2014年5月27日火曜日

東北六魂祭はにぎわったようだが・・・。地方都市はどうなっていくのか。

「東北六魂祭」が、今年は山形であった。
震災の年から始まった、東北6県の祭りをあつめたイベントは、太平洋側3県が終わり、日本海側では初めて山形で行われたのだ。

山形市の中心街はそざかし賑わったことだろう。
祭りが行われた通りは、毎年夏「花笠まつり」で花笠音頭が踊られる、市の目抜き通り「七日町通り」ではなく、その北側の拡幅されてあたらしくなった「新築西通り」だったようだ。

でも地方都市「山形」が賑わうのは、こうしたお祭りの時や大型連休やお盆の時期くらいだ。

5月の大型連休前後に山形にしばらく滞在した。
連休中こそ帰ってきた若者や家族連れ、また観光客で、新幹線は混雑し、市内も賑わっていた。しかし、旗日が終わった5月の7日、8日は、山形市の中心街は、さびしい限りだった。

「asahicom」より引用
山形の目抜き通り、七日町通り周辺には、市役所や地方銀行の本店、農協中央会、老舗のデパートなどがあるが、人影はまばらだった。正直、活気を感じられなった。

要因のひとつには、イオンモールなど郊外型のショッピング施設が、山形市の北と南の両方にあるなど、地方都市内の「問題」もあろうが、それだけではない。高齢者人口そのものも減少しつつあり、かつまた「元気な老人」が減ってきているのではないだろうか。

30年前、初めてこの地で暮らした時に比べ、確かに町はキレイになった。ミニとはいえ新幹線の開業、それに伴う駅前の開発、城下町の細い道路は次第に整備され、スムーズになった中心街。しかし人は明らかに“減った”。

実は、山形市の総人口はここ20年、ほぼ25万人前後であまり変化はない。しかし、ごく大雑把に言うと、老齢人口は2倍、若年層は2分の1になっている。“減った”と実感するのはそのためだ。
山形市・七日町通り
(townphoto netより引用)

翻って、「大都市」はどうか。
東京で新聞を購読していると、このところ不動産のチラシ広告が多いことに気付く。それは今に始まったことではない。少なくともアベ政権が始まった頃から増え始めている。
アベノミクスはミニバブルで見かけ上の経済活性化をしようというものだから、不動産市場が活発になるのは、考えてみれば当たり前の話しだ。

五輪も東京で「開かれる予定」だ。しばらくは東京集中が続くことだろう。そのメリットも弊害もすべて呑み込んで。


山形の帰りに仙台に寄った。
仙台駅周辺の真新しいビルには、中小の建設会社等の「仙台支店」の看板が目立つ。震災復興の需要で、多くのカネがここには落ちてきていることが分かる。その意味では活気(けっこうギラギラした活気だが)を感じるのが今の仙台市だ。

●中心都市『東京』→その傀儡(と、いったら失礼かもしれないが)としての『仙台』。そして、多くを都市に吸い取られていってしまっている地方都市『山形』。

この構図は何も東北の都市だけではないだろう。このことが、いいのか悪いのか、正直、わからない。でも、これからの地域の「生き延び方」を考えていかなくてはならないのは確かだろう。







2014年5月24日土曜日

「木綿のハンカチーフ」で涙拭くのは、今や男性になった。

太田裕美の「木綿のハンカチーフ」。
ウィキペディアによると1976年に年間売り上げベスト4になった、彼女の最大のヒット曲だ。

恋人を置いて都会に出て行った「男子」が、“魅力的”な都会生活に次第に染まっていく。そして、ふるさとで待つ「彼女」に、最後は「僕は帰れない」と、決別していく。
彼女は「木枯らしのビル街、からだに気を付けてね」と2番で歌ったが、3番では、決別の結果、最後の願いが「涙拭く木綿のハンカチーフ下さい」と言って、歌は「完結」する。

3番まで聞かないと、タイトルの意味がわからないこの歌は、作曲:筒美京平、作詞:松本隆と出ている。歌謡曲として最強のコンビによる歌だった。

オイルショックから3年、ようやくどん底から抜け出しつつあった経済状況の76年当時、おそらく都市より地方の方がまだ不況の影響を受けていたのではないだろうか、若者男子の多くが都会に職を求めて出ていった現実のようすを、よく表した「名曲」だ。

もちろん農家の後継ぎの「嫁不足」はすでにあって、それはそれで農村社会では大きな問題だったが、ここでは置いておく。

朝日新聞より「引用」
「木綿・・」のヒットから40年。最近の新聞記事によると、これとはまったく逆の現象が起きていることが報道されている。
地方から若い女性がどんどん減っているという。それは子どもを産む世代が地方から減少していることを意味している。

5月1日のNHK「クローズアップ現代」では、「極点都市、新たな人口減少クライシス」として、地方都市では老齢人すら減少しているところがあり、そうした所では、女性の働き場所だった介護施設すら職場減少していることを指摘していた。

大都市への人の流れ、特に若い女性の進出は止まらず、それが地方の疲弊と少子化に一層拍車をかけているという分析には説得力があった。

都会で家庭を持って生活するのはハードルが高い。結果、未婚のままの女性も増えていく。(もちろん結婚できない男性も増える)。
これが少子化を亢進するサイクルのひとつになているのだろう。

緩慢な変化は気づきにくい。まして都会で、自分や家族を養うのに精一杯の精一杯の生活をしていると、社会の全体状況なんかには、気を回す余裕など、多くの人にとってはないだろう。

ある意味、社会の病理ともいえる、今日的状況は、ジワジワ進行するガン細胞のごとく、日本社会を蝕んでいる。それは単に、都会が豊かで地方は疲弊するといった単純な物言いで片付けられない問題だ。

ヒトはだれでも豊かになりたいと望んでいる。もちろんその「豊かさ」とは、一様ではなく、人によって価値観も実感も違うだろうが、少なくとも今より後退することを望んでいる人はいないだろう。
さまざまな意味での豊かさを維持するには、地方も地方なりの維持能力を備えている必要がある。

気が付いた時には涙ふくハンカチすらもなかったという世の中にはしたくない。次世代の人々がすこやかに暮らしていくためにも。



2014年5月20日火曜日

発酵の面白さ、奥深さを教えてくれた本「田舎のパン屋が見つけた『腐る経済』」


発酵と腐敗は紙一重。
発酵の不思議と奥深さを感じさせてくれた本だった。
著者が、原発事故による放射能の影響を心配して、千葉から岡山に「避難」したのは、あまり共感できないが、彼の実践してきたパンつくりには、共感した。

本の中にも出てくるが、奥沢(世田谷)の「CUPIDO」というパン屋さん。
拙宅から自転車で10分ほどなので、行ってみた。
なかなかの店だ。文句なくおいしい。

http://www.cupido.jp/index.html


この本をきっかに、発酵食品に関する本を図書館で借りて、何冊か読んだ。
肉も発酵(熟成)させるとおいしくなる。その方法は難しいのだろうが。


発酵食品「パン」の魅力は尽きない。
話題の「炭水化物が人類を滅ぼす」も、それなりに気になる主張なので、パンを味わうこととの折り合いをどうつけるか、食生活の基本が、自分自身に問われている。



「齢」を重ねるということ。衰えていく自分といかに付き合うか

久しぶりの「投函」になってしまった。1月に出場したハーフマラソンのブログ以来である。
2月3月は週末、八方尾根で滑りまくった。しかし結局、1級には手が届かなかった。いや足が届かなかった。八方スキースクールはキビシイ。

3月に風邪をこじらして、副鼻腔炎(要するに蓄膿症)になった。単なる風邪だと軽くみて、放っていたら、どんどん悪くなってしまった。耳鼻科にかかって分かったのは、同時期に突発性難聴になったことだ。医師によると、蓄膿と難聴は直接関係ないと言っていたが、トリガーになったのは間違いない。診察を受けるたびに聴力検査を受けたが、当初左耳が右の8割くらいまで落ちていた。
ステロイドの投薬を受けて、その後難聴は何とか回復したが、それでも高音域は9割ほどにしか戻らなかった。
それより深刻だったのは、いわゆる「耳鳴り」が始まったことだ。高音の「キーン」という音が絶えることなく左耳で鳴っている。3週間ほど医師から処方されたビタミン剤や漢方を服用していたが、結局、治らなかった。2か月以上たった今も耳鳴りは続いている。
医師には「一生治りません。歳をとればよくあることですから、あまり気にせずにしていてください」とあっさり言われ、結構落ち込んだ。

まあ、耳鳴りで寝つきが悪くなったということはない。何かに夢中になっていればあまり気にはならない。しかし夜や明け方目が覚めた時に、ああ「耳鳴りがしてるんだ」と、改めて実感することになる。あと何年生きるのか「神のみぞ知る」だが、一生続くとなると少々、落ち込む。

年をとるということは、こういうことなのだろうか。
加えて、3月に5年ぶりに受けた人間ドッグで、大腸にポリープが見つかり、5月の連休あけに、内視鏡手術で切り取った。左足は去年秋から足底腱膜炎で痛いところに、外反母趾が急にひどくなり、小指側と親指側で、骨が飛び出して、一時は靴がまともに履けず、日常生活にも支障が出るまで傷んだ。これも近くの整形外科にいったが、どうすることもできずに、こんど慈恵会医科大学病院の「足の外科」外来に行くことにしている。あるんですね。こういう専門外来が。
当事者になってみて、調べてわかるといことが随分ありました。

齢を重ねるということは、ポジティブに考えれば、経験を積んで豊かな視野を手に入れることでもある。しかしネガティブな面で言うと、それは、いろいろ傷んでいく自分のカラダと付き合っていくことにほかならない。その事実を受け入れるのは、実は少々気の思いことでもある。

去年12月、15年乗った車を手放した。最後の方はしょっちゅう、あちこちに不具合をおこし、修理代もバカにならなかった。大事に使ってきても寿命がくる部品も多々あるのだ。
自分のカラダもそうなっていく途上なのだろう。
ひとことで言えば、「トホホ」としか表現しようもない。