2012年7月29日日曜日

「本当のこと」を言うと批判される社会。原発聴取会に見る日本人のメンタリティー

7月17日 朝日新聞より引用
野田首相が、「消費税はもっとも公平な税」だと言ったら“批判”されたという記事を紹介した。
湯浅誠さんが、総理府の参与を辞任するに際して綴ったブログで、市民運動側の縦割りの問題点を指摘したら、市民運動の一部の人々が湯浅さんを“批判”したという。

 2030年のエネルギーの原発比率を決める、住民参加の公聴会で、中部電力の社員が個人として参加して、福島第一原発の事故では「放射能による一人の死者もまた、重篤な放射線障害の被害者も出ていない」と言ったら、反原発の方々から“批判”された。
どれも、言った(書いた)ことへの論理的“反論”ではなく、“批判”をしているだけだ。(少なくともそのように見える)。
これって、やっぱりおかしくないか。

「あなたの言っていることは、論理的にこれこれの矛盾がある。論旨の進め方の欠陥がある。また事実認識に間違いがある」という「反論」であれば、それはスジの通ったことであり、言った方とある意味で「対話」が成立して、発展的論争ができよう。
しかし、(単に)批判することは、感情的な反発でしかない。自分の気に食わないことは、とりあえず批判しておく。そうすることによって自分の「面目をどうにか保ち」、「立ち位置を改めて確認」するだけの、いやしい行為でしかない。
本当にイヤな世の中である。日本人のメンタリティーは底が浅い。
同様のとりあえずの“批判”は、けっこう様々なところにある。政治家の伝えられる言動は、こうしたことは日常茶飯事だし、新聞や雑誌、民間放送の(底の浅い無能な)アンカーマンもしかりだ。

この際、もう一度確認しておこう。
消費税は、所得が完全には把握できない状況では「もっとも公平な税」であることは論を待たない。
消費税が高いと低所得者に負担が大きいというのは、だれでもわかるし、そのことを否定しようとは思わない。ものごとは「正しいし事実把握」からでしか「最適解」は導きだせない。消費税は公平な税だという認識をまず市民が持つことが、「税と社会保障改革」の第一歩であろう。
先日、新橋のそば屋で昼飯を食べていたら、ビジネス客が「領収証」をもらっていっていた。店の方もヒルメシ時の領収書の発行も手慣れたもののようだった。つまりここから「連想」できるのは、経費で落とせる法人企業(主に中小だろう)では自分たちのメシ代も経費にしていく。ちりもつもれば結構な額になろう。そして法人は「経費がかかり赤字」となり、法人税を払わなくて済む。という構図だ。実際法人の3分の2は「赤字」で「法人税」を払っていない。それでカイシャがつぶれないのはなぜか。ちょっと考えれば小学生でもわかる「社会の仕組み」だ。所得に課税するのはどんな制度をつくろうとも絶対に公平にはならない。

「原発による放射能で死亡した人はいないし、重篤な放射線障害を起こした人もいない。」これは「反原発の不都合な真実」(新潮新書)でもはっきり書かれている「周知の事実」だ。それを言うことがなぜ批判されるのか。感情的反発以外のなにものでもない。もちろん原発の放射能汚染で、土地を奪われ、避難を余儀なくされる方々への「配慮」をする必要がないと言っているのではない。気持に寄り添うことは「日常の言動」では自然なことだ。そんな気遣いは、これも小学生でも分かる。
しかし「原発の比率を考える」ための「真面目な議論」をする「データ」として出すことに、なぜ反発するのか。まともな議論をしようという姿勢とはとても思えない。やはり「反原発派」は宗教化されていると思えてしまうのは、こういうところだ。

事実に基づいた、論理的で真摯な議論をさまたげることに何のためらいも持たない人々や一部のメディア。やはり日本はダメな国なんだな。

0 件のコメント:

コメントを投稿