2012年7月31日火曜日

100m平泳ぎ、北島に「完敗」はないだろう 無神経な新聞

ロンドン五輪 男子100m平泳ぎで5位に“入った”北島。7月30日夕刊各紙は「完敗」と伝えた。

新聞見出しは罪深い。
●朝日:北島完敗 世界と差、泳ぎに迷い もがく北島、右肩に違和感「バランス一気に崩れた」、「超高速」の潮流乗れず、等々

●毎日:北島完敗5位、最後の微調整失敗、北島終盤に失速、「泳ぎかみ合わぬ」等々

●読売:北島伸びず完敗、泳ぎに迷い「五輪は難しい」、ライバルの訃報 心に穴 等々

●東京:北島100平は5位、「自身持てる所なかった」、高速化の波 北島のむ 等々

朝日新聞

朝毎読東を見比べると(サンケイは夕刊がないので除外した)、東京以外は「完敗」という表現を使っている。

確かに前の金メダリストなのだから、5位は「完敗」なのかもしれない。

しかし、勝手に事前に3連覇だとか、偉業にっ向かってとか「期待」ばかりしておいて、失敗する奈落の底へ落とすような表現になるのはどうかなんですかね。

読売新聞
こういうのを「手のひらを返したように」というのだろう。マスコミの悪いところだ。その点東京新聞が一番冷静に伝えていた。見出しとしては。

北島は1982年9月生まれなので、いま29歳。もうすぐ30歳だ。トップスイマーとしてここまでやってこれたこと自体、賞賛に値するだろう。かつてこのブログで「年齢との戦いに勝った北島」と書いたが、五輪という大舞台では力及ばなかった。でもそれは責められることではないだろう。調整の失敗とか、心にスキとかもっともらしい理由は後出しジャンケンならだれでも言える。

毎日新聞
「完敗」と書く神経にはカチンとくる。プロスイマーで自身も金を狙うと言っていたので、どんな批判を浴びせてもいいとでもいうのだろうか。

毎日は、「年齢が原因なのか」、「決勝8人の平均年齢は25.75歳。複雑なテクニックが要求される平泳ぎは他の種目に比べ、若さや勢いだけでは勝てない。」と書き、29歳という年齢が理由ではないと言いたいらしい。この記事の見出しは「最後の微調整 失敗」だと。あまりに酷な言い方ではないか。「狙いは金以外にはない。苦しみながら攻め、そして敗れた」(読売)というのが、まともな見方だ。

高速化の問題を詳報していたのは東京だった。朝日も見出しの割には、高速化の問題をよく書き込んでいた。高速化とは、前半50mを「パワフルに突っ込み、後半を高い運動能力でなんとか維持する泳ぎ」(朝日)のことだ。要するにテクニックより力強さで勝負ということだろう。こうした作戦は
去年の世界選手権で優勝したダーレンオーエン(ノルウェー)が取り入れて、100m平の潮流になった。という。東京は、それをわかりやすいイラストで説明していた。(これは共同の記事だ)

東京新聞 共同配信の記事
朝日や東京(共同)の記事を読むと、平泳ぎは去年からすでにパワースイムに変わっていて、テクニックとパワーの両者を備えなければ勝てなくなっていたことがわかる。

優勝したファンデルバーグは北京五輪後、平井コーチのもとを訪れ、指導を仰いだという。24歳、身長184cmの彼がテクニックを身に付けたパワースイムをすれば、身長177cm(五輪前の公式発表)の北島が勝つのは難しいことは、容易に想像がつく。

これまで体格差をテクニックで補ってきた北島。負けても賞賛に値すると私は思う。

彼はロボットでも操り人形でもない。北京五輪後、悩みながらの自分で泳ぎと向き合ってきた姿勢は人として当然のことだ。
(平井コーチのもとを去ったことが敗因という日刊ゲンダイなんかは論外だ。イエロージャーナリズムの最たるものだろう。)

東京(共同配信)

地下鉄の考現学② 浅草線にみる「民度」

浅草線の乗客はマナーが悪い。通勤に都営地下鉄を使うようになって感じた、率直な印象だ。東急線(池上線)と都営浅草線、都営三田線の3線を利用するようになって、浅草線利用者の「民度」の低さを感じている。同じ都営地下鉄でも、三田線より浅草線の方が「悪い」とも感じる。
「それはなぜか」を毎日通勤時に少し考えた。単なる「偏見による思い過ごし」なのか、「根拠ある傾向」なのか」

○よく言われる(それが正しい認識なのかどうかの判断は各々に任せるけど)、モラルの意識が比較的高い山の手を走る電車と雑多な方々が多い下町を走る電車の違い。これは、科学的に証明は難しいだろう。乗客一人ひとりの「民度」を測ることはできないので、実際そうだとしても「印象論」を超えることはできない。

そこで、具体的な事実に即して考えてみた。

これはホームでのマナーポスターですけど

○電鉄会社に「モラル向上」の意識があるかどうか

▼東急線は、まがりなりにも乗車マナーについて、たびたびアナウンスしている。(それが実効性があるかどうか、またどれだけ本気度があるかどうかは以前、「東急電鉄という体質」として批判文書を書いたけど)。おそらく乗客からのクレームが多いからだと思う。東急独自のマナー向上ポスターも駅構内には張ってある。(掲載写真は、スマホに夢中のバカと泥酔者向けのものですけど)

都営地下鉄ではモラル向上のアナウンスは聞いたことがないしポスターも見たことがない。唯一見たのは、「駆け込み乗車はおやめください」というもの。電車の定時運行しかアタマにないことが伺える。
都営地下鉄の職員は「公務員」。乗客へのサービスのインセンティブが機能する組織ではない。乗客を乗せてやっていると意識なのだろう。
都交通局のweb site を見ると、「サービス向上を目指して」という項目があり、過去4年間の「改善事例」が写真入りで掲載されている。しかしマナーに関する「改善」や啓蒙(この言葉はキライだけとあえて使います)の事例はまったくない。
○相互乗り入れ線の違い

▼浅草線は、西は京急、北は京成電鉄や北総線などと直通運転をしている。電車内の広告を見ると、東急単独線とは明らかに違う傾向が見てとれる。なぜだか、東京下町、千葉方面の広告が多い。

▼三田線は東急目黒線と相互乗り入れている。(目黒線は、南北線経由で埼玉高速鉄道とも接続している。)三田線の乗客は、“マナー向上”にセンシティブな東急の影響を受けている。だから浅草線より三田線の方がマシに感じるのではないか。ただし、京急や京成がどういう対応をとっているのかは調べていないので論拠は弱いかもしれない。

電車の車両の構造的な問題。
浅草線の車内 netより引用
混雑した電車で一番アタマに来るのは、扉の脇に突っ立っていて、乗降の邪魔になる輩だ。
「ここは私の場所ヨ」と言わんばかりに占領して、乗降客の妨げになっていることに頭が回らないバカは意外に多い。

これは、東急でも山手線でも営団でも、もちろん都営地下鉄でも一様に見られる。ではなぜ都営地下鉄はマナーが悪い乗客が多いという印象があると考えた時、扉と座席の配置の構造上の問題に行き当たった。

浅草線の車両、特に古いものは、扉と脇の座席の間に余裕がない。座席の横の仕切りからすぐ扉だ。ここにバカが立ったままだと、乗降時にひとひとり分のスペースが失われ、乗り降りが非常に非効率になる。いわゆるボトルネック状態だ。

京急、京成と相互乗り入れし、どの車両がどの会社のものか、また新旧さまざまな車両があるので一概には言えないが、浅草線を走る車両はドアと座席の間に余裕がない構造が多いようだ。だからヒトがひとり扉の所に立つだけで大変な妨げになる。

一方、以前乗っていたた山手線や東急池上線の新車両は、座席と扉の間に2,30センチの余裕があるものがある。そういう構造だと、ここにヒトが立ってても、乗降時、扉が開いた時、それほど妨げにならない。乗り降りが比較的スムーズに行われる。

この違いが、「浅草線の乗客はマナーが悪い」という印象をもたらしているのだろう。車両の構造は日々工夫されて新しいものだ次々出てきている。乗客側から見ると、座席の構造が一番「改良」されているように思う。ロングシートの間にポールを立てたり、座席の色を変えたりして、ひとりで2人分の座席を占拠しないような工夫や、最近ではJR東日本が開発した「足を組ませない」座席もある。まだ実際に見たことはないけど。

それに比して、扉と座席位置の構造に、工夫がある車両はあまりない。比較的新しい車両でも扉のすぐ脇まで座席を配置しているものもある。一定の座席数の確保や扉位置を変えるのがホームドアとの関係で難しいなど、いろいろ事情もあろう。

しかし、乗降をスムーズにすることは、乗客のイライラを解消するだけでなく、乗降時間の短縮にも貢献し、「定時運行」にも利することだろう。

利用者のことなど考える“余裕”も“気持ち”もない都営地下鉄の職員さん。マナー向上への取り組みは定時運行にもなることを、ちょっとは考えたらどうかね。

2012年7月30日月曜日

暑い盛りに、丸山真男、熱い「日本の思想」を読む

子どもは夏休み。仕事をする気分もなんとなく休みモードのスイッチが半分入って、身が入らない。通勤時に読む新書も、ここのところあまり、コレっと言ったものが見つけられない。
書評でもって目をつけいたものを書店でパラパラめくってみるけど、どうしても「ヨシ、買って読もう」とならないものばかりで、少々困っていた。そんな「お悩み」の時に思い出したのが、半年ほど前に買っておいた丸山真男「日本の思想」(岩波新書)だった。

実は「日本の思想」を読むのは2度目である。もう30年前、学生時代に買って読んだ。と、言うとウソになろう。読み始めたものの途中で挫折したからだ。最期まで読み切ることがなかったと記憶している。正直なところ。

この新書はフォント(古いので写植と言いた方がいいのかもしれない)のポイントが小さい。老眼には慣れるまでけっこうきつい。それも電車での立ち読みには。それでも学生時代に読み切れなかった「後ろめたさ」から読み始めた。
もっとも学生時代に読み切ったとしても、それは、内容を理解せず、ただ文字を追っただけに終わっていたかもしれない。

今回はともかくも読み切った。そしてある程度内容を「理解」できた。たぶん。
丸山真男の思想は、50年たっても古くならず、今の時代でも十二分に通用する論理であった。いま忘れないように、<メモ>をまとめている。

この新書の奥付きをみると、なんと初版は1961年11月20日。購入したものは93刷、2011年5月16日だ。あとがきをみると「日本の思想」の初出は、1957年(昭和32年)11月の「岩波講座『現代思想』の第11巻「現代日本の思想」所収とある。

半世紀以上たった、いわば「古典」だが、ちっとも古典ではない。今月の総合雑誌のこの文書が載ってもちっとも違和感がないと言えるほど、新鮮だった。

「古典」は、古典として読む時、ふつう読者は、ある程度その著書が書かれた時代背景を頭に入れながら読む。しかし「日本の思想」は、その頭の作業がなくても読める。もちろん1960年代の時代背景-終戦からまだ15年程しかたっていない時期であり、高度成長の萌芽の時期、60年アンポという政治の季節であることなど-を知っていればより理解は深まるが、いまの政治状況、社会状況しか知らなくても読める。

試しに14歳の愚息に一節を読ませた。(続く・・・)

2012年7月29日日曜日

「本当のこと」を言うと批判される社会。原発聴取会に見る日本人のメンタリティー

7月17日 朝日新聞より引用
野田首相が、「消費税はもっとも公平な税」だと言ったら“批判”されたという記事を紹介した。
湯浅誠さんが、総理府の参与を辞任するに際して綴ったブログで、市民運動側の縦割りの問題点を指摘したら、市民運動の一部の人々が湯浅さんを“批判”したという。

 2030年のエネルギーの原発比率を決める、住民参加の公聴会で、中部電力の社員が個人として参加して、福島第一原発の事故では「放射能による一人の死者もまた、重篤な放射線障害の被害者も出ていない」と言ったら、反原発の方々から“批判”された。
どれも、言った(書いた)ことへの論理的“反論”ではなく、“批判”をしているだけだ。(少なくともそのように見える)。
これって、やっぱりおかしくないか。

「あなたの言っていることは、論理的にこれこれの矛盾がある。論旨の進め方の欠陥がある。また事実認識に間違いがある」という「反論」であれば、それはスジの通ったことであり、言った方とある意味で「対話」が成立して、発展的論争ができよう。
しかし、(単に)批判することは、感情的な反発でしかない。自分の気に食わないことは、とりあえず批判しておく。そうすることによって自分の「面目をどうにか保ち」、「立ち位置を改めて確認」するだけの、いやしい行為でしかない。
本当にイヤな世の中である。日本人のメンタリティーは底が浅い。
同様のとりあえずの“批判”は、けっこう様々なところにある。政治家の伝えられる言動は、こうしたことは日常茶飯事だし、新聞や雑誌、民間放送の(底の浅い無能な)アンカーマンもしかりだ。

この際、もう一度確認しておこう。
消費税は、所得が完全には把握できない状況では「もっとも公平な税」であることは論を待たない。
消費税が高いと低所得者に負担が大きいというのは、だれでもわかるし、そのことを否定しようとは思わない。ものごとは「正しいし事実把握」からでしか「最適解」は導きだせない。消費税は公平な税だという認識をまず市民が持つことが、「税と社会保障改革」の第一歩であろう。
先日、新橋のそば屋で昼飯を食べていたら、ビジネス客が「領収証」をもらっていっていた。店の方もヒルメシ時の領収書の発行も手慣れたもののようだった。つまりここから「連想」できるのは、経費で落とせる法人企業(主に中小だろう)では自分たちのメシ代も経費にしていく。ちりもつもれば結構な額になろう。そして法人は「経費がかかり赤字」となり、法人税を払わなくて済む。という構図だ。実際法人の3分の2は「赤字」で「法人税」を払っていない。それでカイシャがつぶれないのはなぜか。ちょっと考えれば小学生でもわかる「社会の仕組み」だ。所得に課税するのはどんな制度をつくろうとも絶対に公平にはならない。

「原発による放射能で死亡した人はいないし、重篤な放射線障害を起こした人もいない。」これは「反原発の不都合な真実」(新潮新書)でもはっきり書かれている「周知の事実」だ。それを言うことがなぜ批判されるのか。感情的反発以外のなにものでもない。もちろん原発の放射能汚染で、土地を奪われ、避難を余儀なくされる方々への「配慮」をする必要がないと言っているのではない。気持に寄り添うことは「日常の言動」では自然なことだ。そんな気遣いは、これも小学生でも分かる。
しかし「原発の比率を考える」ための「真面目な議論」をする「データ」として出すことに、なぜ反発するのか。まともな議論をしようという姿勢とはとても思えない。やはり「反原発派」は宗教化されていると思えてしまうのは、こういうところだ。

事実に基づいた、論理的で真摯な議論をさまたげることに何のためらいも持たない人々や一部のメディア。やはり日本はダメな国なんだな。

2012年7月23日月曜日

「葬式ごっこ」から26年。いじめはなぜ繰り返されるのか

図書館で借りました
大津市の「自殺の練習」いじめ。この報道を見て思い出したのが「葬式ごっこ」だった。
調べてみてすでに26年も前、四半世紀もたっていたのかと、驚く。

1986年東京・中野区立富士見中学校の2年男子生徒が、父親の故郷である盛岡で首を吊って自殺した「事件」である。この生徒は学校でいじめを受けていて、その最たるものが、「葬式ごっこ」だった。このいじめ遊びにはなんと担任教師ら教員も“加担”していたことだ。「追悼の寄せ書き」に書き込んでいた。
また生徒に事件後「口止め」をしていたことも発覚した。
興味ある人は、 web site で調べてみてほしい。
また 朝日新聞の記者 豊田充氏がこの事件に関して本を出し続けている。


2007年 豊田充著(朝日新聞社)

●葬式ごっこ (1986年)
●「葬式ごっこ」8年目の証言 (1994年)
●いじめはなぜ防げないのか「葬式ごっこ」から21年 (2007年)






これも図書館で借りました
構図は26年前も今回の大津の場合も同じだろう。
何も状況は変わっていない。
▼ダメな教師(教師がみんなダメだと言っているのではない)
いじめを把握できない、なくせない力量不足。むしろいじめを助長するような言動。そしていったん発覚すると、隠蔽体質。どうしようもない硬直した教育委員会。
▼ストレスをいじめて発散する子供たち。これはまったく変わらない。

なぜこれほど「変わらない」「変えられない」のか。考えていかなければならない。
とりあえず、「葬式ごっこ」の紹介まで




(7月27日 追記)

内田樹氏は、AERA(8月2日号)の巻頭コラム「『いじめ』がもたらす本当のリスク」で、
反論も反撃もできない人間をじりじり追い詰めることから嗜虐的な快感を引き出している人間」や「大学に怒鳴り音できたクレーマー親たち」の「表情はみな同じ」であり、こう書いている。

8月2日付 AERAより「引用」
「『いじめ』は精神的に未熟な人の固有の現象である。だから年齢とはかかわりがない。彼らは自分とともに集団を構成している同胞(とりわけ弱い同胞)たちのパフォーマンスをどうやって向上させて「集団として生き延びるか」という問題意識がない。彼らにとって喫緊の問題は、どうやって「隣にいる人間が享受しているパイ」を奪い取るか、どうやって同じグループの他のメンバーを無力化するかなのである。そうすれば「自分のパイの取り分」が増えると彼らは信じている。 だが構成員中の「無力な人間」の比率が上がるほど、『集団ごと』」淘汰されるリスクが増えるのでは・・・と不安になることが彼らにはないのだろうか。 」と。


いじめは年齢に関係なく起きる。ただ大人の場合はいじめられた側が「逃れる術」を知っていることが多いので、そんなに問題にならない。子どもは逃れられないから自分を追い込んで自殺に向かってしまう。そしていじめる人間は「精神的に未熟」なのは間違いないだろう。


だから彼らに、指導的立場にある者(多くは先生かもしれない)が「いじめはいけないことです」と繰り返しても、精神的未熟者には通じない。やっかいだ。


精神的未熟者は、一言でいうと「弱い人間」だ。だからたいへい徒党を組む。いじめはふつう集団で行う。そして自分より弱い人間を作ることによって、自らの「レゾンデートル」を保つのだろう。



7月26日 朝日新聞より「引用」
森達也氏は、こう書く(7月26日 朝日新聞)


「イジメとは抵抗できない誰かを大勢でたたくこと。孤立する誰かをさらに追い詰めること。ならば気づかなければならない。日本社会全体がそうなりかけている。この背景には厳罰化の流れがある。善悪二分化。だから自分は正義となる。 日本ではオウム、世界では911をきっかけにして。自己防衛意識と厳罰化は大きな潮流となった。」と。

大人世界に「いじめ」が蔓延している以上、子どものいじめをなくすことなどできないだろう。悲しいけれど。

森氏はこの論考で、77人を殺害した去年7月のノルウェーのレロ事件について、当時の法相の言葉を紹介している。
(ノルウェー元法相クルート・ストールベル)は 「ほとんどの犯罪には3つの要因がある。 ①幼年期の愛情不足 ②成長期の教育不足 ③現在の貧困 ならば犯罪者に対して行うべきは苦しみを与えることではなく、その不足を補うことである」と。


ここにはいじめ防止へのヒントがあろう。いじめる側は内田氏の言う「精神的な未熟者」だろうが
それを違う言い方で表せば「何らかのトラウマを持った者」とも言える。愛情に飢え、そして成長期に「教育」に対して劣等感を持つ。そして貧困もある意味で世間への劣等感だろう。
彼らを救うのは、それこそ「その不足を補うこと」しかない。


※大津のいじめ自殺では、“主犯格”の少年は「成績優秀」と言われていた。(週刊誌などの情報です。)でもその「優秀さ」ゆえの優越感が、どこかで裏返っていたといえるのではないか。




















AERAの8月2日号の「いじめ」の特集には、ヒントになる話しが載っていた。
8月2日AERAより
同級生の持ち物を隠す児童の「いいところ」を探し、生き物と絵が好きなことを聞き、クラスの「生き物係」にし、絵画コンクールに応募させたところ、自信を持ち、持ち物隠しはなくなったという。

このエピソードは、小学生だから「通用」した手立てかもしれないが、
森氏の論考で紹介した「不足したものを補う」ことにほかならない、有効なやり方だったことはだれしも同意できるだろう。





8月2日AERAより
もうひとつのエピソードは、「子どもたちのきずなや学校への関心を再々する仕掛けを用意できるかどうかがカギ」だとし、学級崩壊状態にあった中学1年で、「クラスを班分けし、班員の問題行動に対して班で責任で予防・対処するよう促した」と言う。「帰りの会でその日の成果を出させ、学級便りも毎日出した。」すると「ちゃんと授業を受けることへの競い合う気持ち芽生え、『荒れ』が次第に収まった」という。

これを読んで、原武史さんの名著、「滝山コミューン1974」に出てくる、「ちからのある学級運動」(という名称だったと思います)を、思いだしてしまった。これは、70年代の一時期、一部地域で盛んに行われた「左翼的学級経営の運動」なのだが、学級崩壊の回復で班のチカラ、つまり連帯責任制が、はたしていいのかどうかは、私には分からない。
ともかくも、こういうエピソードだとしか言えません。



滝山コミューン1974

●滝山コミューン1974
こお5,6年で最も「面白い」と思った書籍だ。原さんと同世代なので、書いてあることを
リアリティを持って読めたこともあるが、あの70年代の「公立の小学校」のマインドが
本当によく描かれている。原さんの記憶力には驚かされる。

また、単に「ちからのある学級」のことだけでなく、原さんの受験体験や鉄道体験もよく描かれていて、興味深い。
昭和30年代生まれの方は、ぜひご一読を。文庫判も出たみたいです。












(続く)

2012年7月21日土曜日

不「可視化」されるということ。地下鉄の考現学①

勤務地が変わり、これまで山手線を使っていたのが、地下鉄通勤になった。地下鉄は場所によっては奥深くて階段や通路が長く、慣れるまで少々「疲れ」を感じてしまった。
しかし、その疲れとは単に距離は高低差の疲れだけではないことに気付いた。

それは、地下、つまり外の景色が見えないところを移動することによる、視覚的、精神的疲れなのだ。それまで私鉄(東急線)のところどころには地下化されているところがあるものの、基本的に地上を走る路線を使い、そして山手線という、だいたい一段高いところを走る(山手線には踏み切りがない)電車に乗って移動していた。その違いの大きさは予想以上のものだった。

これまで毎日、目を凝らして外の風景を見ていた訳ではない。本を開くのが億劫な時、疲れた時、そして混雑していて本を開けない時に、“何気なく”見ていた風景は、記憶のどこかに刻まれていたのだろう。その「変わらなさ」も「変化」もすべて。つまれ景色は常に「可視化」されていた。

可視化されていることが「移動」の認識を頭に刻み、移動に違和感がなかったのだ。
ところが地下鉄を使うようになって、わずか数駅、2線乗り継いでも15分足らずの時間にもかかわらず、移動したことに「違和感」を覚え、それは奇妙な「疲れ」になっていた。

ちょっと大げさに言えば、タイムマシンでワープした感覚なのかもしれない。(その昔「タイムトンネル」というアメリカのテレビ番組があり、時々見た記憶がある。歴史の学習にもなりちょっと面白かった。)

しかし、半年も通えば、地下鉄による移動に慣れ、「違和感」はなくなっていくのだろう。人間の慣れとはそういうものであり、慣れなければストレスばかり溜まってしまう。

でも、移動の景色が可視化されてないことはどういうことなのか、考えてみたい。

原武史さんの著書で、「皇居前広場」というのがある。
すぐに取り出せないので、記憶の限りで書くと、
二重橋に現れる白馬に乗った昭和天皇は皇居前広場に集まった民衆によって可視化されたことや
アジア太平洋戦争後、皇居前場では大規模な民衆の集会(デモ)が行われたこと。
いわゆる「血のメーデー事件」も、ここで起こったこと。
そして皇居前広場での集会がGHQによって禁止され、それ以後民衆の催しに使われなくなったことなどが記されていたと思う。
この著書だったかどうか忘れてしまったが、都電がまだ日比谷通りや内堀通りを通っていたころは、大衆に皇居前広場が、可視化されていて、その“奥”二重橋、そしてその“奥”の天皇の存在も、
(二重橋に立つことは滅多になかったが)ある意味で可視化されていたという。
しかし都電という路面電車が地下鉄にとって代わられ、
皇居前広場が民衆に可視化だれなくなった。それは歴史のひとつのターニングポイントだと指摘していた。
原さんは、終戦やオイルショックやバブル崩壊といった、よく言われる歴史の転換点とは違って視点で、節目をとらえていて、非常に興味を持って読んだことを覚えている。




ありていに言えば、可視化されないことは、脳に認識されないということであり、つまるところ「関心が薄れる」ということであろう。
テレビニュースや新聞で、いくら皇居前広場で「ご記帳」が行われたり、新年や誕生日の「一般参賀」の映像が映し出されても、皇居前広場を日常的に見ている人とそうでない人では、「実感度」に違いがあろう。

よくテレビを見ていて、行ったことのある場所や住んだことのある場所、つまり「視覚的に知っている」ところの映像が映り、そこの話題や事件があると、無意識に注目する経験は多くの人にあるのではないか。

「可視化」の持っている意味は、想像以上に大きいのかもしれない。(だから人間はさまざまなところを「見学」するのだ)

いま毎週金曜日の夜に首相官邸前で一般民衆による「反原発」のデモが行われているという。反原発の思想の賛否はここでは触れないが、官邸や国会議事堂の前に集まり、それを視覚に入れながらデモることには、単に為政者に直接プレッシャーをかけるという意味とともに、彼ら自身が権力の中枢を可視化することによって、認識を深めるという意味があるように思う。むしろあまり意識されていない、その意味合いの方がより重要なのかもしれない。

さて、都会では非常に多くの勤労者や学生(それが何百万人なのか知らないが)が、可視化されないまま場所(空間)を移動する。何年も通っている、ほとんどの人にとって、そんなことは特にストレスでもないだろうし、可視化されないことの意識もないかもしれない。

ただ、忘れてならないことは、見えないものは、ない訳ではない。認識されていないだけだ。しかし「何が見えていないか」は、分からない。
このブログの最初の方で湯浅誠さんが書いた「見ようとしないものは見えない」ということにつながることであろう。

何が見えていないか、常に考えることを忘れないようにしないと、イケナイ。
小田実「なんでも見てやろう」という本のタイトルを思い出した。

2012年7月16日月曜日

天声人語(朝日)の言う「民意」とは

「天声人語」は入試によく出る「名文」として有名らしい。アサヒもそれを拡販のウリにしている。
こんなに入試で使われました、と。われわれは教養ある新聞ですと言いたのだろう。

確かに名文の時もあった。かつては。
ちょっと古いが、「深代惇郎の天声人語」は単行本を買って読んだものだ。しかし7月6日の「天声人語」氏には驚いた。

7月6日朝日新聞より「引用」











こんな文章が教養高き「朝日新聞」の1面の下段を飾っているのだとしたら、これはもう、
「反原発教」という宗教団体の機関紙と思うことだろう。

宇宙で尿から水を作って飲むのは「何から作っても水は水」だけど、電気は「何から作っても電気かというと、そんな時代ではない」と言う。いったい尿から作る水と電気の作られ方とどんな関係性があるのだろうか。比喩にもなっていないし、枕詞としても首を傾げたくなる。

大飯原発の再稼働を「原発に頼らぬ日本は60日と8時間で幕を下ろした」「世の中はその間、とにもかくにも原発なしで回った」と書く。確かに世間は「回った」が、そのためのに費やされた化石燃料と排出したCO2、そして、それによる大気汚染とその被害にはまったく見向きもしない。狭い日本の中だけ、日常生活というミクロの視点からしか論じていない。なんという「偏った」た物言いだろう。

そして「官邸を囲んだ怒りを聞くまでもなく、民意は脱原発にあろう」と、事実をねじ曲げて断じる。どの新聞、テレビ局の世論調査を見ても、「脱原発」が圧倒的支持されているものは見つけられなかった。いったいこの天声人語氏は何を根拠にこう言うのだろう。
まさか官邸を囲んだ民衆(デモ隊)だけを根拠に言ったのではあるまい。

「地元経済の原発依存も変わらない」「福島の教訓が泣く」と言う。福島の教訓とは何を指すのか。事故が起きれば、すべて止めるべきというのが教訓なのだろうか。失敗を糧に前へ進むというのは「教訓」ではないのか。

こんな脱原発、反原発の言説を続けるのなら、いずれ賢い読者は朝日を離れていくだろう。

「脱原発」の考え方がオカシイと言っているのではない。主張をするなら論理的かつ現実的な思想を示してこそ「説得力」があるのではないか。
大勢の人が避難しなければならないような、そして長期間住めない地域を作りだすような事故をいいと思っている人はいないだろう。できれば原発がない世の中を望む気持ちはもちろん共鳴する。

しかし、(日本は減っていても)世界的に増え続ける人口。そして途上国の「開発願望」、さまざまな要素の中で、「今すぐ脱原発」がどれだけ現実的なのだろうか。

ほとんど宗教化された主張を続ける「朝日」に未来はないだろうな。かわいそうだけど。

2012年7月12日木曜日

「売春のもみ消しに1億円払った原」に沈黙する、「毎日」以外の新聞・メディア

読売“巨人軍”の原辰徳監督が、1988年に「関係を持った女性」がいて、そのことで恐喝されて1億円を支払った“事件”。
週刊文春の報道から、読売の発表記事は書いたものの、なぜか多くのメディアがその後は沈黙している。

これは原が「買春」の火遊びをしてそのもみ消しに1億円も支払ったということではないのか。

1億円というお金がフツーの人々にとってどの位の金額なのか、わかります?
これだけくれるのなら、私は定年まであと数年あるけど、即刻勤務先をやめてもいい額だ。

一般常識に照らして、この異常な出来事に対して、なぜメディアは原の責任を追及しないのだろう。
原は恐喝の被害者だろうが、その前に売春の加害者だ。買春の公訴時効は3年だから、もう不問にするというのだろうか。いつも「道義的責任」などど叫んでいる、「正義の見方」シンブンも沈黙を保つ。そんなに巨人軍が怖いのか。

7月11日 毎日新聞より「引用」
毎日新聞が唯一(私が見た限りでは)、11日の社説でコミッショナーを批判する形で書いていた。ちょっとスジ違いの面もあるが、書いたこと自体は評価に値するだろう。

原という存在はきっとプロ野球にとって貴重なんだろう。

江川事件以来、プロ野球が嫌いになった私には、どうでもいい団体だけど、買春を不問にしてまで原を守るメディの体質には恐れ入る。


“遅れてきた壮年” 永江朗さん「批評の事情」を読む。

永江朗さんの著書を読むと落ち込む。ホント。

永江さんは、「批評の事情」や「新・批評の事情」で、こんなにもたくさん本を読み込み、それを自分の中で消化して、ウマイ批評文に仕立てる。これほどの、ある意味で手際のよい批評を私は知らない。

振り返って、ほぼ同じ時間だけ生きてきた自分は何も知らない、無知で無能な人間にしか思えなくなってしまう。それほどまでに「批評の事情」はいろいろなことが手際よく凝縮された本だ。

ちなみに新批評の事情は、新宿紀伊国屋で、文庫本版(ちくま文庫)がすく手に入った。しかし、先に出た「批評の事情」は、大型書店をいくつか回っても、置いてなかった。(残念)
筑摩書房のサイトを見たけど、やはり品切れのようだった。アマゾンでも、「出品者からの提供」となっていた。この本は、希少本になっている。

(私はどちらかというとアマゾンでの書籍購入はあまり好きになれない。だって「カバーお願いします」って、言えないから。)

単行本は当然ながら、文庫本が出ているので書店には置いてない。で、図書館で借りることにした。こういう「読みたい本」は購入することを原則としているが、今回は例外だ。

「批評の事情 不良のための論壇案内」は初版が2001年9月。しかし11年後のいま読んでも、各々の評論家「評」はちっとも色あせていない。(と私は感じる)。

永江さんは前書きで、
「人が何事かを語れば、すなわちそれは評論である。(中略)しかし二つの条件を満たさなければならない。ひとつは批評性。『「それは何なのか』」という問いを持続させつつ対象を体系の中に位置づけ、それを検証していこうという意志。その本質に迫ろうと言う意志。もうひとつ欠かせないのは文章の芸。・・・・読んで面白くなければお話にならない。さらにこの二つの条件を満たすためには、その分野に関する知識と経験と見識が必要。」と記している。

永江さんの著書そのものが、この条件をよく満たしていると言える。

「批評の事情」で扱った人は以下のとおりだ。

宮台真司
宮崎哲弥
上野俊哉
山形浩生
田中康夫
小林よしのり
山田昌弘
森永卓郎
日垣 隆
大塚英志
岡田斗司夫
切通理作
武田 徹
春日武彦
斎藤 環
鷲田清一
中島義道
東 浩紀
椹木 野衣
港 千尋
佐々木敦・阿部和重・中原昌也、
樋口泰人・安井豊
小沼純一
五十嵐太郎
伏見憲明
松沢呉一
リリー・フランキー
夏目房之介
近田春夫
柳下毅一郎
田中長徳


「現代日本の評論はどんなことになっているのか、というのが本書のテーマ」。
ただし評論家(やその周辺の人々)はたくさんいるので
「この本は90年代にデビューもしくはブレイクで線を引いた」という。

前半は、まあ「知っている」し、著書をよく読んだ人もいる。しかし後半になると、「こんな人もいたんだ」という感じになってきて、自分の知識のなさが情けなくなってきてしまう。

永江さんはまた、「当の作品、あるいはそのもの・ことよりもよほど面白い評論というのもたくさんある。」と言う。永江さんの著書そのものが、そういう役割を担っている。


例えば私は「小林よしのり」を読んだ(マンガだから見るというべきなのか)ことはない。一度書店で「ゴーマニズム宣言」をぺらぺらめくってみたが、気持ち悪くなってすぐやめてしまった。
だけど、永江さんの小林よしのり評は非常に面白いし、この人物が「何なのか」よく分かる。
そのへんが永江さんの著書のすごいところだ。

2012年になって、ようやく「批評の事情」「新・批評の事情」まで“たどり着いた”私は
「遅れてきた壮年」といったところか。






2012年7月10日火曜日

ヤクザのみかじめ料は把握できないが、ベンツを買ったら税は払う。消費税は一番公平な税だ。

「やくざが店からみかじめ料をとても、その所得は把握できない。だから課税できない。
でも、そのやくざが1千万のベンツを買ったら、かならず税をとれる。」

なかなかの例えだ。これを聞いたのは、もうずいぶん前のこと。
消費税が3%から5%に引き上げられる議論が国会で行われているさなかだたと思う。財務省(当時はまだ大蔵省だった)の主税局での一室である。

当時こう言われた時は、「なんだこいつ」と思った。しかし冷静に考えてみると、これはまったくもって正論だ。

会社や団体の勤労者ならば、所得は把握されるだろうが、それ以外の人は分からない。申告してもらうしかない。これは性善説に立っている。だからごまかす人は後を絶たないし、取る方も公正さを保てない。しかし「消費する時」は必ず白眉のもとにさらされる。売る相手がいる以上、必ず分かってしまうのだ。「やくざがベンツを買う」時はこれだ。ここに課税すてば、とりっぱぐれることはない。その意味では非常に公平であることは間違いない。

高価なモノを買ったら、それだけ税金も多くなる。高価なモノを買う、つまり消費が多い金持ちは多く納税することになる。社民党みたいに“庶民の味方”がなぜ消費税に反対するのか理解できない。弁護士の福島瑞穂も経済オンチとしかいいようがない。かわいそうな人だ。

野田総理が「消費税は最も公平な税」と言ったら批判されたらしい。(1か月くらい前の記事だったが、なくしてしまった。)。
「モノゴトをよく考えないで生半可な知識で勝手に良い悪いを判断し、感情で批判する。」それが今の日本の国民のメンタリティーだ。

食品など生活必需品には軽減税率と叫ぶ人や新聞社がいる。これについて経済学者の大竹文雄さんが分かりやすい説明をしている。(東洋経済6月16日号)

高級な食材を買ったり、高級料理を食べるのは高額所得者だ。食品に軽減税率を適用すると、得をするのは金モチだ。冷静に考えてみれば小学生でもわかる話しだ。
朝日は記者有論で「軽減税率 食品への適用欧州に学べ」(5月15日)と編集委員の小此木潔氏が主張しているが、朝日が軽減税率を言い出したのは、新聞にも適用してほしいという魂胆だったことが後にわかる。

モノへの税率が上がれば、確かに負担は増える。低所得者層は苦しくなる。消費が減れば経済も回らなくなる。それをどうしていくかは課題だろう。だからバウチャーによる給付など、財務省は知恵を絞っているのだと思う。

消費税の問題点は別のところにある。益税を生む仕組みだ。消費税導入時、反対する商工関係団体を説得するため、様々な施策がなされた。免税や限界控除制度などだ。(いまそれがどうなっているか詳細は勉強していない。)また、インボイス制度も見送られた。
今の日本の消費税は「税のがれ」しやすい制度であることは間違いないだろう。なぜだかこのことは、メディアも当の財務省もあまり触らない。ここに触れるのはタブーみたいだ。

最近の課題としてネット取引に正確に課税できるのかという問題が小さな記事になっていた。まだこの問題はよくわからない。

◇◆◇◆◇

前にも書いたが、別に私は財務省の回し者でも、ステークホルダーでもない。
増税議論ではイエロージャーナリズムからしばしば財務省陰謀説なるものが出てくるが、それはオカト違いだといいたいだけだ。今日の危機的財政状況は財務省(大蔵省)が作ったのではではなく、時の政権が予算をバラまいてきたからだろう。財務省はむしろ必至にどうすれば国家予算が健全になるか考えてきたことは明らかだ。責任が財務省の役人に転嫁されていることはフェアではないと言いたいだけだ。
もちろん財務省にもいわゆる「大蔵不祥事」があったりして、それが組織の信用を落としたことは否めない。しかしそのことと、財務省のミッションをごっちゃにして論じるのはスジ違いだろう。

冷静な議論ができない、日本という国。だんだん私はこの国と(その国民)がキライになってきた。
できれば子どもにはどこかに脱出してもらいたい。
でも、世界中のどこにもユートピアなんてないから、脱出してもそれはそれで地獄が待っていることはもちろんわかっているけど。

「消費税は最も公平な税」というテーマが最後はヘンな方向に行ってしまった。


◆◇◆◇◆
大竹さんの著書は本当にわかりやすい。3冊読んだ。










2012年7月5日木曜日

「君子豹変す」はいいことだ。野田首相


「君子豹変す」というのは、よく否定的な意味で使われる。でもそれは間違いだ。

① 〔易経革卦〕 君子は過ちをすみやかに改め,善に移ることがはっきりしている。
② 俗に,今までの思想・態度が急に変わること。
(net版大辞林より。)

別のnetの用語解説によると
▼易経の原文をたどると、「君子豹変、小人革面」とあり、「立派な人物は、自分が誤っていると分かれば、豹の皮の斑点が、黒と黄ではっきりしているように、心を入れ変え、行動の上でも変化がみられるようになる。反対に、つまらぬ人間の場合は、表面上は変えたように見えても、内容は全然変わっていない」と述べています。 
と書いてある。


さしずめ野田首相は、君子豹変すそのもだろう。民主党のマニフェストが書かれたのは3年以上も前。リーマンショックが起きる前だ。(リーマンショックがどのくらいの「ショック」なのか私には正直ちょと分からない)
いずれにしろ、その後世界経済は悪化したのは確かだし、よく言われる日本の国債残高の異常な多さは、シロウトが見ても、どう考えてもまともじゃない。そうした状況を受けて、野田さんは消費増税に突き進んだ。君子豹変した。


それは大半の新聞大手の支持を得、また産業界からも支持されている。これはこれで「民意」だと思う。(が、東京新聞にとっては「民意」ではないらしい。)

消費税増税の時、あんなに反対した日本商工会議所や小売業団体、主婦連(もはや力もないだろうが)なんかも「反対している場合じゃない」ことがよく分かっている。

経済学者やエコノミストの中には、日本の個人金融資産がまだ1200兆円あるとか、日本国債はほとんどが国内で消化されているので「大丈夫」という人もいるが、その理屈はもはや通らなくなっている。

◆菅直人のブレーンだった阪大の小野善康は、この手の主張を昔からしていた。かなり古くなるが「景気と経済政策」(岩波新書)には、じゃぶじゃぶ国債を発行して景気を刺激しろというようなことが書いてあり、当時国会の自民党側の参考人としてそうした発言もしていた。当時この本を読んで、どうもうさん臭い感じがしてので、どういう訳かそのことをハッキリ覚えている。時の政権(小渕のころだったかな)の膨大な国債発行にお墨付きを与えた「戦犯のひとり」だと理解している。
菅はなぜ小野をブレーンにしたのか。経済がわからない(自ら学んで分かろうとしなかったと言った方が正確か)菅が、耳障りのいいことばかり言う御用学者に飛びついたのだろう。(割と最近、朝日が小野を持ち上げたインタビューをしていたのには驚いた。)




話しが逸れたが、新聞は今になって民主党のマニフェストを「財源の裏付けのない絵空事」と書き立てるが、当時はそれほどの主張は見当たらなかった。
マスメディアの「後出しじゃんけん」は、毎度のことだから驚かないけど。


ともかくも財務相も務め、また経済をよく学習している(方だと私は思っている)野田首相が、消費税増税に「命懸け」なのは、何も財務省のあやつり人形だからでも、頑固一徹だからでもないと考えるのが自然だろう。本当に日本の財政の行く末を心配しているのだ。そしてその心配はかなりの確率で「正しい」


マスコミに登場するエコノミストで信用がおける(と思われる)発言をしている人は意外に少ない。
阪大・大竹文雄さん、慶應・樋口美雄さん、一橋・小林慶一郎さん、みずほ証券・上野泰也さん、バリバ証券・河野龍太郎さん、などなど。
(ほかにもいるでしょうが、今すぐに思いついた人ですこれは)


こういう信じるに値する経済人で消費税の増税が必要ないと言っている人はいない(はずだ。)
もちろん消費税を上げれば大丈夫と言っているのではなく、「その先の日本」はまだ心配しているけど。


欧州危機の第一波がきた時、新聞各紙・NHKの(お手軽)世論調査では、消費増税もやむなしとい「意見」が割と多かったと思う。が、日を経て消費増税が政争の道具にされ、最初の危機感が薄れてくると、メディアのおバカ報道もあり、世論は次第に「増税反対」に傾いていった。


野田首相は、日和らなかった。そこはエライと思う。だって選択肢としては、先送りもできたのに、そうしなかったのだから。



◆◇◆◇◆◇◆
世論がどうして「消費税反対」に変化していったのか。メディアはあまり分析していない。だって自分たちの煽る報道で変節していったのだから分析なんかできないのだろう。
人は無意識に嫌なこと(増税)をなるべく見ないよう、考えないないようする。当初増税が必要と考えていても、なかなか政治が決められないで期間が長くなると、次第に否定的な思いが大きくなる。それで世の中が回るのかといった「(増税反対に)都合の悪い情報」は意識から排除されていってしまう。それが続いて世論は変節していった。「いまのままでもいいじゃないか」と。同様の無意識の心理変化は不勉強な国会議員にも表れていったのだろう。小沢ガールズたちなどは。



お笑い「小沢一郎」を書いた、3日の新聞各紙社説

「お笑い『小沢一郎』」というのがピッタリなのかもしれない。
小沢が離党した翌日の新聞各紙の社説を読みくらべてみた。「お笑い『東京新聞』」以外は、どれも似た論調だから、あまり面白みはない。多くの人が感じているそのまんま。
それにしても、この人はどこまで日本の足を引っ張るのだろうかね。まあそれも近いうちにようやく終わるのだろうけれど。

●日経:
「破綻した2009年のマニフェスト(政権公約)の順守を求めるだけで、具体的な財源捻出策を示さぬ元代表らの姿勢は無責任だ。」と切り捨て、「選挙基盤が弱い若手議員が多いこともあって、新党の前途は極めて多難だ。」とご親切に心配している。

●産経:
離党者が意外に少なかったのを「小沢氏の一連の行動に対し、国民が冷ややかに見ているだから」とし、「今回の小沢氏の動きを見れば・・・またかというのが率直な印象だろう」と述べ、「自らの権力を守ることを最優先させる『小沢政治』は今回の離党劇で完全に終焉を迎えたのではないか。」と切り捨てた。

●読売:
「党内の路線闘争に敗れ、追い込まれた末の離党である。」とし、民主党がむしろすっきりし「党内の一体感が高まり、政策決定が円滑に進む可能性もある」とした。

●朝日:
「実行不能の公約を振りかざし、またぞろ政治をかき回す。そんな小沢氏に対する、民意の疑念が読み取れないか。」と、小沢の裸の王様ぶりを指摘。

●毎日:
「もともとの狙いである党内の主導権奪還の展望がなくない、離党に追い込まれたというが実態ではないか」「『数は力』の手法の古さ、いびつさを吐露したと言える」と冷ややかに分析した。

●東京:
「小沢氏の『壊し屋』としての悪癖が出たとの味方が喧伝されるが、そうした切り口だけでは事の本質が見えてこない。」として小沢の離党は民主党崩壊の始まりであり、崩壊の理由は、自民と似通った政策を推し進め、「民の声が届かない政治」だと、小沢批判より民主党の政策に噛みついている。

こうしてまとめてみると、特異な東京新聞以外、小沢氏への冷ややかな目は各紙どれも大差はないようだ。ちょっと面白みに欠けるが、まあこれが本筋なんだろう。

「小沢さんさようなら。」といったところか。

※実はこの項は、「君子豹変す」から掘り起こして書き始めたけど、そこの部分が長くなってしまったので、分けました。分けると、自分でも「何が言いたかったのか」わからなくなってしまいました。


7月1日読売新聞より「引用」

7月3日毎日新聞より「引用」
7月3日朝日新聞より「引用」

7月3日日経新聞より「引用」

7月3日産経新聞より「引用」

7月3日東京新聞より「引用」

7月3日読売新聞より「引用」

7月4日朝日新聞より「引用」