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2017年1月7日土曜日

子どもの貧困と、どう向き合うか。「ヒトゴトではなくジブンゴト」

 「情けは人のためならず」という格言は、よく小中学校で意味を間違えやすい事例として出てくる。
 知らない人間が言葉をそのままとれば、どうしても「情けは人のためにならない」と受け取られてしまうのは、いたしかないかもしれない。
正しい意味「(他人に)情けをかけることは実は自分のためなんですよ」ということは、でもちょっと利己的な雰囲気もあり、少々いやらしい。

 『子供の貧困が日本を滅ぼす』(文春新書)は、その意味で、タイトルがちょっといやらしい。キャッチな言葉ではあるけどね。おまけに帯には大きく「あなたの生活が壊されるのだ」とある。ますますいやらしい。まあ、手にとってもらうためにしょうがないのかもしれないけど、ありていに言えば、「大衆に媚びる」タイトルだなあ。

 だけど、本書の内容はタイトルとは裏腹に論理的・実証的であり、真摯な内容だ。社会のありかた、人生の持ち方を考える上では、一読の価値ある本だ。

 「子どもの貧困」問題を他人事と切って捨てないで社会全体で考えることの大切さを、丁寧に説いている。「ヒトゴトではなくジブンゴト」として。
 
 自分だけ(一部の人)だけが豊か(金持ち)になる社会を想像してみよう。そういう人たちはお金で様々なモノを手にいれることができ、様々な体験を積むことができる。(と仮定しよう)。でもいったん外に出ると、そこは貧困社会だから、治安も悪い。身を守るために厳重に管理された家に住み、厳重に安全策が取られた車に乗り、もっと言えばボディーガードをつけなければ外を自由に歩きまわれない社会だ。そんな社会がはたして住よいのだろうか。コストもかかる。
  経済から考えても同様だ。お金持ちが使う道具、車・家、着る服は、数が少ない分割高になる。選択肢も少ない。
 
 一方、均一にそこそこ豊かな社会を概観してみる。フツーに外に出ても治安もよく自由に様々な所に安全に行ける。多くの人が同じようなサービスを享受でき、同じように暮らせる。少なくともこれまでの日本社会はこちらに近い社会だったのではないか。

 もっとも「ウサギ小屋」と揶揄される狭隘な住宅や、「通勤地獄」「受験戦争」などさまざまな弊害がまったくない訳ではないけど。それでも、安心・安全な社会は、比較対象で言えば世界の中で獲得していたのだと思う。

 巷間言われる「格差社会」。
もう聞き飽きた言葉と拒否反応を持つかもしれないけど、ここらへんでもう一度、社会のありかたを自分のこととして考えてみてもいいのではないか。
 
「情けは人のためならず」とは、そういうことを言っている格言だと善意に解釈できる余地はある。

 で、「子どもの貧困」問題。阿部彩さんの岩波新書もかつて読んだけど、これはこれで充実した本だ。ただ、新書として読むにはちょっと堅苦しく感じることがないではなかった。(それだけに著者は聡明なのかもしれないけど)

池上さんの本は立ち読みでパラパラめくっただけど、『子供の貧困が日本を滅ぼす』にも一部引用があるなど、それなりの本だろう。
 
 子どもの貧困問題、ひいては貧困家庭そのものにもと社会が目を向けて、手立てをすることが、いわばwin win になるということ。その大切さを改めて認識する好著だ。

ちなみに、子どもたちに一番なにが必要か。それは幼児期からの動機づけだ。信頼する心が育っていることだ。
幼児期からの「動機付け」で一番大きな要素は「Grit」=「やり抜く力」だという。

ブログは書評ではないので、内容に関する記述は避けるが、第5章でシカゴ大学・ヘックマン教授の大規模な実証実験が紹介されている。非常に興味深い。「恵まれない境遇にある子どもたちに対する投資は公平性や社会正義を改善すると同時に、経済的な効率性も高める非常にまれな公共政策」という言葉は印象的だ。

 日本での「子どもの貧困対策」がどう行われているかも紹介されている。

ちょっと脇にそれるけど、テレビや新聞の企画記事で伝える「子どもの貧困問題」は、その多くが、〔深刻な実態ルポ〕⇒〔篤志家による援助〕⇒(問題提起としての)政策の“不足”という図式で描かれている。テレビ企画、読み物としてはそれが一番「受けがイイ」ということなのだろうが、そうした企画自体が“貧困”だ。
 
 最近、どこのテレビだったか失念したけど、子どもの貧困を扱ったテレビの番組で、貧困とされた少女がスマホを使っていたことをオカシイとして炎上した例があった。断片的、部分的にしか伝えない(作り手は全体像を伝えているつもりでも受け取る視聴者はそうではない)企画では、かえって間違った認識が広がる好例だろう。

 社会を悪くしているのは、社会の木鐸たるメディアそのものなのだ。

ちょっとそれたけど、一読に値する本を紹介。


 
 


2016年12月15日木曜日

手帳から「生き方」を考える。今年は『ナカバヤシ・ロジカルダイアリー』にした。



  毎年の手帳選びを悩む人も多いだろう。東急ハンズでも伊東屋でもこの時期になると手帳売り場は悩める老若男女が結構いる。
 
  私も悩む。だけどスタイルはこのところだいたい決まっている。業務はA5サイズ、持ち歩くのはA6サイズだ。また見開き1か月のカレンダー型を使う。

 しかしのこ範疇だけで、結構種類がある。ここ2年ばかりはコクヨの「Campus Diary」を使っていた。紙の質がいいし、何より薄い。(余計なページが少ない)ので、気に入っていた。
また「月曜始まり」なのも、性分として好きだ。
(休みは後にとっておく。まあ気分だけどね)

 コクヨの前は『手帳は高橋』のA6版を何年か使用していた。これも使いやすい、ページに切り込みが入っていて、各月をすぐめくれる。ただ、その分スペースが小さくなり、月間カレンダー型ではハコが小さくなる。少々書きにくいのと、ページが多いのが、私にとっては難だった。

  生来、手帳は予定表と基礎情報の記載にしか使っていない。備忘録としての日常のメモや情報は別のA6のメモ帳に記し、いっぱいになると整理してノートに書き写してきた。それがここ15年ほどの習慣だ。

 で、話をコクヨの「Campus Diary」に戻す。実は困ったことが起きた。勤務先で使用している卓上カレンダーや、またmicrosoft officeのメールソフト、OUTLOOKの予定表は、日曜始まりだということだ。一応使っているgoogle calendarは、始まるの曜日を設定できるが、OUTLOOKに合わせて日曜日にしていた。 これで時々ミスを犯す。
 
  どれかのカレンダーを見て、木曜日と思い込んでいた日が、実は水曜日だったとか、会社の会議に出す予定表に日付の曜日を間違えるというミスである。

高橋のA6手帳
これはひとえに自分の不注意によるものだ。ちゃんと確認していればいいだけの話かもしれない。けれども齢も重ね、注意力も低下、また時間に追われて急いで書き記す時もある。

  人間は(動物もそうなんだろうけど)、無意識に論理(文字)より絵(図形)で物事を認識していることが多い。曜日を7つのBOXの何番目という位置関係で見ていて、そのためカレンダーによって位置が違うと間違えるのだ。
  これは、あまり効率の使い方ではない。
 
  それで、コクヨの『Campus』の代わりになるものはないか探した。
(やっと本題に入った。)
 そして見つけたのが「ナカバヤシのロジカルダイアリー」だった。ネットで見つけたけれど、やはり紙の質など実際に見てみたい。しかしハンズにも伊東屋にもなかった。伊東屋はそもそもナカバヤシの手帳を扱っていなかった。ハンズはB5の大きなものが1,2種あるだけだった。
 
 仕方なくアマゾンで購入。まあ高いものでないので失敗してもいいという気持ちで手に入れた。
日曜始まりの軍門に下ることになるが、しかたない。

 
『Campus』は月曜始まり これはこれで使いやすい
『Logical Diary』は年間カレンダーとひと月が見開き1頁という構成で、『Campus』と同様だ。余計なものは一切ない。(よくある、年齢早見表とか、度量衡とか、路線図とか)。それも同じだ。
『Campus』との違いは見ての通り、スペースが右にあること。それとこの写真では少し分かりにくいが、細かな線が薄く入っていて、小さな字で書くときも整理しやすいことだ。
 私のように「悪字」の者にはいい。

とにかく来年はナカナヤシで行こう。このあと何年、手帳が必要な人生を歩むかどうかわからないけど。





ナカバヤシ『Logical Diary』 は日曜始まり

と、ここまで、手帳の道具としての機能について考えてきたが、書いてみて、手帳の抽象的機能について、少し考えが及んだ。(タイトルも書きかえた)

 手帳というと、何年か前に、「希望がかなう手帳」とか、お金が貯まる「手帳」というのがはやった。どんなものか書店でパラパラめくって見た記憶があるが、あまり印象に残っていないのか忘れてしまった。
 
 確かに日々の予定を記すという「手帳」の役割は、自分がどう生きるか、どう生きたいかを確認することでもある。でも私自身も含めて、それって予め分かっているひとは、そういないのではないかな。文章と同じで、何を書きたかったは、書いてみて初めて、事後的jに分かることだもの。

 まあ、だからこそ手帳に予定を書いて、はじめて自分がやりたいこと、やるべきことが見えてくるとも言えるのだろう。そう考えてくると、手帳も使い方次第では、人生の道しるべになるということか。だから、「希望がかなう手帳」や「お金がたまる手帳」が出現しのも、ある意味では理にかなったことだったのだろう。

 勤務先の先輩の中に、その日あったことを手帳に書きとめる人が何人いた。そして時々見返していた。そのうちの一人は「自分はメモ魔」だからど言っていたけど、これってけっこう有効な使い方なのかもしれない。(余談だけどもメモ魔で手帳にいろいろ書き留めていた人は二人とも東大経済学部出身だった。たまたまだろうけどね)。
 ○手で書き記すことの有用性。○見返すことの復習性。それは「考える」ことにつながる。アタマがいい人だからそうしているのか、そうしているからアタマがいいのか分からないけど、実践してみる価値はあるかもしれない。実際私ももっと手帳を有効活用できないか試してみたけど、習慣を変えるのはなかなか難しい。私にとって手帳は予定表にしか、いまだなっていない。人生残りすくないけど、予定もだんだん減ってきたから、もう少し手帳を使ってみるかな。2017年は。

追伸:
ナカバヤシのロジカル手帳がセブンイレブンに置いてあることが判明!
身近なところにあるもんだ。



































2016年11月26日土曜日

考える時間を持つということ。〔還暦を前に考えること①〕

 確か斎藤孝さんの書籍(というより、ハウツウ読み物)に「15分あれば喫茶店に入りなさい」というのがあったように思う。(いまアマゾンで調べたらあった)。

 アマゾンで閲覧可能jな目次(第1章のみ)には、「喫茶店はアイデア生産の場」「垂直思考を身に付ける」「インターネットから脱出」「自分を鍛える」「15分は仕事をするのに十分」などが並ぶ。ちょっと立ち読みしただけなので内容はまったく記憶にないが、タイトルからだいたい想像はつく。どれももっともなことであるし、齢を重ねればなおさら必要なことだろう。
 週日のほぼ毎日(と言っても週に3日くらいか)、仕事の帰りに自宅駅の喫茶店に寄りるようにしている。そして毎週土曜の朝は7時半ごろから1時間半、プールが開く前喫茶店で過ごすことにしている。
 
 週日の夜はハラも減り、早く自宅に帰りたい気持ちの方が大きい。でも寄る。それは自宅に帰ると、気持ちは弛緩してしまうからだ。ありていに言えばくつろぐから。そうするともう読書も“勉強”もしない。ただテレビ(ほぼ『きょうの料理』しか見ない)を見ながら新聞に目を通し、夕食を取るという1時間を過ごすことになる。そのあとは睡魔が襲ってきて、風呂に入ってその日は事実上「終わり」だ。
そうならないための装置が「喫茶店」だ。(喫茶店という言葉自体が古臭いけど、今ならカフェというのだろう。)
土曜日に必ず行く都心のエクセルシオールカフェ

 15分という時間も理にかなっている。前に書いたけど「18分集中法」に通じる集中できる時間だ。
まあ、喫茶店で15分集中するためにはその準備と片付けで前後の時間を考えて30分は必要だとは思うけど。
 で、喫茶店で何をするか。これは無限の可能性がある。読書、文章書き、資料の読み込み、そして思考の整理。スマホは持っていないのでPCを持ち歩いている。でもネットサーフィンだけは喫茶店ではやらないことにしている。これは夕飯を食べながらでもできる。
 
 トシをとるとどうしても集中力が落ちる。図書館の学習室に行って勉強しても、せいぜい1時間しか頑張れない自分に気付き、がく然とした。そのあとちょっと休憩しても、効率は明らかに落ちていた。毎日何時間も勉強している息子がエラく見えたりする。歳をとるということはそういうことか。それなら、いっそ逆手にとって、毎日1時間集中する時間と空間を確保することにしよう。それが喫茶店だった。でもいろいろ雑事もあり、仕事も時間通り終わらなかったりと日曜日を除く毎日に1時間を確保するのは意外に難しいことがわかった。

 何より喫茶店での時間は「立ち止まって考える時間」だ。これは生活の中で絶対必要だ。人はヒマがあれば考えるというものではない。忙しく働いている人の方がアイデアが浮かび、“考えている”ことがある。しかし走りながら考えたことは、どこかでせき止めて整理することも必要だ。でないと、考えたことは、ハタから見れば単なる「思いつき」でしかないこともしばしばあるから。

 喫茶店の「効用」を説く斉藤さんの本は、その意味では参考になるだろう。でも読まなくても自分でいろいろ試すことで獲得できることでもあるけどね。


2016年11月5日土曜日

後ろを振り返るということ。それは自己を見つ直すことだ。

物事をやりっぱなしにする風潮は、最近のことなのか、それとも「昔から」そうなのか。
最近いやなことが続いた。モノゴトをやりっぱなしにする輩は、なんかここのところやたらと目につく。
○その1:
マンションのエレベーターというのはどこもそうだと思うけど、ウラに「開延長」のスイッチがあって、たとえば引っ越し荷物を運ぶ時や棺を乗せる時などに、すぐには扉が閉まらないような設定ができる。これをオンにすると1分くらい扉は自動では閉まらない。
 拙宅のマンションで引っ越しか何かがあったのだろう。
ある日曜、夜に帰ってくると明らかにこのスイッチがオンになっていたようだ。一度上に行っていったエレベーターが5階で止まったままなかなか帰ってこない。
 以前同様のことがあったので、開延長のボタンのことを聞いていて知った。このまま月曜朝を迎えると、出勤・通学する住人で混乱するのは目に見えている。エレベーターの箱の中でスイッチはどこかちょっと見たけど分からなかった。家に帰るとマンションのサポートセンターに電話した。しかし対応されたのは月曜日になってからだったようだ。朝、やはりエレベーターは、一度人が乗降して開くとなかなか戻ってこなかった。
○その2:
いつも通うスポーツジムの洗面台。誰でも使えば回りに水がこぼれる。髪の毛も落ちる。それは仕方のないことだけど、多くの人がそのままだ。次に使う者はあまり気分のいいものではない。備え付けのティッシュを何枚もとって拭くことになる。もったいないのお。せめて施設の方がタオルひとつ備えておけば、こういうこともないんだろうけど。(ちなみに東京体育館の洗面台とその脇にならぶドライヤー台にはいつもタオルが置いてある。)
いずれのケースも物事をやりっぱなしにする人がいて、それが後から使用する人を不快にする。

ちょっとケースは違うけど、プールでもスポーツジムでも、シャワー室やプールへの出入り口の扉で、バンッ!とあけて、後ろを振り返ることもせず、出入りする人も多い。後ろに人がいることをまったく意識しないのだろう。

 これは想像力の問題だろう。混雑する電車でザックを背負ったままの者。出入り口に突っ立ってスマホをいじりに夢中で乗降の妨げになっていることを気づかない者。歩きタバコで煙を後ろにまきちらしていることが分からない者。挙げだしたらきりがない。

 でも、齢を重ねると、様々な意味で「後ろを振り返る」ことが大事だということを実感する。電車やカフェ、図書館で席を後にする時、忘れ物はないか、落し物はないか必ず振り返ることにしている。長い人生で振り返ることを怠り、忘れ物や落し物をした経験が少なからずあるから、自然と身に着いた。それでもウッカリ、振り返ることを忘れることもままあるけど。

 「振り返ること」は自己を見つめ直すことでもあろう。常に自己点検し、直近の行動が「正しかった」のかどうか、他に方法がなかったどうか。それは次に生かす糧だ。確かに若いころは、そんな意識も希薄だったかもしれない。
 若者には「振り返ることは大切だよ」と言えばよい。学んでくれる人、気付いてくれる人はいるだろう。でももうかなり年配なのに、振り返らずやりっぱなしの人は、しばしば見かける。

 そういえばカイシャでもいるな。次々ルールや規程をつくって、社員に「守れ」と号令をかける人。そのひとつひとつは「正しいこと」なのかもしれないが、それがどう実行上、どう担保されるのか、社員に浸透するのか、また社員はどう受け止めるかなんてことはお構いなし。「正しいこと」を推し進めることが「正しいこと」だと勘違いしている執行役が。
 
 冒頭に記した、小さな、日常の出来事を振り返えらない人は、おそらく自分自身のことも振り返ることができないだろう。換言すれば「想像力が欠ける人」なのかもしれない。

 
 いきなり「大衆論」を持ち出すのも違和感があるかもしれないが、米大統領選挙の世論調査の動向を見ていると、直近の出来事、また報道されたことに判断を左右される人が結構多くいることが分かる。トランプの女性蔑視問題が噴出すると途端に支持率は下がり、クリントンのメール問題が出ると、こんどは彼女の支持率が下がる。どちらも褒められたことではないけど、もともと分かっていることではないのか。
 考え方でも、ある人物を評価するのも、その時のことしかアタマにないと報道や扇動、プロパガンダによって左右される。振り返る=じっくり見つめ直すことがあれば、もっと違った判断もありうるだろう。

 話がちょっと逸れてきた。(いつものことだけど)。
「人のふり見て我がふり直す」と、昔の人はよく言ったもんだ。振り返ることの大切さを、日々不快な出来事から改めて認識した次第だ。


追記:ちょっと関係あるかもしれないこと。
昔のフォークソングで「風」というのがある。確か北山修の詩だと記憶している。
「人は誰もただ一人旅に出て、人は誰もただ一人振り返る。・・・・」だったっけな。
今度、聴いてみよう。

追記2:だいぶ以前のアサヒ新聞の夕刊コラムで「後ろにも人がいる」という秀逸な文章があった。


追記の追記
「風」はシューベツルという、“はしだのりひこ”を中心としたフォークソンググループの歌で、やはり歌詞は北山修さんだった。歌詞には著作権があるのでここには再掲しないけど、どっちかっというと余り振り返らず=後悔せずに、前を見てすすめという歌だったんだな。それはそれで大切なことだけど。実際浪人した息子に、「前だけを見て進もう」と言ったっけ。

追記2の追記
朝日新聞の夕刊コラムは、美術館で絵画を少し離れて見ていると、近くから絵を見ようと間に割って入ってきた集団の、いわば無神経さと、日本が高度成長で先進諸国のことばかり見て、後ろ=発展途上国について顧みない姿勢に苦言したような内容だった。コラムの内容はそれはそれで印象深かったけど、それにも増して、わずか600字余りで伝わる文章にまとめていた、名文に感心したことが記憶に残っている。自分もああいう文章が書ければなと。
 


2016年6月5日日曜日

電車では“必ず”優先席に座ることにした。マタニティマークを巡って

 通勤電車の中(通勤に限らずだけど)というのは、おそらく最も「分断された社会」のひとつだろう。分断されたと言うことの意味は、相互につながりのない個々の集合体としての社会だ。(これを社会と言うのかどうか知らないけど)。
 それでも毎日同じ電車に乗るとなると「いつもの人」がいたりするが、お互いそう思ってもそれ以上に親しくなる訳でも、もっとお互いのことを知る訳でもない。
 
朝、通勤電車の始発駅から乗るとすでに「普通席」は埋まっていて、いわゆる「優先席」に座ることが多い。たまに途中駅から、妊婦さんが乗ってくる。 前に立ち、妊婦マークに気が付けば、当然「座りますか?」と聞いて席を譲る。自分の中ではそれはフツーのこととしてある。

 ところがきょう日はそうでないようだ。つい1週間前にもそうしたことがあった。通勤に使用する私鉄駅で、それらしき人(お腹がふくらんでいる人)が乗ってきて、優先席の一番ドア側の前に立った。自分はその優先席の奥から2番目に座っていた。(この電車は優先席は4人掛けだ。)妊婦さんかな?と思ってカバンを見たけど腕の影になって妊婦バッジがすぐには確認できなかったが、電車が動きだしてちょっと体の向きが変わったときに、それが見えた。彼女の前に座っていた若者(背広を着ていた)はスマートホンをいじっていて、まったく気が付かない。そこでちょっと離れていたけど、「座りますか?」声をかけて立ち上がり席を譲った。席を譲って前に立ち最初に妊婦さんが立った前に座っている人間とそのとなりの人間を観察した。端に座っていたのはサラリーマン風の若者。ずっとスマホをいじりつづけていた。気が付かないフリをしているのか、本当に気が付かないのかは知らない。その隣は40代くらいの女性だった。左手薬指にはリングはしていない人だった。目をつぶっていた。
 
「自分は座ったのだ。その権利は自分にあり、他人に譲る筋合いではない。」と主張するように、たいていの輩はそのままだ。(時々、気が付いてバツが悪いのか寝たフリをして目を閉じているヒトもいるけど。)

 電車内空間という分断された社会では席を譲らない人ばかりなのは当然だろう。そういう世の中なんだと納得するしかない。他人に対してあれこれ言いたくはない。

 で、これからは席があれば必ず優先席に座ることにした。前に妊婦さんが立った時に譲れるようにするためだ。座りたいと思う妊婦さんはだいたい優先席の前に来るからだ。

 ちなみに、私は、少々年齢のいった(くらいの)高齢者には席は譲らない。高齢者は立って足を鍛えることの方が健康長寿にはいいからだ。頑張って立っててくださいと、心の中で念じていますけど。

追記:この電車が終点について、私を含めて乗客が一斉に下りる、チラッと席を譲った妊婦の方を見た。一瞬目が合い(というか向こうがこちらを見ていた)、軽く会釈するように目でお礼を言っていた。(ように見えただけかもしれないけど)。でもこういう時って文句なく気持ちが晴れやかになりますよね。その目線にこちらこそ「ありがとう」と言いたいくらいです。

追記2:7月14日のNHKおはおう日本で、マタニティーマークを付けることをためらう人が増えているというリポートをやっていた。「電車なんか乗らずにタクれ!」と言われたり、お腹を蹴られたという証言もあった。ごく一部なんだろうけど、あまりにもひどい話で、考えただけで具合が悪くなりそうだった。
 


2016年5月28日土曜日

コンパクト蛍光灯のダウンライトを自分でLEDに変える。

コンパクト蛍光灯のダウンライト
三井系の分譲マンション(パークホームズ)に住んで10年。10年前はまだLEDの普及が進んでいなかったこともあり、照明器具は蛍光灯用か電球用スポットライトだった。

 電球スポットライトは、電球を口径の合うLEDに変えれば済むので、まあ簡単だ。しかし蛍光灯用のライトをLEDに変えるには、蛍光灯用の安定器を取り除く必要がある。(そのことすらネットで調べて分かったんだけどネ)。

 安定器を通しても使用できるLEDもあるが、高価なのと、いつも安定器の電力を消費するのであまり薦められない。

 さて、コンパクト蛍光灯のタウンライトをどう取り替えたらいいのか。以下は電気工事のシロウトがない知恵をしぼって、ネットの力を借りて行った我が家のLED化報告である。

配線図の青焼き 読み解くのはちょっと大変だけと・・
①配線図面を取り寄せる。
まずマンションの管理会社に連絡して、配線図を取り寄せた。実際は管理人室にB2サイズの大きくて重い分厚い青焼き(今の人は知らないかもしれないが、昔はコピーはこれだった)の冊子が置いてあり、これを貸してくれた。とても自宅の小さなスキャナーでスキャンすることもできないので、床に置いて真上からデジカメで撮影。パソコンに取り込んでpdfに変換してじっくり配線を“研究”した。

配線図の説明が書いてあり、理解の助けになる
一見するとシロウトには分かりにくいが、何度も見ていると、どこのコンセントや電灯がどこのブレーカーに連動しているかは分かってくる。ブレーカー側にも、つながっている箇所が簡単に記してあるので、配線が次第にわかる。

 そしていくつかブレーカーを切って、図面の配線が正しいか確かめる。図面が間違っていると思わぬ感電をするので要注意だ。簡単なテスターがあると便利だ。
 我が家には20年近く前に買ったテスターが確かあったはずたど、探し回り。1か月たってやっと借りている倉庫から見つけ使用した。
 しかしテスターがなくてもコンセントは、簡単な電気器具をつなげてみれば切れているかどうかは確かめられる。これは安全のためには重要だ。



取り外したコンパクト蛍光灯型ダウンライト 結構重い

②ダウンライトをはずしてみる。
 ここが、結構試行錯誤だった。だいたい電燈器具がどうやって天井に着いているかも知らない。ネットでいろいろ調べてみた。電灯には『ダウンライト』という範疇があることも今回初めて知った。

 ネットでダウンライトがどう天井に設置されているか構造を見て、単に天井板にはまっているだけだとわかり、隙間にマイナスドライバーの大き目のものをはさんではずした。安定器が結構重いのにはびっくりした。ダウンライトはもちろん電線とつながっている。その電線もシロウトにはなじみにない太い1本の銅線。テーブルタップのように細い糸状の電線が束になったものとちがい、容易にはまがらいない。器具への固定はラクで、穴に押し込めばつながる。

数年使用したコンパクト型蛍光灯 もう寿命だ
器具からこの銅線を抜くのは少々力とコツがいる。小さ目のドライバーで抜くための箇所をおさえて引っ張るのだが、シロウトにはなかなか難しい。たいていプラスチックでできているので強く押さえすぎると壊れてしまう。今回はもう古い器具は使用しないことが前提だったので、力任せに取り外した。安定器が結構重いのには驚いた。よく天井に張り付いていたと思えるほどだ。

「出」「入り」はダウンライトには明記してある



 ここで気を付けることがある。はずしてみて、そうかとガテンしたのだが、電灯は3連でつながっているので、1番目と2番目の電線には「入り」と「出」がある。器具を付け替えるときこれを間違えると大変だ。幸い、ダウンライトには電源の入り出の表示があるので、はずす際にどの電線から電流が来ているのかビニールテープなどで目印をつけておくのが無難だ。



③LEDダウンライトを手に入れる。
さて、後さきになるが、予め新しい電灯器具を購入しておく必要がある。結論から言うと、NETで買うのが一番安価で手間もかからなかった。この結論に至るにはホームセンターやヨドバシカメラなど電気店をまわって結構時間がかかった。

ホームセンターなどにはダウンライトも置いてあるが、種類が少なく適当なのがない。一口ににダウンライトと言っても、大きな居間やホテルの部屋に合うような高級なものから安価なものまでイロイロだ。
メーカーはパナソニック、コイズミなどいくつかある。またLEDダウンライトは寿命が長いことを見越して器具と一体となったものが種類としては多い。10年たては器具も取り替える必要があるということなのだろう。
 しかし器具一体式のものにすると、明るさや色が合わなかった場合、またそれごと変えなければならない。ここがシロウトの泣き所だ。経験・蓄積がないから分からない。そこで器具一体式ではない、LED取り替え可能型を買うことにした。

 サイズ、色、ワット相当の明るさなどを選ぶ。天井の穴は計ると15センチだった。ダウンライトには一般的な大きさに12センチ、15センチなどあるから、穴の大きさは計っておく必要がある。

メーカーのウェブサイトはよく出来ていて、必要なサイズやワット相当数などを入れていくと商品が絞り込まれる。これでおおよその目安をつけて製品番号を控え、今度はヨドバシカメラなどのネットショッピングサイトを見る。
ヨドバシカメラでも扱っているがだいたいはお取り寄せで、値段も高め。アマゾンなどに出品しているショップから購入するのが賢明だ。

さて、いろいろネットで見て購入したのが、リンクをつけたこれ。オーデリックの取り替え可能型のダウンライトだ。メーカー希望小売価格は5,800円(税抜き)だが、ネット料金は2,300円。送料は700円かかるがそれでも3つ一緒に注文するので遥かに安い。

 話はそれるが、いわゆる業務用の物の「定価」は高くついている。(ということが分かった)。オフィス家具でもそうだけど、職場で実際に購入する時、業者に頼むと3割引きは当たり前だ。以前ある業者が教えてくれた。「カタログ価格はお役所向けなんです。」と。行政機関が実際に高い価格のものを購入しているかどうか知らないが、そういうことなんだろうな。



新しいLEDダウンライトを取り付けたところ
さて、あとは結構簡単だ。前述のように安定器付きの重いコンパクト蛍光灯ダウンライトをはずし、ネットで購入したLEDのダウンライトに取り換えればよい。キッチンは天井が一段低くなっていて、そのためいわゆる天井裏が広い。もちろんどのくらい余裕があるか事前に見ておく必要があるが、新しいダウンライトはすぐにはまる。天板の厚さがあるので、ダウンライトを天板に固定する金具は多少調整しておく必要がある。

 もうひとつ気を付けなければならないのが、配線だ。上記したように「入り」と「出」があるのでこれを間違えるとやっかいだ。はずした電線には必ずマーキングして間違えないようにしておくことをお勧めする。

④総括
 こうしてLEDダウンライトは取り付けられた。さてブレーカーを入れて点灯してみる。予想されたが60ワット相当のライトが60㎝おきに3つあるのでものすごく明るい。料理をするにはいい面もあるが明るすぎると感じる人もいるだろう。取り替え可能式のダウンライトにしたのはこのためだ。明るさや色が合わなかったら、LEDライトを好みの物に代えることが可能だ。家電量販店に行って好きなものを選べばよい。『選択の自由』度があるようにするのが、快適な家の作り方だろう。

分譲マンションのようにある程度規格が決まったのが最初からついているものは、まあほとんどはそれで間に合うが、どうしても気に入らないものがあれば自分で工夫して代えていくのがいいだろう。
お金をかけられる人は業者に任せてしまうだろうが、自分で行うことの手間暇はかかるがこのやり方は、より好みに合わせられるということでは一法だ。

人間の心理上、与えられたものが気に入らないとストレスになるが、自ら選んだ結果となると、それは多少、事前の予想と違っても受け入れられるものだ。