2012年7月23日月曜日

「葬式ごっこ」から26年。いじめはなぜ繰り返されるのか

図書館で借りました
大津市の「自殺の練習」いじめ。この報道を見て思い出したのが「葬式ごっこ」だった。
調べてみてすでに26年も前、四半世紀もたっていたのかと、驚く。

1986年東京・中野区立富士見中学校の2年男子生徒が、父親の故郷である盛岡で首を吊って自殺した「事件」である。この生徒は学校でいじめを受けていて、その最たるものが、「葬式ごっこ」だった。このいじめ遊びにはなんと担任教師ら教員も“加担”していたことだ。「追悼の寄せ書き」に書き込んでいた。
また生徒に事件後「口止め」をしていたことも発覚した。
興味ある人は、 web site で調べてみてほしい。
また 朝日新聞の記者 豊田充氏がこの事件に関して本を出し続けている。


2007年 豊田充著(朝日新聞社)

●葬式ごっこ (1986年)
●「葬式ごっこ」8年目の証言 (1994年)
●いじめはなぜ防げないのか「葬式ごっこ」から21年 (2007年)






これも図書館で借りました
構図は26年前も今回の大津の場合も同じだろう。
何も状況は変わっていない。
▼ダメな教師(教師がみんなダメだと言っているのではない)
いじめを把握できない、なくせない力量不足。むしろいじめを助長するような言動。そしていったん発覚すると、隠蔽体質。どうしようもない硬直した教育委員会。
▼ストレスをいじめて発散する子供たち。これはまったく変わらない。

なぜこれほど「変わらない」「変えられない」のか。考えていかなければならない。
とりあえず、「葬式ごっこ」の紹介まで




(7月27日 追記)

内田樹氏は、AERA(8月2日号)の巻頭コラム「『いじめ』がもたらす本当のリスク」で、
反論も反撃もできない人間をじりじり追い詰めることから嗜虐的な快感を引き出している人間」や「大学に怒鳴り音できたクレーマー親たち」の「表情はみな同じ」であり、こう書いている。

8月2日付 AERAより「引用」
「『いじめ』は精神的に未熟な人の固有の現象である。だから年齢とはかかわりがない。彼らは自分とともに集団を構成している同胞(とりわけ弱い同胞)たちのパフォーマンスをどうやって向上させて「集団として生き延びるか」という問題意識がない。彼らにとって喫緊の問題は、どうやって「隣にいる人間が享受しているパイ」を奪い取るか、どうやって同じグループの他のメンバーを無力化するかなのである。そうすれば「自分のパイの取り分」が増えると彼らは信じている。 だが構成員中の「無力な人間」の比率が上がるほど、『集団ごと』」淘汰されるリスクが増えるのでは・・・と不安になることが彼らにはないのだろうか。 」と。


いじめは年齢に関係なく起きる。ただ大人の場合はいじめられた側が「逃れる術」を知っていることが多いので、そんなに問題にならない。子どもは逃れられないから自分を追い込んで自殺に向かってしまう。そしていじめる人間は「精神的に未熟」なのは間違いないだろう。


だから彼らに、指導的立場にある者(多くは先生かもしれない)が「いじめはいけないことです」と繰り返しても、精神的未熟者には通じない。やっかいだ。


精神的未熟者は、一言でいうと「弱い人間」だ。だからたいへい徒党を組む。いじめはふつう集団で行う。そして自分より弱い人間を作ることによって、自らの「レゾンデートル」を保つのだろう。



7月26日 朝日新聞より「引用」
森達也氏は、こう書く(7月26日 朝日新聞)


「イジメとは抵抗できない誰かを大勢でたたくこと。孤立する誰かをさらに追い詰めること。ならば気づかなければならない。日本社会全体がそうなりかけている。この背景には厳罰化の流れがある。善悪二分化。だから自分は正義となる。 日本ではオウム、世界では911をきっかけにして。自己防衛意識と厳罰化は大きな潮流となった。」と。

大人世界に「いじめ」が蔓延している以上、子どものいじめをなくすことなどできないだろう。悲しいけれど。

森氏はこの論考で、77人を殺害した去年7月のノルウェーのレロ事件について、当時の法相の言葉を紹介している。
(ノルウェー元法相クルート・ストールベル)は 「ほとんどの犯罪には3つの要因がある。 ①幼年期の愛情不足 ②成長期の教育不足 ③現在の貧困 ならば犯罪者に対して行うべきは苦しみを与えることではなく、その不足を補うことである」と。


ここにはいじめ防止へのヒントがあろう。いじめる側は内田氏の言う「精神的な未熟者」だろうが
それを違う言い方で表せば「何らかのトラウマを持った者」とも言える。愛情に飢え、そして成長期に「教育」に対して劣等感を持つ。そして貧困もある意味で世間への劣等感だろう。
彼らを救うのは、それこそ「その不足を補うこと」しかない。


※大津のいじめ自殺では、“主犯格”の少年は「成績優秀」と言われていた。(週刊誌などの情報です。)でもその「優秀さ」ゆえの優越感が、どこかで裏返っていたといえるのではないか。




















AERAの8月2日号の「いじめ」の特集には、ヒントになる話しが載っていた。
8月2日AERAより
同級生の持ち物を隠す児童の「いいところ」を探し、生き物と絵が好きなことを聞き、クラスの「生き物係」にし、絵画コンクールに応募させたところ、自信を持ち、持ち物隠しはなくなったという。

このエピソードは、小学生だから「通用」した手立てかもしれないが、
森氏の論考で紹介した「不足したものを補う」ことにほかならない、有効なやり方だったことはだれしも同意できるだろう。





8月2日AERAより
もうひとつのエピソードは、「子どもたちのきずなや学校への関心を再々する仕掛けを用意できるかどうかがカギ」だとし、学級崩壊状態にあった中学1年で、「クラスを班分けし、班員の問題行動に対して班で責任で予防・対処するよう促した」と言う。「帰りの会でその日の成果を出させ、学級便りも毎日出した。」すると「ちゃんと授業を受けることへの競い合う気持ち芽生え、『荒れ』が次第に収まった」という。

これを読んで、原武史さんの名著、「滝山コミューン1974」に出てくる、「ちからのある学級運動」(という名称だったと思います)を、思いだしてしまった。これは、70年代の一時期、一部地域で盛んに行われた「左翼的学級経営の運動」なのだが、学級崩壊の回復で班のチカラ、つまり連帯責任制が、はたしていいのかどうかは、私には分からない。
ともかくも、こういうエピソードだとしか言えません。



滝山コミューン1974

●滝山コミューン1974
こお5,6年で最も「面白い」と思った書籍だ。原さんと同世代なので、書いてあることを
リアリティを持って読めたこともあるが、あの70年代の「公立の小学校」のマインドが
本当によく描かれている。原さんの記憶力には驚かされる。

また、単に「ちからのある学級」のことだけでなく、原さんの受験体験や鉄道体験もよく描かれていて、興味深い。
昭和30年代生まれの方は、ぜひご一読を。文庫判も出たみたいです。












(続く)

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