出羽の国の名峰・鳥海山の八合目付近から見渡した庄内平野とその向こうの日本海。我が人生もこのくらい見通せたらどんな気分なのだろうか。 一生を400㍍走に例えると50代はちょうど第3コーナーあたりかもしれない。 一番息苦しくなり、足が重くなっているところを耐えて走っている。 第3コーナーでは前を見てもまだゴールは見えない。レーズ全体をイメージするのが難しい。 第1コーナー、10代・20代のころは、わずか10年先さえも想像できなかった。 いつも未知の世界に向かって走ってきた。 バックストレッチの30代・40代は様々な制約の中でも、少し自分のペースをつかみながら前に進んだ。 第3コーナーのカーブに入ったいまはどうか。まっすぐ前を見ているだけでは、自分の立ち位置は見えてこない。体を傾けたままうまく周囲を観察しなければならない。50代、「いまだ天命を知らず」である。第3コーナーを抜け出し、最後の直線に入った時、そこにはどんな光景が待ち受けているのだろうか。その時どう身を処すればいいのだろうか。考えるしかない。 再レースはないのだから。
2013年6月20日木曜日
歩きながらのスマホ。「あぶないですよ!」は、問いかけが違う
いわゆるスマホを見ながら、ホームやコンコースを歩く“おバカ”な人たちがあとをたたない。フツーの通勤・通学のまともな人々にとっては、(ここでは何がフツーで、なにが「まとも」かは問わないけど)、迷惑千万としか言いようがない。おそらく電鉄会社への苦情も多いに違いない。じっさいこのブログで車内マナーのことを記すと、意外なほどアクセスが多い。
東急のポスターに「あぶないですよ!」というのがある。歩きながらのスマホ操作はホームへの転落の危険があるから、おやめくださいというものだ。何よりも、乗客増を優先するこの会社でも、さすがに苦情が多いのか、こうしたポスターが作られている。(東急の体質についてはも、このブログで分析した。)
毎日通勤で、このポスターを見るたびに何か違和感を持ったのが、なぜなのかしばらく自分でも分からなかった。やっと東急も「苦情に応えて対策に乗り出した」のだが、いまひとつしっくりこない。
その答えはキャッチコピーにあった。
「あぶないですよ!」という呼びかけは何の効果もない。なざなら、スマホを操作して歩いている人々は、「自分は大丈夫」「自分は歩きながらでもスマホができる」という、万能感を持った(愚かな人々だからだ。そうした人々に、「あなたのやっていることは、身の危険がありますよ」と呼びかけても、聞く耳をもたない。
「万能感」については、教育学者の苅谷剛彦さんが
「階層化日本と教育危機~不暴動再生産から意欲格差社会(インセンティブ・デバイト)」で、述べている。
学力のない人ほど、自分は「アタマがいい」「自分の判断は正しい」、「だから学習することはない」という万能感を持ちやすいとう分析だ。
内田樹さんも著書で、苅谷さんの著書を引用して、こうした傾向を繰り返し指摘している。
人の言うことに耳を傾けず、自分の判断が常に正しいと思う人に、「あぶないですよ」と呼びかけても何も通じない。
だからキャッチコピーは、そうではなくて「迷惑ですよ!」とすべきなのだ。
「あなたの行為は他人に多大な迷惑をかけている。やめなさい」と呼びかけなければ、彼らには通じない。これでも通じないかもしれないが、少なくとも「あぶないですよ」と彼ら自身の内面に訴えかけるより、彼らの外部に影響が出ていることを訴えることの方がマシではないかナ。
書籍などから得る情報、先達のアドバイス、また目下の者の言うことでも謙虚に耳を傾ける姿勢がない限り、人に成長はない。そのことは50を超しても「肝に銘じて」おかないと、どんどん退化するだけだ。万能感を持った人々が増え、それが「大衆」というマスになったのが、現代の病理なのだろう。しかし、そう直截的に指摘するのははばかれるので、まともな「識者」もはっきりとは言わない。
オルデカの「大衆の反逆」の中にあった一節を自戒を込めて反芻した。
「大衆的なるものは、社会階層の低い人だけでなく、知識人の心の中にも宿っている」ことを。具体的言い回しは忘れたが意味としてはこういうことだったと思う。
スマホの「ながら歩き」をする人たちは、周囲にどんな影響を及ぼしているか、気が付かないという意味では、幼い子どもだ。
「坊ちゃん、お嬢ちゃん。歩く時はおもちゃはしまってネ」と言うのが一番だろう。
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