2015年9月26日土曜日

消費税の軽減税率はむしろ金持ち優遇だ。財務省案の還付方式はまっとうだ。

○食料品への軽減税は、お金持ちほど得をする 
 消費税10%時の食料品などの軽減措置として、財務相は還付方式を打ち出し、これに対して反対の声が上がっている。政策決定の鍵を握る公明党も「反対」の動きだ。(9月26日付新聞)。
以前にも書いたが、食料品などへの軽減税率は、愚民対策としては喜ばれるだろうが、まさに愚策でしかない。
財務省(netより「引用」)
そもそも消費税は等しくすべてのものに一定の税を課すことに意味がある。かつて物品税などと言って、いわゆる「ぜいたく品」に課税していたが、時代が移り、何がぜいたく品かは定義できなくなった。だから「等しく課税する」という消費税という発想が出てきた。
多くの国で取り入れられている制度だ。
 食料品など日常消費するものに、低所得者への「配慮」として税を軽減するという発想は、一見まっとうに見える。はたしてそうだろうか。
 お金持ちは(どちらかというと)高額な食品を購入し、高額なレストランで外食する。(という傾向があるだろう)。だから、食料品への軽減税は、お金持ちにもメリットがある。いや、むしろ高級食材を購入する層ほどトクをすくことになる。
 食品にあまりお金をかけない低所得者層は、お金持ちの得に比べればわずかでしかない。この事実に着目すれば、「税の公平負担」から明らかにズレている。
大衆はなぜ小学生でも分かるこうした事実に目を向けないのだろう。“大衆政治家”も同様だ。

○低所得者対策は別の政策で臨むべきだ
そもそも年金は、物価にスライドすることになっている。消費税率が上がって、物価が上がったら、年金もスライドして上がる。だから年金生活者は消費税10%を基本的に心配することはない。もちろん十分上がらないのではないかという心配もあるだろうが、それは別の政策で応ずるべきだ。
金持ちを利する(という言い方はちょっとイヤらしいが)軽減税率より、有効は方法はある。

○軽減税率導入のコストは厖大だ。
食品の何に軽減税率を課すのか、どこに線引きするのか、だれがどうやって決めるのだろうか、どう決めようと、必ず誰かの不満が残る。また小売業者などでは、軽減税率のための手間と作業は大変だ。リンゴを売るのに、リンゴそのものは軽減税率だが、それを入れる箱は普通の税率などということが起きる。そうした社会的コストは見えにくいが、非常な損失である。

○複雑な仕組みはかえってモラルハザードを起こす
仕組みが複雑になると、それを処理する人間は負担を感じて、かえっておざなりになり、次第に形骸化していく。これは火を見るより明らかだ。面倒くさくなると、どうしても誤魔化しや不正が起きやすくなる。持続して税を納めてもらうにはできるだけシンプルにすることが必要だ。

どうしてこんな単純なことが“大衆政治家”には理解できないのだろう。もっとも愚民が選出する代表だからしょうがないけど。

財務省の「回し者」でも「お味方」でも「応援団」でも何でもない。純粋に消費税を考えた場合、10%程度の税率で軽減税率を導入する愚策に反対するだけである。
有権者も国会議員もこんなことにエネルギーを使うより、どうしたら歳出を抑え、限られた国家予算をどう使うか考えた方がいい。以上。

追伸:今週号のアエラに同趣旨の記事が載っていた。たまにはまっとうな指摘をすることもある。この雑誌は。

2015年9月23日水曜日

新安保法 どう運用するのか、これから問われるのは国民自身だ

 祭りは終わった。儀式と言ってもいいかもしれない。もともと数は決まっているのだから、採決すると決断した段階で、勝負はついていた。それを乱暴なやり方で阻止しようとするのは、単なる選挙民・支持者向けのものでしかない。
 良い悪いではない。決まったのだ。

 安倍首相は去年暮れの自らが解散して行った総選挙で、新安保法案のことは公約のひとつに掲げていた。だから今回のやり方を「有権者への裏切り」とか「だまし討ち」とは言えない。
 
 メディアはことここに至って騒ぎ立てるが、なぜ総選挙の時、もっと問題視しなかったのか。その『罪と罰』を覆い隠すために、“リベラル派”のメディアは今回の国会の内外の動きを大袈裟に報道しているように思える。「私たちはちゃんと“みんな”の思いを伝えています」と。醜いとしかいいようがない。総選挙の時、問題視しなかった理由は一切言わない。
 
 「説明不足」という言い方をメディアも“みんな”も言い立てる。はたしてそうか。政府は少なくとも、説明不足と言われないよう、結構丁寧に説明しようと努力していた。これは公平な見方だ。だから矛盾点も浮かび上がってきたし、議論もそれなりに活発だった。学者の方々の「憲法違反」の発言も率直だったと思う。
 
 だから、「説明不足」だから「この法案はいけない」というロジックはいささか身勝手だ。これもひとつの「レッテル貼り」に他ならない。「戦争法案」とか「徴兵制復活」などと言うの同様に。
安倍首相を好きか嫌いかで言えば。きらいだ。反知性的で、国会で自らヤジを飛ばす品のなさ。というよりバカぶりは醜い。しかし彼を攻める側も同じ反知性と下品で立ち向かうから、そちらの方が醜く見えてしまう。
 まあ、いずれにしても、この法案をどう使うか、または使わないのか、はわれわれ有権者に問われている。気分やその時の空気で物事を進めたらわれわれ自身がオシマイだ。

※「みんな」とは:国会前のデモの方々へのインタビューを聞いていると、よく「みんな不安です」とか、「みんなこんなに反対しているのに」などと、「みんな」という言葉がよく出てくる。この「みんな」とはいったい誰なのか。辞書的意味では「みんな」とは全員だと思うのだけれど・・・。
安易に「みんな」という言葉を使うのは賢明ではない。無意識に主体を誤魔化しているように思う。「私は・・・」と、どうして言えないのだろう、みんな


2015年9月17日木曜日

新安保法案も原発再稼働も、闘う相手は「国民自身」だ。

netより「引用」
新安保法案が参議院の委員会で採決された。昨夜から公共放送のニュースはずっと「国会の動き」を“実況中継”し続けていた。
しかし、どこかオカシイ。腑に落ちない。なぜか。
だった、国会は衆参両院とも自民と公明で絶対過半数を確保しているのだから、採決になればどういう結果になるかは小学生でも明らかだ。
 これを「あらゆる手段を使って阻止!」などという主張は、それこそ民主主義、平和主義の理念を捨てて行う実力行使でしかない。
笑止千万。結局は反対する方々の「支持者向けのパフォーマンス」でしかない。

 反対することがオカシイと言っているのではない。この法案がいいのか悪いのか、私には分からないし、内容お良し悪しを論じてる訳ではない。

netより「引用」
安倍政権を「選択」したのは、去年暮れの総選挙で自民や公明に投票した人々ですよね。安倍首相は安保法案を隠したりウソをついてこの選挙に臨んだ訳ではない。(あまり争点にはならないようにしたかもしれないけど)
 国会前でデモする人々も実力行使ではなく、安倍政権に投票した選挙民に向かって「おまえらオカシイ」と言えばいいではないか。そして次の選挙でひっくり返そうと。
決してニヒリズムで言っているのではない。代議員制というのは残念ながらそういうことだ。よく“進歩的”マスコミは国民はひとつひとつの問題で政党を信認したのではない。だから国民投票を、と主張する。確かに一理あるが、ではどんな問題が国民投票にふさわしくて、どういう問題ならば国会で決めていいのか、線引きは難しいし、基準など作れない。
 制度には欠陥がある。でもそれを選択したのなら、あきらめるほかない。「国に関わる物事はすべて国民投票で決める」という国民的合意が出来ればそれでいいけど。そうでなかったら国会の審議に委ねることが(これも残念だけど)従うしかない。
 もちろん「多数決が民主主義」だと言っているのではない。議論は絶対必要だし、民主主義の基本は、少数派への配慮だからだ。

 反原発運動にもオカシサを禁じ得ない。電力会社や政府にデモをかけてもそれはしょうがない。
一番の近道は、化石燃料や電気を使う人々に、「やめろ」とデモすることなのではないか。電力消費がものすごく少なくなれば電力会社も原発を動かす必要性がなくなるし、化石燃料を使わなければ温暖化への懸念は、少しは弱まる。
 どうして原子力発電所の前に行って、「原発反対」と叫ぶのか、まったく理解できない。それより都会の真ん中に行って、車に乗っている人々を止めて、車を使うなと言ったり、夜の営業している店に行って早く閉めろと言うのうがスジなんじゃないだろうか。
これは皮肉でもなんでもなく。
コマーシャルにあったな昔、「臭い匂いは元から絶たなきゃダメ」。

悪いのは国民自身なのだから。それは自分への自戒も含めて本当にそう思う。



2015年9月10日木曜日

NHKのBS放送から、囲碁名人戦が消えた


囲碁名人戦のBSでの放送を、「公共放送NHK」はやめたらしい。

井山祐太名人と高尾紳路天元というファン垂涎のタイトル戦は9月4日から第1局が始まったが、NHKのBS報道はいつものような放送をやめてしまった。

これで衛星放送から囲碁将棋関連の放送を徐々に撤退していた方向性が一層はっきりした。

残念というか、もったいない。
 
 かつてNHKのBS番組に「囲碁将棋ウィークリー」というのがあった。 確か土曜日の正午から1時間半くらいたっぷり時間をかけた番組だった。
内容は、囲碁も将棋も、1週間の主な対局結果を伝え、そして「注目の1番」の解説をじっくり行う。
毎回ゲストがきて、普段なかなか素顔が分からない棋士の方々の話に接することができた。そして私はこの番組が大好きだった。注目の一番では、単に対局の過程を追うだけでなく、なぜその1手が指されたか、その手の背景にはどういう意味があり、その時棋士は何を狙いにどうしてその手を指したか、ゲスト棋士がその人ならではの解釈を交えて解説する。
これがたまらなく好きだった。

 そうか、この対局者はこの1手を打つのにこんなことを考えていたんだと、知ることは、観戦ファンとしてはたまらなく知的好奇心を刺激され、感心するばかりだった。
しかし私の棋力は将棋で10級、碁にいたってはほとんど計測不能なくらいの弱さだ。しかし観戦するのはたまらなく面白い。

 「ウェブ進化論」で注目された梅田望夫さんは、私と同じような「観戦ファン」だ。(もちろん棋力は私よりはるかに上だろうが)。
「ウェブ・・・」で書かれたようには世の中は(まだ)ならなかったかもしれないが、彼の将棋に関する一連の著書は、なかなか面白い。将棋観戦ファンとして共感するところ多々あった。

 彼もどれかの著書で書いていたが、「観戦ファンだと言うと、お強いんですか?と必ず聞かれる。そうではなくて、将棋を観るのが好きというのがなかなか理解されない」と。

 野球ファンやサッカーファンは必ずしも野球やサッカーを実際に行う人ではないだろうし、行う人にしても、必ずしも得意ではないだろう。「観ることの方が好き」という人々が沢山いるはずだ。にも拘わらず将棋や碁では理解されないのはなぜか。
スポーツファンには申し訳ない言い方かもしれないが、スポーツよりずっと知的で奥が深いと思いんだけど。


 衛星放送だけではない。公共放送から将棋や碁の放送がどんどん消えている。
くだんの「囲碁将棋ウィークリー」はBSから衣替えして日曜日午前中教育テレビのNHK杯囲碁と将棋の間に短時間で放送していたが、それも今は「囲碁フォーカス」「将棋フォーカス」という30分番組で、講座と話題中心で「注目の1局」を取り上げた観戦ファン向けではない。

 タイトル戦中継は、将棋は竜王戦と名人戦、碁は本因坊戦と名人戦を行っていたと思うが、先日始まった囲碁の名人戦はBSの中継をしていなかった。

ついでに言うと、3月1日の将棋のA級順位戦最終局「将棋界の一番長い日」も中継をやめ、後日編集したものしか放送していない。

どうして、「公共放送NHK」から棋道が消えていくのだろうか。

ひとつはニコニコ動画で中継を行っていることもあるかもしれない。しかし例えばテニスではWOWOWで放送していても、NHK-BSで放送している。
棋道を愛する人が少ないということなのだろうか。

 NHKの2つのBS放送は、今やスポーツ中継、旅、自然、歌、ドラマ、モノ(あからさま商品紹介はできないから、紀行風にアレンジして)ばかりだ。
確かにそれも悪くない。しかしいくらなんでも「多様性」がもう少しあってもいいのではないか。24時間放送しているのに、

囲碁将棋番組は、そんないオカネのかかる番組ではないと思う。俳優さんを連れていく海外の旅ものひとつ作るのに比べたら安いものだろう。

将棋や碁を愛する年配者はまだまだ多いと思う。そういう「お客さん」を逃していることに気付いてほしい。作り手や番組編成を行う人々に棋道を理解できる人がいないということなのか。
囲碁や将棋の観戦は、知的好奇心を刺激する非常にいいソフトなのに。

学校教育でも棋道を取り入れるところが出てきている。日本で進化し深化した将棋。碁は中国・韓国にちょっと遅れをとっているけど、それでも東アジアに発展する「すごいゲーム」だ。

NHKの衛星放送の番組の並びを見ていると、ここにも「大衆化」の流れが押し寄せいるように思う。何とかならないのかね。梅田さんもこの状況を泣いていると思います。



2015年9月5日土曜日

東京五輪、新競技場・エンブレム問題、官僚体質が丸見えだった。

netより「引用」
責任の取り方とは難しいものだ。だれでもオレのせいじゃないと思いたいし、実際ヌレ衣もあろう。責任を取るということは、失敗を認めるということであり、それは日本では「ダメな人間」として分類されることである。サラリーマン社会では、一度そう見られると致命傷になる。官庁でも大企業でも多くの組織で、そういう人にはレッテルが張られて、昇進や処遇に響く。

五輪組織委員会や周辺組織は、まさにそうした組織の「模範」だ。
元財務次官の武藤氏が事務局長ということは、彼を支える人に官僚出身者たちが多く送り込まれていることは、想像に難くない。

彼らはおそらく優秀な人々だ、ある面で。記憶力が図抜けてよく、事務処理能力にすぐれ、前例(法律)を熟知し、政治的に動く人(まさに政治家)の操縦術を心得ている。

多くの事柄・課題をそつなくこなし、少しのミスもなく成し遂げていることだろう。それが彼らの評価につながり、次のステップになる。財務官僚であれば地方の税務署長を20代で務めるのと同じように、組織委員会などで「国の仕事」をこなし、その評価をもって本庁に凱旋するのが目標だ。

だからどんな小さなミスでも責任をとりたくない。私が間違っておりました、などとは口が裂けても言えない。言ってはいけないのだ。彼らにとっては。

新国立競技場問題が世論の批判を浴びてどうにもならなくなっても、エンブレムの“疑惑”が沸点に達しても、積み上げてきたことを撤回することは、自分の非を認めることになり、彼らにとっては「あってはならないこと」なのだ。だから結局対応が後手後手に回り、政治決断という「天の声」があるまで事態は止まらない。

武藤氏の先日の会見での責任の取り方に関する答え方にそのことがよく表れていた。無責任、どこか他人事という批判がメディアでなされたが、そうした「背景」を考えると驚くに値しない、予想されたことだった。

だって日本はずっとよれでやってきたじゃないですか・・。戦争責任にしても、何にしても。

アメリカのことはよく知らないが、自分の少ない読書の中から思うのは、かの国には「失敗してもやりなおせる」仕組みや、風土があるらしいということだ。だからチャレンジもできる。

経営学や組織論などでは言い古されたことだが、「失敗してもやり直せる仕組み」「チャレンジ精神が発揮できる仕組み」が求められている。しかし日本ではそんな理想論は通用しないだろう。これからも。そういう国なんだから。
それで良いとか悪いとかでなくて、そういう国なんです。変えようとしても変わらないダメな国、日本は。


ついでに、デザインの変更過程が選考委員に知らされていなかった問題にもひとこと。
これも極めて官僚的手法でコトが進んだということだ。

通常、法律が国会で成立すると、官僚は政令を作る。また権力をバックにした指針、行政指導を行う。国会の決議で決まる法令には、あまり細かいことは書いていない。いわば精神だ。詳細を取決めるのが政令だ。政令は国会審議を経ないから官僚の意のままに作られる。そしてコトは彼らの思うように進む。(もちろんそれが全て悪いコトだと言っているのではない。透明性の問題だ)


政令を決めたら、おそらく国会の有力議員さんのところは持っていって、これでいいですねと「確認」を取るのだろう。その時議員は、もともと大元の法令に賛成しているから基本的に反対する真理にはならない。そこで官僚から分厚い資料で細かい説明をされてもにわかには理解できない。それで、「わかった、わかったそれでよい」となり、かくして官僚の思うとおりの政令が出来上がる。

エンブレムのデザイン専攻もまさにこんな構図で進められた。
誰の作品を選ぶかは選考委員さんがお決めになり、佐野研二郎の作品が選ばれた。しかし細かい修正はいちいち選考委員にお伺いを立てることなく、官僚たちが勝手に進めた。そしてもう反対する雰囲気のないところで、選考委員の示して、「これでいいでございますね」と言って決まるのだ。

優秀な官僚の方々にひとつ欠けていることがあるとすれば、「大衆の空気が読めない」ということに尽きるだろう。彼らにとって「大衆」は、自分のアタマで考えない人々としか見ていないから、彼らの気持ちを読む気にならない。だからしばしば「大衆の反逆」に遭遇する。

もっとも大衆的発想に抗って国のかじ取りをすることも必要なので、それがすべて悪いことではないけど。時には大衆の発想の方が「正しい」こともあることを忘れないことだ。


書いているうちにまた思いだしことがある。かつて細川政権の崩壊につながった「国民福祉税」構想は、そんな大衆の空気が読めなかった官僚によって作られた原案だったな。多くの国民は非常な唐突感を持った。しかしずっと、国の財政危機についてそうすれば良いか考え続けてきた官僚たちにとってはまったく唐突でも何でもないことだったのだろう。お気の毒に。



2015年9月4日金曜日

五輪エンブレム「似ている」と「マネした」は別問題だ。話しは分けて考えるべき

東京五輪のエンブレム問題で揺れている。佐野研二郎氏が“デザイン”した(らしい)ものは、様々に「疑惑」が出て、結局取り下げたのは、各メディアの報道の通りでしょう。
一連の報道で気になったのが、佐野氏の問題である「模倣」と、デザインの問題である「似ていること」がどうもごっちゃに報道されてきたことだ。

すべてのメディアをチェックした訳ではないけど、公共放送のニュースを見ていて、内容に疑問を持った。
「似ているという指摘に対し、佐野氏は模倣を否定しています」と、いう言い回しがよく出てきたが、このニュースは模倣について掘り下げたニュースなのか、似ているかどうかについて検討したニュースなのか、よく分からなかった。

似ているがどうかは、一目瞭然だろう。多くの人が「似ている」と感じるのは疑いのないところだ。デザイナーなど「専門家」は、シンプルなデザインでは結果として似たデザインになると、ご主張なさっているようだが、それはその通りであり、似ているものを許容するのかどうかと、似ているかどうかという受け止めの話しをごっちゃに1本のニュースで伝えては、何も伝わらない。少なくとも、ニュースの意味を理解できない。

一方佐野氏が「模倣」したかどうかは、突き詰めればそれは心の問題であり、証拠を示すことなど不可能に近いし、追求することに余り意味はない。
本人は「模倣」した意識がなくても、どこかで見た記憶が脳の奥底に残っていて、それがデザインに無意識に反映されたかもしれない。(フロイト的に言えば「前意識」ですね)
そうであれば、「模倣」は否定するだろうし、それはウソではない。無意識のことなんて人間だれにでもあり、そんなもんだ。

 五輪のエンブレムとして何が問題かと言えば、似ているかどうかだろう。結果として似ていることが分かれば、そのオリジナリティーは薄まるのだから、「代えてもいいんじゃねえ」となるだろう。

少なくとも言えることは、佐野氏には「模倣癖」がありそうだといことだ。数々の指摘を見れば、彼の性癖は推して知るべしだろう。そういう人間だということだ。

余談ですけど、我が家で愛用している山形のおいしいコメ「つや姫」の袋のデザインも佐野氏だったと知り、少々がっかりしています。

余談2.
「模倣癖」で思い出されるのはあの、一昨年亡くなった山崎豊子の「盗用癖」だ。そりゃ、数々の優れた作品を世に出してきたかもしれないけど、たびたび、他書著からの「無断引用」を指摘され、それでも治まらなかったのは、彼女の「盗用癖」という病理のためだった。と、思う。

メディアは山崎が亡くなった時、(私の知る限り)まったくこのことに触れなかった。別に亡くなった方にムチ打つことはないが、きれいごとばかりでなく、史実としてきちっと伝えることも必要ではないのかね。



2015年9月3日木曜日

古市憲寿「もう誰も戦争を知らない」(新潮45 8月号)は、非常に優れた考察だ。

古市憲寿さん(netより「引用」)
 古市寿憲さんは若手も論客の中でも、注目している。(すみません、あの髪型はあまり好きではありありませんけど)。
 
 近隣諸国、特にあのアジア太平洋戦争で日本が占領した国々では、ここのところの対日関係もあり、「戦後70年」を国内的にうまく「利用」していることは、ここでは置くとして、それにしても戦後70年とは何だったのか、冷静な考察が必要だ。古市氏が新潮8月号に寄せた文章は、すぐれて本質をついたものだった。「もう誰も戦争を知らない」


(いつものように図書館では9月号が発売にならないと8月号が借りられないので1か月遅れです)

20130806朝日新聞から「引用」
古市氏は2013年8月6日の朝日新聞に寄せた一文でも「平和の記憶から始めればいい」と、戦後という枠組みにこだわる風潮に、疑問を呈して、問題提起していた。(いい文章なので切抜きしてました)

古市氏の「新潮45」での主張は極めてまっとうだ。
 「このままでは戦争語りが「学校の怪談」や都市伝説化する。悩ましいのは、歴史の怪談、都市伝説化に抗うのは意外と困難だという点。きちんとした証拠に基づき、論理的整合性に配慮する歴史学よりも、何となくの根拠で伝えられる物語のほうが人類にはなじみ深い」と、戦争語りの陥穽を指摘し、

戦争全否定派はとにかく恐ろしさを説く。しかしこれらの情報は決して嘘ではないが戦争 のすべてではない。あの戦争は軍部の暴走だけで起きたわけではなく、背景には国民の圧倒的支持があった。特に開戦初期には多くの国民が戦勝報道に熱狂し、メディアや軍事産 業は大きな利益を得た。」「戦争肯定派はとにかく気持ちのいい話を好む。日本はアジアの国々から感謝されている。帝国陸軍の兵士はみな起立正しく国のために命を捧げた。しかしアジアに厖大な犠牲者が生まれたのは疑いようのない事実。ほんのわずかな例から日本賛美の物語を紡ぐのは都市伝説と変わりない。」と
左右の論壇のありかたの欠陥を分析、

そして
仮に戦争体験ができるだけ正確な形で伝わったとしても、それがどれほど意味のあることかはわからない。それこそ「戦後70年」特集でよく見るのは、あの悲惨な戦争を繰り返さないで平和な世界を作りましょうというメッセージ。しかしあの戦争と平和構築を安易に結びつける議論が非常に危険だと思う。なぜなら現代世界で起こっている戦争は70年前に終わった戦争とはまるで別物だから。」と、現実を見据えている。

戦争の記憶が風化してからのほうが、僕たちはより『戦争』をフラットに見ることができるかもしれない。同時に都市伝説化、怪談化も進むけど。だがそれほど心配していない。(時間がたては)冷静な議論ができる時代は絶対に来る。日中韓の関係もまた押してしるべし。」と結んでいる。

 言うまでもないが、古市氏は、「加害者としての日本という主体を忘れてもよい」と言っているので
はない。また、語り部を使命と思って、原爆体験や空襲体験の語り部たちの活動を否定しているの
ではない。平成生まれれの人々に、「語り継ぐ」ことがどれほどの意味があるのかと疑問を呈して
いるのだ。
これって、とかく何でも情緒に流される日本人(という再帰的な存在)には、けっこう大事な指摘だと思います。




「無駄」とどう向き合うか。西成活裕さんの著書から考える。


世の中、突き詰めると、「『無駄』」をどうするか」のために生きているような気がする。
 カイシャでは経費節減、業務の効率化、経営資源の有効活用などという言い方で、日々「無駄」と闘うことが日常業務だ。ヘタすると、社会的価値を生み出すという企業本来の目的がどこかに消えて、無駄をなくすこと自体が目的になってしまった錯覚に陥りかねない。

 ともあれ、無駄はなくしたいというのが、私生活でもあることは確かだ。ムダなお金は使いたくない。時間のムダもいやだ。日々、無意識に「無駄」と闘っている。

 なぜか、2008年刊のこの、西成さんの書籍を買って読んだ。「渋滞学」のあの人だ。夏前に新潮選書の書籍目録が新宿紀伊国屋に置いてあって、それを家のソファーに寝転がって、何かいい本なないか“物色”している時に気に留めた1冊だったからだ。
 
 もちろん「無駄」ということに、ことのほか関心があり、「合理的」であることをこのやく愛する性格も作用した。
 一読して「う~ん」とうなってしまった。「学問」と言うには、有名な「渋滞学」の域に届いていなかった。前半は「学」になろうとして言葉の定義や論理を展開し、中盤は「トヨタ生産方式」の具体的な紹介。後半は西成さんの社会に対するエッセイだった。
 
 決して内容が「無駄」だった。読んで時間を「無駄」にした、ということではない。トヨタ生産方式をこれほど具体的に読んだことはなかったし、エッセイも「無駄」という視点から、エンデの「モモ」から、「成長の限界」まで、さまざま知識人の著書が簡潔に紹介されているという点では、「無駄」を再認識するきっかけにはなった。

 でも一番印象に残った、実用的な記述は、結局「高速道路で車間距離を40メートル以下にすると渋滞が起きる。だから車間距離を詰めないことが肝要だ。」ということだったかもしれない。

 西成さんは「直観力」についても述べていて、これはこれで参考になる話だけど、直接「無駄学」とは関係ないお話だった。

断わっておくが、この書籍をけなしているのではない。とにかく最後まで読んだ。でも「渋滞学」のように後世まで残るテキストではなかったということかな。無駄について改めて深く考えるきっかけにはなったけど。