出羽の国の名峰・鳥海山の八合目付近から見渡した庄内平野とその向こうの日本海。我が人生もこのくらい見通せたらどんな気分なのだろうか。 一生を400㍍走に例えると50代はちょうど第3コーナーあたりかもしれない。 一番息苦しくなり、足が重くなっているところを耐えて走っている。 第3コーナーでは前を見てもまだゴールは見えない。レーズ全体をイメージするのが難しい。 第1コーナー、10代・20代のころは、わずか10年先さえも想像できなかった。 いつも未知の世界に向かって走ってきた。 バックストレッチの30代・40代は様々な制約の中でも、少し自分のペースをつかみながら前に進んだ。 第3コーナーのカーブに入ったいまはどうか。まっすぐ前を見ているだけでは、自分の立ち位置は見えてこない。体を傾けたままうまく周囲を観察しなければならない。50代、「いまだ天命を知らず」である。第3コーナーを抜け出し、最後の直線に入った時、そこにはどんな光景が待ち受けているのだろうか。その時どう身を処すればいいのだろうか。考えるしかない。 再レースはないのだから。
2010年10月23日土曜日
東急電鉄という体質①
東急電鉄という会社は輸送力の増強や他線との接続、駅周辺開発などの設備投資にはとても熱心な鉄道会社だ。会社のサイトによると、バリアフリー化(エレベータ、エスカレータ、点字時刻表、点字ブロック等)を順次すすめ、除細動器(AED)の全駅設置は完了したそうだ。
大規模改良工事は着々と進められ、“輸送力増強”と“利便性の向上”に努めているそうだ。田園都市線の複々線化、大井町線の溝口までの延伸は完了し、東横線の特急、急行の10両編成化による輸送力アップとそれに伴うホームの延伸工事も進めている。渋谷-代官山間の地下化と副都心線との乗り入れも進め、また相鉄線との相互直通運転も2019年開業予定という。
通勤に使用したことがないので確かなことは言えないが、田園都市線の通勤ラッシュの混雑は尋常ではないらしい。“鉄道博士”、原武史さん(明治学院大学教授・政治思想史)の著書によると、混雑によって遅れが生じても東急はやがて駅でのアナウンスをやめてしまうらしい。(著書がどれだったか思い出せず記憶で書いている)。
東急電鉄にとって輸送力の増強は喫緊の課題なのであろう。合わせて直通運転による「利便性の向上」も欠かせない課題なように見える。しかし輸送力を上げるのと直通運転、また沿線の開発は一体となった企業の「成長戦略」そのもののように見える。
輸送力を増強する設備投資をしても、今より乗客数が伸びなければ設備投資資金を回収できない。そのため、他路線との直通運転によって乗客数の増加を図ることが必要になる。
かつて私鉄は沿線に遊園地や商業施設を作り都心から乗客を運び、その後は郊外に住宅地を作って都心に通う乗客を増やすことで成長してきた(原武史)。しかし人口そのものがさほど伸びない中で、こうした旧来型の「成長戦略」の期待値は低い。そこで他の線から乗客を奪う直通運転が必要となる。
ということは輸送力を増強しても同時に乗客数の増加を図っているのだから、混雑は解消されないということになるのではないか。「混雑解消のため」に「輸送力増強」を図り「お客様の利便性向上」に努めているというロジックは実は「会社のため」だったのである。
いち私企業が成長を目指すのは当然のことであり、東急の戦略に別に異を唱えるわけではない。が、それが鉄道輸送という地域独占で公的性格を帯びた企業としてもう少し正直な「物言い」はできないのだろうか。あまりにもあざとい感じがする。
冒頭のバリアフリー化や除細動器の設置は、ある面法律で義務付けられた施策だろう。それをいかいにも「お客様のため」と言うところがいやらしい。(一段と意地悪く解釈すると、バリアフリー化も、高齢化の中でお年寄りにももっと鉄道を利用させようという戦略と見ることができる。バスには老人パスがあるが電車にはないから。) …以下②へ
2010年10月16日土曜日
24年ぶりに登った鳥海山
遠くから見ると、なだらかな裾野がそのまま日本海に直接そそいでいるように見える。それが秋田と山形の県境に位置する鳥海山の特徴だ。表紙写真は、山形県側の登山ルートのひとつ、湯の台口から登り、胸突き八丁のあざみ坂を詰めたところから見た庄内平野と日本海。久しぶりに味わう、こころ洗われる眺めである。
左は、河原宿小屋から見上げた、通称大雪渓と小雪渓。8月下旬となり、今年の猛暑の影響もあってか雪渓は小さかった。用意した軽アイゼンは結局使わずじまいだった。
ほとんど山の素人だった24年前、大平ルートを案内してもらいながら登った山は、大げさに言えばその後の生き方に少なからず影響を与えた。およそ4半世紀、あれから人生の3分の1か4分の1をこの間過ごしてきた。50代になって再びこの山に登れたことは、これからを考える上で、自分にとっては重要な儀式になったかもしれない。
2010年10月15日金曜日
「マディソン郡の橋」から学んだ「語る」ということについて
小説「マディソン郡の橋」を読んだのは、話題になり映画化され、日本でも公開されるとう時だったと思う。ウィキペディアで調べると、小説の発表は1992年、映画化は1995年9月となっている。最初にこの映画をいつ見たかは思い出せない。
今年の夏前、NHKの衛星放送でクリント・イーストウッド特集の中で放送していた。
「平凡な主婦とカメラマンの大人の恋」(衛星放送での辺見エミリのひと言解説)ということらしいが、そんな薄っぺらな視点で「マディソン郡の橋」を読んだり鑑賞したりした人はいないだろう 。
小説の内容はもう忘れてしまったが、映画は原作をほぼ忠実に再現していたように記憶している。
「“もうひとつ別の自分”を発見する」あるいは、「違う人生があったのではないかと思いを抱く」というのは見つけやすいテーマである。少なくとも15年前にこの小説を読んだ時に抱いた思いはそんなものだった。誰しも、自らの現在の生き方に大きな不満がある訳ではないが、何か漠然とした「違うものへの渇望」は持つのではないか。「マディソン郡の橋」はそのな人の性(さが)を、イタリアからアメリカに憧れて嫁いできたフランチェスカの心情の中に見事に具現化していた。
10数年ぶりに改めてこの映画を観て、もうひとつ違うテーマを“発見”した。それは「語る」ということである。映画で、フランチェスカはキンケイドに自分の思いを語る。夫はやさしい。なんの不満もない。2人の子どもにも恵まれ、農家としての生活にもそれなりに満足している、と。でも最後にぽつんと言う。「でも違った。憧れていた生活とは」
「でも違った」と語ることのできる相手とは誰なのだろう。当事者のパートナーやわが子に語れることではない。それは現に「違った」生活をともにしている人間に言うべきことではないし、言えることでもない。では同性の友人に語れるのか。それは人によるのだろうが、自らの「歴史」や「今の生活」を知る者にはなかなか言えない。それは愚痴にしかならないからだ。「あなたは、(又は君は)何の不満があるというの。優しい夫、健やかな子ども、順調な農場経営、少しづつだが豊かになる生活があるというのに、と。
しかしこれまでのナマの自分を知らない立場の異性には言える。少なくとも「マディソン郡の橋」でフランチェスカは、これまでおそらく一度も口にしたことがないことを、出会ったばかりのキンケイドにさらっと言った。言えた。それはきっと分かってもらえると思ったからだ。満足と不満が同居するアンビバレントな気持ちを。
「マディソン郡の橋」が伝えていたのは、「これまでの自分を知らない異性に、自分を語る」ということだったのではないか。再びこの映画を見てこのことに気付いたのは、自分も齢を重ねたからなのだろうか。映画の案内役をしていた辺見エミリ(またそのセリフを書いたであろうディレクター)には、「大人の恋」としか映らなかった映画は、まったく別のものを齢を重ねた私に提示していた。
「自分について語る」。それはある種のフィクションかもしれない。内田樹さんがどこかで書いていたが、歴史はいくつもある。人がその人生を語る時、相手によって微妙に語る事実を取捨選択するからだ。だからこそ現に自分のこれまでや今を知っている人に対しては「自分に正しく」は語れないのだ。自分の人生はこうだったと取捨選択しながら自分に納得して言える相手は、新たに出会った異性だけだ。
この映画で一番印象的だったのは、逢瀬を重ねるシーンでも別れのシーンでもない。フランチェスカの夫が死に際に、彼女に対して「ごめん。君にもいろいろやりたいことがあっただろうが、それを実現させてあげられなくて」と言い、彼女が枕元の夫を抱きしめながら涙を流すことろだった。夫はきっと分かっていたのだ。彼女の悩みを、でもどうすることもできず最期を迎えた。
自分について語るための相手は、齢を重ねれば重ねるほど必要な存在になってくる。非常に穏やかでどこか物悲しい音楽は、その思いを一層強めた。
今年の夏前、NHKの衛星放送でクリント・イーストウッド特集の中で放送していた。
「平凡な主婦とカメラマンの大人の恋」(衛星放送での辺見エミリのひと言解説)ということらしいが、そんな薄っぺらな視点で「マディソン郡の橋」を読んだり鑑賞したりした人はいないだろう 。
小説の内容はもう忘れてしまったが、映画は原作をほぼ忠実に再現していたように記憶している。
「“もうひとつ別の自分”を発見する」あるいは、「違う人生があったのではないかと思いを抱く」というのは見つけやすいテーマである。少なくとも15年前にこの小説を読んだ時に抱いた思いはそんなものだった。誰しも、自らの現在の生き方に大きな不満がある訳ではないが、何か漠然とした「違うものへの渇望」は持つのではないか。「マディソン郡の橋」はそのな人の性(さが)を、イタリアからアメリカに憧れて嫁いできたフランチェスカの心情の中に見事に具現化していた。
10数年ぶりに改めてこの映画を観て、もうひとつ違うテーマを“発見”した。それは「語る」ということである。映画で、フランチェスカはキンケイドに自分の思いを語る。夫はやさしい。なんの不満もない。2人の子どもにも恵まれ、農家としての生活にもそれなりに満足している、と。でも最後にぽつんと言う。「でも違った。憧れていた生活とは」
「でも違った」と語ることのできる相手とは誰なのだろう。当事者のパートナーやわが子に語れることではない。それは現に「違った」生活をともにしている人間に言うべきことではないし、言えることでもない。では同性の友人に語れるのか。それは人によるのだろうが、自らの「歴史」や「今の生活」を知る者にはなかなか言えない。それは愚痴にしかならないからだ。「あなたは、(又は君は)何の不満があるというの。優しい夫、健やかな子ども、順調な農場経営、少しづつだが豊かになる生活があるというのに、と。
しかしこれまでのナマの自分を知らない立場の異性には言える。少なくとも「マディソン郡の橋」でフランチェスカは、これまでおそらく一度も口にしたことがないことを、出会ったばかりのキンケイドにさらっと言った。言えた。それはきっと分かってもらえると思ったからだ。満足と不満が同居するアンビバレントな気持ちを。
「マディソン郡の橋」が伝えていたのは、「これまでの自分を知らない異性に、自分を語る」ということだったのではないか。再びこの映画を見てこのことに気付いたのは、自分も齢を重ねたからなのだろうか。映画の案内役をしていた辺見エミリ(またそのセリフを書いたであろうディレクター)には、「大人の恋」としか映らなかった映画は、まったく別のものを齢を重ねた私に提示していた。
「自分について語る」。それはある種のフィクションかもしれない。内田樹さんがどこかで書いていたが、歴史はいくつもある。人がその人生を語る時、相手によって微妙に語る事実を取捨選択するからだ。だからこそ現に自分のこれまでや今を知っている人に対しては「自分に正しく」は語れないのだ。自分の人生はこうだったと取捨選択しながら自分に納得して言える相手は、新たに出会った異性だけだ。
この映画で一番印象的だったのは、逢瀬を重ねるシーンでも別れのシーンでもない。フランチェスカの夫が死に際に、彼女に対して「ごめん。君にもいろいろやりたいことがあっただろうが、それを実現させてあげられなくて」と言い、彼女が枕元の夫を抱きしめながら涙を流すことろだった。夫はきっと分かっていたのだ。彼女の悩みを、でもどうすることもできず最期を迎えた。
自分について語るための相手は、齢を重ねれば重ねるほど必要な存在になってくる。非常に穏やかでどこか物悲しい音楽は、その思いを一層強めた。
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