質は、実は日本人だけでなく人類共通の本性なんだと思う。




その3:「日本的ナルシシズムの罪」
つい最近読んだ本だけど、「抑圧の委譲」は、ナルシシズムだという(乱暴な)論理展開だ。
みな自分がかわいいから、だから差別をするし、自分より弱いものをいじめて溜飲を下げる。

人間の理性なんてものは、どこかに飛んで行ってしまったのが、アメリカ大統領選挙だったのだろう。

ナルシシズムという視点で、自分の周囲(カイシャの人など)を観察すると、妙に納得する。あれこれ自分の「立場」をしゃべって、人に認めさせようと、無意識に行動する人は結構多い。
はやりの「雑談」も、もちろん職場で必要だけど、ちょっと気を付けた方がいいだろう。

いずれにしても、自分は最低限の理性は持って、この先、生きていきたい。自分の中にある差別や抑圧を望む本性とちょっとだけ闘いながら。








2016年11月5日土曜日

後ろを振り返るということ。それは自己を見つ直すことだ。

物事をやりっぱなしにする風潮は、最近のことなのか、それとも「昔から」そうなのか。
最近いやなことが続いた。モノゴトをやりっぱなしにする輩は、なんかここのところやたらと目につく。
○その1:
マンションのエレベーターというのはどこもそうだと思うけど、ウラに「開延長」のスイッチがあって、たとえば引っ越し荷物を運ぶ時や棺を乗せる時などに、すぐには扉が閉まらないような設定ができる。これをオンにすると1分くらい扉は自動では閉まらない。
 拙宅のマンションで引っ越しか何かがあったのだろう。
ある日曜、夜に帰ってくると明らかにこのスイッチがオンになっていたようだ。一度上に行っていったエレベーターが5階で止まったままなかなか帰ってこない。
 以前同様のことがあったので、開延長のボタンのことを聞いていて知った。このまま月曜朝を迎えると、出勤・通学する住人で混乱するのは目に見えている。エレベーターの箱の中でスイッチはどこかちょっと見たけど分からなかった。家に帰るとマンションのサポートセンターに電話した。しかし対応されたのは月曜日になってからだったようだ。朝、やはりエレベーターは、一度人が乗降して開くとなかなか戻ってこなかった。
○その2:
いつも通うスポーツジムの洗面台。誰でも使えば回りに水がこぼれる。髪の毛も落ちる。それは仕方のないことだけど、多くの人がそのままだ。次に使う者はあまり気分のいいものではない。備え付けのティッシュを何枚もとって拭くことになる。もったいないのお。せめて施設の方がタオルひとつ備えておけば、こういうこともないんだろうけど。(ちなみに東京体育館の洗面台とその脇にならぶドライヤー台にはいつもタオルが置いてある。)
いずれのケースも物事をやりっぱなしにする人がいて、それが後から使用する人を不快にする。

ちょっとケースは違うけど、プールでもスポーツジムでも、シャワー室やプールへの出入り口の扉で、バンッ!とあけて、後ろを振り返ることもせず、出入りする人も多い。後ろに人がいることをまったく意識しないのだろう。

 これは想像力の問題だろう。混雑する電車でザックを背負ったままの者。出入り口に突っ立ってスマホをいじりに夢中で乗降の妨げになっていることを気づかない者。歩きタバコで煙を後ろにまきちらしていることが分からない者。挙げだしたらきりがない。

 でも、齢を重ねると、様々な意味で「後ろを振り返る」ことが大事だということを実感する。電車やカフェ、図書館で席を後にする時、忘れ物はないか、落し物はないか必ず振り返ることにしている。長い人生で振り返ることを怠り、忘れ物や落し物をした経験が少なからずあるから、自然と身に着いた。それでもウッカリ、振り返ることを忘れることもままあるけど。

 「振り返ること」は自己を見つめ直すことでもあろう。常に自己点検し、直近の行動が「正しかった」のかどうか、他に方法がなかったどうか。それは次に生かす糧だ。確かに若いころは、そんな意識も希薄だったかもしれない。
 若者には「振り返ることは大切だよ」と言えばよい。学んでくれる人、気付いてくれる人はいるだろう。でももうかなり年配なのに、振り返らずやりっぱなしの人は、しばしば見かける。

 そういえばカイシャでもいるな。次々ルールや規程をつくって、社員に「守れ」と号令をかける人。そのひとつひとつは「正しいこと」なのかもしれないが、それがどう実行上、どう担保されるのか、社員に浸透するのか、また社員はどう受け止めるかなんてことはお構いなし。「正しいこと」を推し進めることが「正しいこと」だと勘違いしている執行役が。
 
 冒頭に記した、小さな、日常の出来事を振り返えらない人は、おそらく自分自身のことも振り返ることができないだろう。換言すれば「想像力が欠ける人」なのかもしれない。

 
 いきなり「大衆論」を持ち出すのも違和感があるかもしれないが、米大統領選挙の世論調査の動向を見ていると、直近の出来事、また報道されたことに判断を左右される人が結構多くいることが分かる。トランプの女性蔑視問題が噴出すると途端に支持率は下がり、クリントンのメール問題が出ると、こんどは彼女の支持率が下がる。どちらも褒められたことではないけど、もともと分かっていることではないのか。
 考え方でも、ある人物を評価するのも、その時のことしかアタマにないと報道や扇動、プロパガンダによって左右される。振り返る=じっくり見つめ直すことがあれば、もっと違った判断もありうるだろう。

 話がちょっと逸れてきた。(いつものことだけど)。
「人のふり見て我がふり直す」と、昔の人はよく言ったもんだ。振り返ることの大切さを、日々不快な出来事から改めて認識した次第だ。


追記:ちょっと関係あるかもしれないこと。
昔のフォークソングで「風」というのがある。確か北山修の詩だと記憶している。
「人は誰もただ一人旅に出て、人は誰もただ一人振り返る。・・・・」だったっけな。
今度、聴いてみよう。

追記2:だいぶ以前のアサヒ新聞の夕刊コラムで「後ろにも人がいる」という秀逸な文章があった。


追記の追記
「風」はシューベツルという、“はしだのりひこ”を中心としたフォークソンググループの歌で、やはり歌詞は北山修さんだった。歌詞には著作権があるのでここには再掲しないけど、どっちかっというと余り振り返らず=後悔せずに、前を見てすすめという歌だったんだな。それはそれで大切なことだけど。実際浪人した息子に、「前だけを見て進もう」と言ったっけ。

追記2の追記
朝日新聞の夕刊コラムは、美術館で絵画を少し離れて見ていると、近くから絵を見ようと間に割って入ってきた集団の、いわば無神経さと、日本が高度成長で先進諸国のことばかり見て、後ろ=発展途上国について顧みない姿勢に苦言したような内容だった。コラムの内容はそれはそれで印象深かったけど、それにも増して、わずか600字余りで伝わる文章にまとめていた、名文に感心したことが記憶に残っている。自分もああいう文章が書ければなと。