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2017年9月16日土曜日

目からウロコのクラシック音楽。『西洋音楽史』(中公新書)の読書感想文

 いわゆるクラシック音楽は、どうしてコンサートに行って、かしこまって聞かなくてはいけないんだろう。どうして昔のモノばかり演奏するんだろう。どうしてクラシックの現代音楽って耳障りな不協和音ばかりなんだろう。クラシックとポピュラー音楽の本当の違いって何だろう。
 バイオリンを習わされていた小学校低学年のころから、実は疑問に思っていた。もう少し成長してから、メサイアや第9を聴きに行くようになってからも、それ自体は「いい音楽」=耳に心地よい音楽だと思っても、そうした疑問を払しょくできなかった。また、あえて疑問に対して深く探究しようと思わなかったとい面もる。

 しかし、この『西洋音楽史・「クラシック」の黄昏』を読んで、そうした疑問が一挙に解消されたし、それどころかクラシック音楽を、ある意味でより深く聞いてみようという気になった。すごい「良書」だ。これで900円しないんだから、非常にお得ですよ。
 
 これまで気に入った読書のあとは、読みっぱなしにせず、自分なりにノートにまとめてきた。(そんなにに冊数は多くないけど)。この本は、そうしたい衝動にかられたし、ノートというか、自分なりの年表にしてみたと思った。
 聞いている音楽がどの時代の、どういう背景で作られた音楽が知ることは、同じ音楽と聞くのでもずいぶん違う。荘厳すぎるシンフォニー、高度なテクニックが際だつピアノ曲等々。背景を知ると、単純に興味が深まる。
 まあこれは小説の「作品論」より「作家論」に近くなるという点はあり、純粋に作品論的に楽しめなくなるという面がなくはないが、クラシックのシロウトにはちょうどいいかもしれない。
 還暦を前になぜかクラシックを聴くようになったのか。2年前、風邪をきっかけに耳鳴りがするようになり、医者から「耳鳴りは一生治りませんから」と、あっさり告げられ、通勤途中に音楽を聴くようになった。
(耳鳴りは慣れると思ったより気にはならないが、それでもシーンとした部屋にいたりすと、「ああ、耳鳴りしてるんだな」と改めて思うことはしばしばだ。)

 デイブ・グルーシン、リー・リトナー、ジョージ・ベンソン等々とジャズ、ヒュージョン系を聴いていたけど、少々飽きてきたので、ここ半年はクラシックを聴いている。
 (ちなみにランニングする時はサザンやAKB48や荒井由美や中島みゆきを聴いているけど)
 けど、いったいクラシックはどこから聞いていいのかわからない。手始めは以前(と言っても20年以上前だ)購入した「ベストクラシック100」や図書館で借りた、「どこかで聞いたクラシック・ベルリンフィル」など、定番から入った。次に、各作曲家のベスト版を借りて聴く。そして次に、netにある、ご推薦の「ベスト交響曲30」などを上記から順番に聞いていく。
 てなことをやっていくと、当たり前だけどクラシックも、あまり聞いていて面白くないものも多々あることに気付く。まあ聴き方が通勤途上の読書のBGMだから、耳に心地よいものを無意識に選好しているせいでもあるけど。
 で、本の話からそれたけど、この「西洋音楽史」のいいところは、ある作曲家の生きた年代が西洋史の中でどういう時代だったか、この作曲家は、実は○○哲学者と仲良しだった、などエピソードが分かりやすいことにある。
 もちろん著者の文章のうまさ、構成の的確さなど書籍としての完成度も非常に高い。このまま高校の音楽の授業に使える、分かりやすさと深さがある書籍だ。

2017年6月17日土曜日

「最も危険なアメリカ映画」は米近代史の教科書だ。

 最初にアメリカに触れたのは、本多勝一氏の『アメリカ合州国』だったと思う。合衆国ではなく「州」だといちゃもんをつける本多氏の主張は確かにそうだった。そのタイトルだけでなく南部を歩くルポは、若い自分にとって新鮮だった。手元にないのでネットで調べると1981年刊となっている。すでに大学生だったのか。でも未熟な自分は、キング牧師の名と黒人解放くらいは知っていても、それ以上の具体的な出来事やアメリカの暗黒な歴史までの知識はなかった。
 
 「ドライビングMissデイジー」は、1989年の映画だ。
なぜだか印象に残る映画だ。DVDで2回観てしまった。
白人の警察官が「ユダヤ人と黒人の組み合わせか」と嘲笑するセリフが、この映画の背景のすべてを物語っていた。
『ドライビングMissデイジー』
(※追記:この印象深い映画も、見方を変えれば(町山さん的に解釈すると)、白人国家にあって、あるべき控え目で従順な、“模範的”黒人像を描いていると言えなくもない。またそういう見方はある面当たっていると思う。)

 と、前置きが長くなってしまったが、町山さんのこのアメリカ映画を分析した近著は、アメリカを知る上で、最もリアルな本だろう。この本を読んでアメリカの大衆社会のえげつなさと反知性主義の歴史が本当によく分かる。アフリカ系アメリカ人や先住民の苦難の道のりと、今も多くの白人に内在する差別意識など、一言では言い尽くせない豊富な内容だ。
 「バックトゥーザヒューチャー」や「フォレストガンプ」に隠された意図など、アメリカの現実を知ることができる。単純に感動したり、面白がって映画を見ていては、いけないことがわかる。
『さらば白人国家アメリカ』に書かれていたとおもうが、「サイレント・マジョリティー」の意味が、単に物言わぬ多数の人々という意味ではなく、アメリカでは、表立って差別意識を出せず、ホンネを言わない白人の集団を指すこと。ペイリンが言う「リアルなアメリカ人」という言い方が、白人たちを指すことなど、隠語的意味を解説してくれている。
報道では「草の根の保守」としか描かれていない(と思う。少なくともNHKニュースでは)「ティーパーティー」運動が、実はコーク兄弟に操られた運動だったことなど、それこそ「リアル」なアメリカが分かる。
 一読の価値あり。内容から言って1400円は非常にお買い得!
 

アメリカの“ルポ”というかフィールドワークで興味深いのは、もちろん渡辺靖さんの一連の著書だ。でも渡辺さんの本では補いきれないものが町山さんの本にはある。

ちなみに「アフターアメリカ」はこれはこれで、大変いい書籍だ。




2017年3月4日土曜日

指南書を読んでみる。「小さな会社で僕は育つ」と「ブックカフェを始めよう」


  いわゆる指南書というのは、実践的ですぐ役立つ、お手軽本なのかもしれない。何かを始めようとしている時や、何かを身に付けたいと思っている時に、飛びつきたくなるだろう。
 「1冊でわかる日本史」(なんてタイトルが実際にあったかどうか分からないけど)や、「中高の英語が1か月で身につく」(同)なんかも、その類だし、いろんなことでお手軽本の魔力はあろう。
 実際自分もその手の本を何冊か読んでいるけど、恥ずかしくてブログには載せられない。(笑)
しかし指南書でも、そんなお手軽本ではない良書もある。

 『小さな会社でぼくは育つ』は、関西の中堅大学で経営学を教える准教授が、おそらく教え子の学生たちの多くが就職するであろう中小企業で働くことの「応援歌」として書かれた本だ。何かの雑誌の書評にあってタイトルを覚えていたところに、先週、図書館の「新しい本」のコーナーに置かれたばかりのところを見つけ借りて読んだ。
  すでに第一次定年を迎えたわが身では、これから中小企業に勤めようとしている人向けに書かれた本が何の役にたつのだと思われるかもしれない。実際、著者には少々失礼だけど、まるでパンフレットのように平易にお手軽に読めるような構成の本だ。
   通勤の行き帰りで読み飛ばすような内容だけれど、それでも1,2か所、自分を振り返るという意味でも、役に立つことは書いてある。
(どんな書籍でも、必ず1か所は「読んでよかった」と思う箇所があると信じて読むことにしている)
 著者は内田樹さんの合気道道場の門下生でもあるらしい。内田さんの著書からも何か所か引用がある。「雪かきしごと」のことは一番のエピソードだろう。
これに関して、ラガーマンの平尾剛さんの著書に出てくる、「プレーヤーズプレーヤー」についての引用が興味深い。
「彼らの魅力や能力は数値に換算することができないのはもちろんメディアやファンの目にも評価されにくい。往々にして地味なプレー。しかし彼らが率先してひきうける泥臭いプレーの数々があるからこそ、見る者を魅了するほどスピーディーな試合展開が可能になる。いろんな意味で周囲が騒がしくてもそれがを気にせず黙々と自分の役割を担うことができる。それがプレイヤーズプレイヤーだ。」(『近くて遠いこの身体』ミンマ社)

ラグビーはよく知らないし、ほとんど見ることもないけど、雪かき仕事はスポーツでもあるんだなと、感じた。チームプレーというのはこういうことなんだろうね。


もう1冊は「ブックカフェを始めよう!」。還暦を迎えたら何をして生きようか考えている身には、非常に興味ある本だった。
これも、丁寧に、カフェを開店させ、維持するためのさまざまなノウハウが、平易に書かれている。これぞ指南書という本だ。
多少、本が好きで、カフェにも興味がある者にとって、この本を読むと、「自分にもできそう」と感じてしまう。巻末に全国のブックカフェが何軒か紹介されているが、ほとんどが東京圏以外の、地方都市のものだ。何か理由があるのか気になった。


2017年1月28日土曜日

歴史と向きあう『日本書紀の呪縛』・・・「将来に向かって生きようとするものは過去に向かっても生きなければならない」

 正直に言うと、学生時代「歴史」をきちんと学んでこなかった。中学、高校を通じて日本史、世界史ともあまり好きではなかった。あのころ歴史に関する書籍もほとんど読まなかった。(読んでいたのは、もっぱらライトな小説とルポルタージュだ。)
だから歴史の基本的知識も乏しい。今から考えるとよく大学の文系に入れたと思う。(地歴の代わりに数学で受験できるところしか受けなかったけど)

 「歴史」を少しはまともに考えてみるようになったのは、恥ずかしい話、社会人になってからだ。まあそんなことはどうでもいいけど、日々生きていていつも頭によぎるのは、タイトルの言葉だ。これを知ったのは、ハーバード大学教授の入江昭さんの新書「歴史を学ぶということ」のあとがきだ。

オスカーワイルドの戯曲「ウィンダミア卿夫人の扇」から。『将来に向かって生きようとするものは過去に向かっても生きなければならない』

 メモに書きとめておいた。
時事的問題について考える時も、日常の雑事(親の介護など)について考える時も、この言葉は、生きる上で大切だ。

『日本書記の呪縛』は一気に読んだ。

 先人の研究成果を丁寧に紹介し、そこに著者の説得力ある見解を静かに記している。納得感が得られる新書だ。

 歴史に真摯に向き合おうとする研究者の誠実さを感じる。まだま解明すべき歴史の課題が日本古代史にも相当あることも分かった。

法隆寺⇒聖徳太子⇒17条の憲法 などという図式は、自分の中に刷り込まれている。中学の教科書にもそう書かれている。でもそこから“違う”ことをきちっと理解していないといけないことを改めて認識させられた。
 近代の歴史を自らに都合よく書きかえようというたくらみは、日本でも中国でも韓国でも、行われている。だから、良識的に人々によって歴史の共同研究が行われているのだろうけど、国家権力はそんなことはおかまいなしだし、偏狭な考えから抜け出せない一部の大衆の行動も同様だろう。
 APAホテルに置かれている『書籍』問題が最近話題になった。札幌・帯広で冬季アジア大会が開かれる。少なからず摩擦を生むのは明らかだ。反対に慰安婦像についても同様だろう。“良識的”な人々(リベラルな方々)にとっても、おそらく困惑している問題だろう。
 自分の考えに都合よく解釈する。これもナルシシズムの心情にほかならないけど。
 人は誰でも思いだしたくない過去もあろうだろう。しかしそれに真摯に向き合う胆力がなければ未来は開けない。






2017年1月3日火曜日

橋本崇載八段頑張れ!。将棋界の将来はどうなるのか。結構心配している。

 将棋が少し好きな人なら、橋本崇載 八段を知っているだろう。山嵐のような髪の毛でNHK杯でも対局し、異彩を放っている棋士だ。解説も結構上手で、私は隠れファンのひとりだ。(隠れなくれもいいんだけど。表だって応援していないという意味でね。)

 その彼が暮れに出版した「棋士の一分」はたいへん興味深い。将棋に感心のない人にとってどうでもいいことかもしれないけど、それはどの分野でも同じだ。私にとって、ゴルフ界が将来どうなとうろかまわないし、プロレス界がどうなろうと全くどうでもいいことのように。

 しかし将棋という「知的」なゲームの魅力や有用性は、スポーツとはちょっと違うかもしれない。

 わずか600万人ほどしかないという将棋人口にあって、「トーナメントプロ」が今後も存続するかどうかは、棋士界にとて大きな問題だろう。それに対してなんら有効な手が打てない将棋連盟に対し、危機意識が足りないことを冷静な筆致で警告している。

 強烈な個性の米長邦雄という前の将棋連盟会長の利にさといことを率直に批判している。もちろん彼の功績も認めつつだ。(私は米長はもともと嫌いだ。)

NETより「引用」
棋士の数が多すぎること。現在のフリークラスのシステムでは実力のない棋士の延命ばかり図られていること。IA(人口知能)のソフトとの対戦の是非、新聞社に頼った棋戦の運営など、将棋界の抱える問題をずばり指摘している。橋本さんは単に批評家になっているのではなく、実際に理事選挙に出るなど行動を起こしているから、この書著にも説得力がある。

 IAソフトついては、折しも1月3日(本日)のアサヒの朝刊に将棋、囲碁ともに佐藤名人、井山6冠が対局することが、2人のインタビューとともに1面を割いて“肯定的に”報じられていた。

 一昔前、職場では昼休みのひと時や夜勤の空き時間に将棋を指す光景は結構目にした。職場のみんなで泊りがけでスキーに行った時など、必ず将棋盤を囲んだ。しかしそうした光景は今や見られない。
 まして人口減少、子ども人口が減っている中で、将棋は風前の灯のようだ。かつてくらしていた東京の私鉄沿線の駅の近くに将棋道場があったけど、今はもうない。

 橋本氏は書く、「ある新聞社が賞金を値下げすると言い出したら、他の棋戦を持つ新聞社も追随するかもしれない」と。いまや将棋面は部数増加になにも貢献していないというのが現実だろう。せいぜい新聞のオールドファンをつなぎとめているだけかもしれない。

 将棋を指すのは「苦手」だ。市販の安いソフトでもすぐに負けてします。しかし、前にも書いたけど、棋戦を見て、その解説を聞くのが大好きだ。ある一手の背景に、どれほどの思索があり、戦略があり、トッププロが能力の限りを絞り出して放った一手であるか、それを見せてくれることはこの上ない魅力だ。
 NHK衛星放送から将棋中継が消えたことを非常に嘆くとともに、憂える。ニコ動ではどうにもついていけない。

 橋本八段。頑張れ。普通、私は他人に対して「頑張れ」とは言わない。常套句の「頑張ってください」という言葉の欺瞞性が嫌いだからだ。だけど、今回は橋本氏に対して、頑張れと言いたい気分だ。もう二度と理事選挙には出ないと書いているが、ぜひ出てほしい。改革する意志のある人が将棋連盟の執行部に入るなら、いくばくかの寄付なども含めて応援したいと思う。




2016年6月25日土曜日

村上春樹をひっぱたきたい。その2・・・癒しのエッセイ

かつてブログで「村上春樹をひっぱたきたい」と書いた(と思う。)よく覚えていないけど。
新潮文庫「村上ラヂオ3」を読んで、思わずその1、2も買ってしまった。
 繰り返しになるが、どうしてこの人は、自分が考えていること、思っていることを先取りして、エッセイにしてしまうのだろう。トホホと言うしかない。まるで自分の頭(心)の中を密かに覗かれて、私だけのためのエッセイにしたと考えてしまうほどだ。これほど考え方や思いに共感する人は他にいない。
 もちろん、「高い所がきらい」や「猫との生活」、「オープンカー好き」など、まったく逆のところもあるけど、逆に言うとこれ以外はすべて共感してしまう。
 「村上ラヂオ」を3→2→1と、いつも仕事の帰りの電車で読んで、村上さんのゆる~い感じで頭の疲れ癒していた。
 サラリーマンとしてこれまで32年間、まあ一応働き、今も生活のために給料が半分になっても働いていると、村上さんのような生き方は、憧れだ。それを目指してもかなわないし、小説も書けない。だからこそというのか、ゆる~いエッセイに垣間見える村上さんの日常を、自分の生活に重ね合せてリアリティを持って感じられるのかもしれない。
 またフィールドが東京の千駄ヶ谷や青山だといのもある。毎週必ず1回は泳ぐために千駄ヶ谷に通っている。将棋会館にも、何度か行った。青山には、それほどなじみはないが、よく通るので地理的な認識は確かだし、まちの雰囲気もわかる。
 旅行好き、料理好き、走ること。ゴルフ“嫌い”、鰻好き、等々、いちいち自分に「近い」感覚の持ち主が感じたこと考えたことを記す短文は、まさに「癒しのエッセイ」だ。

 ぜんぜん話は飛ぶけど、小熊英二さんの「癒しのナショナリズム」という著書を思い出した。そうなんです。疲れた心には癒しが必要なんです。
 村上さんは、彼の小説を読んでオウムから抜けることができた青年の話をを引き合いに、自分の書いた小説で救われる人が1人でもいれば、自分は小説を書く意義があるという趣旨のことをどこかで書いていた。社会が人々にどんな「癒し」を提供できるのか。それで社会のあり方がひどく変わってしまうのだろう。
 「社会」というと何かマスでとらえがちだけど、そうではなくて村上さんの小説のような作用が、幾重にも積み重ねられるという意味で。

2016年3月5日土曜日

『世論をめぐる困難』はメディアのつくる「世論」が如何に“世間”とかけ離れているか自ら問うた挑戦的な本だ

地味な本であり、当然アマゾンではひっかかってこない。しかしこれはある意味で挑戦的な試みだ。
https://www.nhk-book.co.jp/detail/000000072582016.html

かつて、『輿論と世論』」が話題になったが、大衆社会を考える上で、どちらも参考になる書籍だろう。
「世論をめぐる困難」は、NHKの放送文化研究所が発行する月刊誌「放送メディア研究」の別冊のような形をとっている。

世論調査の所管する「NHK文研」が自らの仕事を顧みたということでは挑戦的だと言える。

日々、新聞やテレビのメディアに接していて(というか斜に構えて、横目で眺めていて)、体感として、世間とメディアの言う「世論」に何となく乖離を感じている者としては、その体感をアタマの中で整理する材料になる。

まだ全部は読んでいないけど、(おそらく全部は読まないけど)、頭の体操をしたい時に、徐々に読みすすもう。

しかし、「NHK文研」が問題提起しても、その巨大メディア自体は、何も報道に変わりがない(と感じる)のは、巨大組織の硬直性が如何に強固なのかも同時に感じてしまう。

2016年2月27日土曜日

「あの日」(小保方晴子著)はすごい!講談社の編集者に拍手

“話題”の書籍(これが「書籍」と言えるかどうかは別として)、
『あの日』(小保方晴子)には感心した。そのタイトルに。

書店に行くと平積みになっている。新聞の発行部数欄でも、石原慎太郎の「天才」(田中角栄本)についで堂々の2位になっている。

はっきり言ってわざわざ読もうとは思わない。それほど残りの人生に時間に余裕はないから。
雑誌のコラムなどで「読んだ」人の感想を聞けば十分だ。
我田引水、唯我独尊、などいくつかの「書評」(と言うのかは?)を見た。この人が渦中の時にホテル住まい、タクシー出勤などさまざまな報道がされていただけに、いま生活はどう維持なさっているのかは、覗き見的趣味で気にはなるけど。

それはそれとして、タイトル『あの日』には、正直感心した。もちろんこのタイトルを考えたのは講談社の編集者なんだろうけど、この編集者は、いかに「キャッチな」「人を惹きつける」かを考え抜いたに違いない。もっとも、意外とすぐ、ふわっと思いついたのかもしれないけど、それはタイトルを考えた編集者のこれまでの経験があったからだ。

 「あ」・「の」・「ひ」という、たった3文字と「小保方晴子」という名前を見た人々は何を考えるだろう。
「STAP細胞」を作ったと発表した会見の日、割烹着姿を撮影させた日、弁明をした日、それとも・・・・。
 「あの日」はそれぞれ読者にとって違うが、完全に小保方晴子の「記号」として機能していることは確かだ。これほどシンプルで、分かりやすく、読者(と言うかこれから「読もうかな」と思っている人)の好奇心を惹起させる言葉は他にないだろう。

言われてみれば「なるほどね」というタイトルはいろいろある。しかしそれはコロンブスの卵だ。最初に考えた人はエライ。
かつて(少しの経験だけど)、テレビ番組のタイトルを考えたことのある経験から言うと、1行のコメントを考えるのも大変だけど、タイトルをどうつけるかは一番の悩みどころだった。
久々に目に触れた「ヒット作」だと思う。

編集者に拍手!

かつて政治の世界で、小泉首相などが、短い言葉でシンプルに訴えかけることが流行った時代があった。今もそれは続いているのかもしれない。しかし政治ではそれは、反知性的であり、大衆操作的で、うさんくささを感じる。政治は丁寧な説明と説得性、納得性が必要な世界だからだ。
それと書籍のタイトルを一緒にしてはいけない。

最近読んだ本で「タイトル」がイカすのはあとは、「生きて帰ってきた男」「ゆっくり いそげ」かな。

2016年2月11日木曜日

書籍の“価値”について考える




岩波新書
●渡辺靖「<文化>を捉え直す 864円。
●小熊英二「生きて帰ってきた男 1080円
●原武史「『和天皇実録』を読む」780円

ここ半年の間に読んだ岩波新書は、ジャンルは違えどどれも価値ある「良書」だ。著書の方々のような明晰な頭脳はない私のような「読者」でも、一定の知識を得、物事を“深く”考えることに導いてくれる。ありていに言えば、どれも「読み応え」のある本だった。

 もっとも、この3人の著書は特別かもしれない。持続的にすばらしい著書を出している、日本の、いや「人類の」と言っても過言ではない「知識人」の人たちだからだ。
その著書が「新書」という形で読者に届けられている。しかし、どれも「安価」だ。
内容から言ったらこの値段では申し訳ないくらいだ。

「インターネットはタダ」「そこから何でも知識が得られる」と思っている安直な人々から見れば、書籍の価値など考えてもみないのかもしれない。この価格でも「納得」できないのかもしれない。
本(情報)の価値は人によってとらえ方は違う、一概に比較するのは意味がないと言わてしまえばそれまでだけど、世の中には一定の「共通価値」があるという前提で個人的主観として以下を論ずる。(論ずるというほどの内容でないけど)

良書(「良書」という言い方は、なんだか「PTAご推薦」のようなきな臭い感じがするのであまり使いたくないけど、価値ある本という意味で使っている。)は、広く読まれる“べき”であり、そのために安価な価格で提供される“べき”という考えに立つなら、この価格が妥当なのかもしれない。

だから、いくらなら妥当かということに意味はなく、出版社は販売部数の予想など市場の動向を見ながら、その妥当な価格を決めているのだろう。

一方、最近、タイトルに魅かれて図書館で借りて「見た」本が下の2つである。




















●小倉広「アドラーに学ぶ職場コミュニケーションの心理学」日経BP 1400円
●できる男は超小食   主婦の友社 1200円

広い意味での「人事」と「ダイエット」は興味分野だけど、とてもこの値段を出して買う気にはならない。図書館で順番を待って借りた。実際、貸し出しでは人気で、1か月以上待った。

▼「アドラーに学ぶ・・」
著者が傾倒するアドラー心理学に則した、いわゆるハウツー本。ところどころにアドラー心理学のエッセンスが記されているが、かれはアドラーの一次研究者ではなく、おそらく様々なアドラー解説本から内容を「引用」したにすぎないだろう。しかし巻末に「参考文献」は記されていなかった。
内容の大半は、どこかで彼が書いたかまたは別の人のよくある、ハウツーにすぎない。
ほとんど斜め読みで「理解」可能で、1時間もあれば読んで余りある。悪いけどこんな本をお金を出して買う「サラリーマン」はかわいそうだ。騙されているとも言える。図書館も公費を使って購入する書籍なんだろうか。借りといて文句を言うのもなんだけど。

▼「できる男は超小食・・・」この著者は他にも「生き残る男は細マッチョ」という同じような本を著している。内容は、要するに食べ過ぎるな、適度な運動が必要だという健康の基本を極論的に述べているだけだ。面白いことに彼の主張は「アドラーに学ぶ」に出てくる「認知バイアス」のお手本のようなところがある。つまり自分の考えに都合のいい事例を取り上げてつまみ食いして書いている。牛乳を最悪の食品として書いているのはその典型だ。食品には良い面と悪い面の両方があるだろう。その一方だけを取り上げて避難するという、詐欺師的論述にほかならない。

話が本題の「書籍の価値」ということから、いささかずれた。
しかしなぜ、内容の薄っぺらなトンデモ本が1200円や1400円で売られ、内容のある価値ある本が安価なのか、理解することが難しい。世の中それで経済が回っているのが不思議だ。

別に、価値ある本をもっと高くして売れと主張している訳ではない。これだけの内容のある本を安く手に入れられることは、読者として有り難いことだ。しかし著書の立場にたては、これだけの内容の本を書いたのだからそれなりの報酬を得られるようにすることが必要だろう。そのことが次の執筆につながっていく。

この項は書いていて、自分が何が言いたいのかだんだん分からなくなってきた。
ただ、上記の岩波新書の著書の方々にお礼を言いたかっただけかもしれない。
もう終わりにしよう。

追記:
自分でもスッキリしないのでもう少し満員の山手線の中で考えた。
市場価値としてどういう値段で売られていても、まあそれはいいとして、これを公立の図書館に入れるとなると別問題じゃないかなと思い到った。

内容のうすっぺらな本を「高値」で購入するのは、だれがどういう基準で選んでいるのか、当然問われてしかるべきた。税金という「公金」で運営されているのだから。
岩波新書、上の3冊分の値段で、下のトンデモ本は2冊。

図書館のありかたそのもに関わってくるけど、公立図書館としてはどちらを購入するかは、よく考えた方がいい。二者択一の問題ではないというだろうが、そうではない。選書のありかたそのもにつながる大事なことだ。と、思うけど。






















1080円 864円

2015年9月3日木曜日

「無駄」とどう向き合うか。西成活裕さんの著書から考える。


世の中、突き詰めると、「『無駄』」をどうするか」のために生きているような気がする。
 カイシャでは経費節減、業務の効率化、経営資源の有効活用などという言い方で、日々「無駄」と闘うことが日常業務だ。ヘタすると、社会的価値を生み出すという企業本来の目的がどこかに消えて、無駄をなくすこと自体が目的になってしまった錯覚に陥りかねない。

 ともあれ、無駄はなくしたいというのが、私生活でもあることは確かだ。ムダなお金は使いたくない。時間のムダもいやだ。日々、無意識に「無駄」と闘っている。

 なぜか、2008年刊のこの、西成さんの書籍を買って読んだ。「渋滞学」のあの人だ。夏前に新潮選書の書籍目録が新宿紀伊国屋に置いてあって、それを家のソファーに寝転がって、何かいい本なないか“物色”している時に気に留めた1冊だったからだ。
 
 もちろん「無駄」ということに、ことのほか関心があり、「合理的」であることをこのやく愛する性格も作用した。
 一読して「う~ん」とうなってしまった。「学問」と言うには、有名な「渋滞学」の域に届いていなかった。前半は「学」になろうとして言葉の定義や論理を展開し、中盤は「トヨタ生産方式」の具体的な紹介。後半は西成さんの社会に対するエッセイだった。
 
 決して内容が「無駄」だった。読んで時間を「無駄」にした、ということではない。トヨタ生産方式をこれほど具体的に読んだことはなかったし、エッセイも「無駄」という視点から、エンデの「モモ」から、「成長の限界」まで、さまざま知識人の著書が簡潔に紹介されているという点では、「無駄」を再認識するきっかけにはなった。

 でも一番印象に残った、実用的な記述は、結局「高速道路で車間距離を40メートル以下にすると渋滞が起きる。だから車間距離を詰めないことが肝要だ。」ということだったかもしれない。

 西成さんは「直観力」についても述べていて、これはこれで参考になる話だけど、直接「無駄学」とは関係ないお話だった。

断わっておくが、この書籍をけなしているのではない。とにかく最後まで読んだ。でも「渋滞学」のように後世まで残るテキストではなかったということかな。無駄について改めて深く考えるきっかけにはなったけど。


2015年8月4日火曜日

「ゆっくり、いそげ」で贈与経済を改めて“確認”する




キリスト教について詳しい訳ではないが、新約聖書の「与えよ さらば与えられん」は、何となく知っている言葉だ。
日本のことわざで言えば「情けは人のためならず」と、言ってしまってはちょっと身もふたもないけど、まあそういうことに通じる。
もう少し高尚に言えば「贈与経済」ということだろう。
「人は与えることによって得ることができる」

「ゆっくり、いそげ」は、「良い本」だ。読むと気持ちが和らぐし、この世の中捨てたもんじゃないと思うようになる。著者は、先日NHKの「news web」にコメンテーターとして出演していたが、語り口も物腰も好感のもてる、しかもアタマのよい人だった。「ゆっくり・・・」は平易でしかも確かな文体で、内容のあることを書いている。一読するに値する。
高校生の愚息に薦めた。

この中に出てくるのが舘岡康雄氏の2冊だ。さっそく図書館で借りてきた。舘岡さんは日産の「軌跡の復活劇」の渦中にいた人だ。

「世界を変えるSHIEN学」では、リザルトパラダイスからプロセスパラダイスへの変化を訴えている。
つまり簡単に言えば、管理、命令、上意下達式の経営から、みんなが考え、アイデアを出し合って、いいものを作る(いい仕事をする)という
ことだ。ちょっと内容に重複感があるが、それなりに参考にはなる。
しかし、コトはそう簡単ではない。実際、日産の復活だって、多くのリストラや下請けへのコストカット要請など、さまざまな要素がからみあって、「復活」した面もある。
単に、「社員の意識が変わって会社が甦った」と言うのはちょっと眉唾かもしれない。

ともあれ、「SHIEN」という考え方はとても重要だし、基本理念は支持したい。

「利他性の経済学」は、少し理屈っぽくて斜め読みしてやめてしまったけど。

2015年4月27日月曜日

「反知性主義」のアメリカ、あれこれ



●アメリカの反知性主義 単行本 2003/12/19
  リチャード・ホーフスタッター (), 
  田村 哲夫 (翻訳) 

この本を手にしたのは、もう10年近く前になる。
どこかの新聞の書評で読み、図書館で借りてきた。

しかし、分厚くかつ翻訳本のために、読むのに苦労した。そのうち返却期限が来たので、途中で投げ出した、ことを「覚えている」

 恥を忍んで正直に言うと、この時、アメリカに「反知性主義」という概念があることを初めて知った。

Amazonの紹介によると
「知識人とは何か、知識人は民主主義の実現に貢献する力になれるのかと問いつづけ、アメリカの知的伝統とは何かを問う、感動のノンフィクションであり、アメリカ史の古典。」

1952年、マッカーシー旋風の吹き荒れるなかで行なわれた大統領選挙は、『知性』」と『俗物』」が対立する図式となった。そして後者、すなわちアイゼンハワー=ニクソン・コンビが圧勝し、知識人も批判派も「アメリカ社会が知識人を否認した」ことを理解した」

「――『知識人階級と大衆のあいだに巨大で不健全な断絶があることが明白になった』(『タイム』)
「知識人は今後、所得税から真珠湾攻撃まで、あらゆることの罪を背負わされるだろう」(シュレジンジャー二世)

しかし著者の意図は、アメリカの精神風土をもっぱら批判断罪することではなく、知識人とは何か、知識人は民主主義の実現に貢献する力になれるのかと問いつづけて止まない。読者には、アメリカの知的伝統とは何かを逆に問う、著者の熱い思いが伝わるだろう。

感動のノンフィクションであり、アメリカ史の古典である。」と、ある。

●余談1
この書籍の翻訳者・田村哲夫は、確か渋谷教育学園の理事長だ。同学園の渋谷(通称:渋渋)や幕張にある、「渋幕」は、首都圏ではちょっと有名な、新鋭の進学校。英語教育にものすごく力を入れ、東大入学者増やしている。一度、渋谷公会堂で行われた渋渋の学校説明会に行ったことがあtる。田村の自信に満ちた物言いが結構ハナについた。公会堂の前には大きな黒塗りの車が待っていた。むかし単なる「渋谷女子高」だった学校法人を有数の進学校に育てた功績は大きいのだろうが、長く理事長を務め、王様の雰囲気だった。


さて、横道の逸れすぎたけど
ちょうどあのころ(あの頃とは80年代ということ)、アメリカの人気牧師の衛星中継を使った説教や布教活動が盛んだと、テレビのニュース企画でたびたびやっていた。そして、ダーウィンの進化論を否定する人たちが少なからずいることも、盛んに報道していた。

アメリカに、本格的に興味を持ったは、実はもっと以前のことだ。。


本多勝一の「アメリカ合州国」を読んだのは、随分前だ。高校時代だったように思う。
アマゾンで調べると、単行本の出版が1970年になっている。このブログに載せたのは文庫本だが、単行本で読んだ。中味は忘れてしまったが、アメリカの一断面をうまく切り出したルポだったと記憶している。









そして、ずいぶん時代は先に進むが、渡辺 靖さんの一連の著書はほとんど読んだ。

●アフター・アメリカ―ボストニアンの軌跡と<文化の政治学>  2004/5/15
アメリカン・コミュニティ―国家と個人が交差する場所  2007/11
アメリカン・センター―アメリカの国際文化戦略 単行本 2008/5/27
アメリカン・デモクラシーの逆説  2010/10/21
文化と外交 - パブリック・ディプロマシーの時代  2011/10/22



















渡辺さんの著作は、別にアメリカの「反知性主義」を語ったものではない。読みやすい文体で書かれた、すぐれたルポと考察だ。清濁いろいろあるであろうボストンに憧れた。

なかなか面白い
まったく毛色は違うが、「アメリカ人の半分はニューヨークの場所を知らない」も、なかなか興味深い書籍だった。

記憶の範囲で書くと、「多くのアメリカ人は一生自分の生まれた州を出たことがない」など、大衆としてのアメリカ人のローカルさがルポされていた。
数年前の「1%対99%」騒ぎでも、思ったけど、グローバルに活躍すのは、ごく限られた人だということだ。まあ「活躍」の中味はいろいろあろうが・・・。









どんどん、横道の逸れる。
で、最近の書評に出ている。
反知性主義: アメリカが生んだ「熱病」の正体 (新潮選書森本 あんり  ()
まだ手にとっていないが、興味を魅かれる書籍だ。



アメリカ人の「反知性主義」について、書いてみようとこの項を立ち上げたけど、書いても、書くべきことが湧いてこなかった。

自分の「反知性」をさらけ出しただけのブログになってしまった。
しょうがないから、内田樹さん編の最近話題の書籍も読んで
自分の中の「反知性主義」について、反省しよう。
















2013年6月20日木曜日

歩きながらのスマホ。「あぶないですよ!」は、問いかけが違う


 いわゆるスマホを見ながら、ホームやコンコースを歩く“おバカ”な人たちがあとをたたない。フツーの通勤・通学のまともな人々にとっては、(ここでは何がフツーで、なにが「まとも」かは問わないけど)、迷惑千万としか言いようがない。おそらく電鉄会社への苦情も多いに違いない。じっさいこのブログで車内マナーのことを記すと、意外なほどアクセスが多い。
東急のポスターに「あぶないですよ!」というのがある。歩きながらのスマホ操作はホームへの転落の危険があるから、おやめくださいというものだ。何よりも、乗客増を優先するこの会社でも、さすがに苦情が多いのか、こうしたポスターが作られている。(東急の体質についてはも、このブログで分析した。)
毎日通勤で、このポスターを見るたびに何か違和感を持ったのが、なぜなのかしばらく自分でも分からなかった。やっと東急も「苦情に応えて対策に乗り出した」のだが、いまひとつしっくりこない。
その答えはキャッチコピーにあった。
 「あぶないですよ!」という呼びかけは何の効果もない。なざなら、スマホを操作して歩いている人々は、「自分は大丈夫」「自分は歩きながらでもスマホができる」という、万能感を持った(愚かな人々だからだ。そうした人々に、「あなたのやっていることは、身の危険がありますよ」と呼びかけても、聞く耳をもたない。

「万能感」については、教育学者の苅谷剛彦さんが
「階層化日本と教育危機~不暴動再生産から意欲格差社会(インセンティブ・デバイト)」で、述べている。
学力のない人ほど、自分は「アタマがいい」「自分の判断は正しい」、「だから学習することはない」という万能感を持ちやすいとう分析だ。
内田樹さんも著書で、苅谷さんの著書を引用して、こうした傾向を繰り返し指摘している。
人の言うことに耳を傾けず、自分の判断が常に正しいと思う人に、「あぶないですよ」と呼びかけても何も通じない。

だからキャッチコピーは、そうではなくて「迷惑ですよ!」とすべきなのだ。
「あなたの行為は他人に多大な迷惑をかけている。やめなさい」と呼びかけなければ、彼らには通じない。これでも通じないかもしれないが、少なくとも「あぶないですよ」と彼ら自身の内面に訴えかけるより、彼らの外部に影響が出ていることを訴えることの方がマシではないかナ。

書籍などから得る情報、先達のアドバイス、また目下の者の言うことでも謙虚に耳を傾ける姿勢がない限り、人に成長はない。そのことは50を超しても「肝に銘じて」おかないと、どんどん退化するだけだ。万能感を持った人々が増え、それが「大衆」というマスになったのが、現代の病理なのだろう。しかし、そう直截的に指摘するのははばかれるので、まともな「識者」もはっきりとは言わない。
オルデカの「大衆の反逆」の中にあった一節を自戒を込めて反芻した。
「大衆的なるものは、社会階層の低い人だけでなく、知識人の心の中にも宿っている」ことを。具体的言い回しは忘れたが意味としてはこういうことだったと思う。

スマホの「ながら歩き」をする人たちは、周囲にどんな影響を及ぼしているか、気が付かないという意味では、幼い子どもだ。
「坊ちゃん、お嬢ちゃん。歩く時はおもちゃはしまってネ」と言うのが一番だろう。




2012年7月30日月曜日

暑い盛りに、丸山真男、熱い「日本の思想」を読む

子どもは夏休み。仕事をする気分もなんとなく休みモードのスイッチが半分入って、身が入らない。通勤時に読む新書も、ここのところあまり、コレっと言ったものが見つけられない。
書評でもって目をつけいたものを書店でパラパラめくってみるけど、どうしても「ヨシ、買って読もう」とならないものばかりで、少々困っていた。そんな「お悩み」の時に思い出したのが、半年ほど前に買っておいた丸山真男「日本の思想」(岩波新書)だった。

実は「日本の思想」を読むのは2度目である。もう30年前、学生時代に買って読んだ。と、言うとウソになろう。読み始めたものの途中で挫折したからだ。最期まで読み切ることがなかったと記憶している。正直なところ。

この新書はフォント(古いので写植と言いた方がいいのかもしれない)のポイントが小さい。老眼には慣れるまでけっこうきつい。それも電車での立ち読みには。それでも学生時代に読み切れなかった「後ろめたさ」から読み始めた。
もっとも学生時代に読み切ったとしても、それは、内容を理解せず、ただ文字を追っただけに終わっていたかもしれない。

今回はともかくも読み切った。そしてある程度内容を「理解」できた。たぶん。
丸山真男の思想は、50年たっても古くならず、今の時代でも十二分に通用する論理であった。いま忘れないように、<メモ>をまとめている。

この新書の奥付きをみると、なんと初版は1961年11月20日。購入したものは93刷、2011年5月16日だ。あとがきをみると「日本の思想」の初出は、1957年(昭和32年)11月の「岩波講座『現代思想』の第11巻「現代日本の思想」所収とある。

半世紀以上たった、いわば「古典」だが、ちっとも古典ではない。今月の総合雑誌のこの文書が載ってもちっとも違和感がないと言えるほど、新鮮だった。

「古典」は、古典として読む時、ふつう読者は、ある程度その著書が書かれた時代背景を頭に入れながら読む。しかし「日本の思想」は、その頭の作業がなくても読める。もちろん1960年代の時代背景-終戦からまだ15年程しかたっていない時期であり、高度成長の萌芽の時期、60年アンポという政治の季節であることなど-を知っていればより理解は深まるが、いまの政治状況、社会状況しか知らなくても読める。

試しに14歳の愚息に一節を読ませた。(続く・・・)