2017年9月16日土曜日

目からウロコのクラシック音楽。『西洋音楽史』(中公新書)の読書感想文

 いわゆるクラシック音楽は、どうしてコンサートに行って、かしこまって聞かなくてはいけないんだろう。どうして昔のモノばかり演奏するんだろう。どうしてクラシックの現代音楽って耳障りな不協和音ばかりなんだろう。クラシックとポピュラー音楽の本当の違いって何だろう。
 バイオリンを習わされていた小学校低学年のころから、実は疑問に思っていた。もう少し成長してから、メサイアや第9を聴きに行くようになってからも、それ自体は「いい音楽」=耳に心地よい音楽だと思っても、そうした疑問を払しょくできなかった。また、あえて疑問に対して深く探究しようと思わなかったとい面もる。

 しかし、この『西洋音楽史・「クラシック」の黄昏』を読んで、そうした疑問が一挙に解消されたし、それどころかクラシック音楽を、ある意味でより深く聞いてみようという気になった。すごい「良書」だ。これで900円しないんだから、非常にお得ですよ。
 
 これまで気に入った読書のあとは、読みっぱなしにせず、自分なりにノートにまとめてきた。(そんなにに冊数は多くないけど)。この本は、そうしたい衝動にかられたし、ノートというか、自分なりの年表にしてみたと思った。
 聞いている音楽がどの時代の、どういう背景で作られた音楽が知ることは、同じ音楽と聞くのでもずいぶん違う。荘厳すぎるシンフォニー、高度なテクニックが際だつピアノ曲等々。背景を知ると、単純に興味が深まる。
 まあこれは小説の「作品論」より「作家論」に近くなるという点はあり、純粋に作品論的に楽しめなくなるという面がなくはないが、クラシックのシロウトにはちょうどいいかもしれない。
 還暦を前になぜかクラシックを聴くようになったのか。2年前、風邪をきっかけに耳鳴りがするようになり、医者から「耳鳴りは一生治りませんから」と、あっさり告げられ、通勤途中に音楽を聴くようになった。
(耳鳴りは慣れると思ったより気にはならないが、それでもシーンとした部屋にいたりすと、「ああ、耳鳴りしてるんだな」と改めて思うことはしばしばだ。)

 デイブ・グルーシン、リー・リトナー、ジョージ・ベンソン等々とジャズ、ヒュージョン系を聴いていたけど、少々飽きてきたので、ここ半年はクラシックを聴いている。
 (ちなみにランニングする時はサザンやAKB48や荒井由美や中島みゆきを聴いているけど)
 けど、いったいクラシックはどこから聞いていいのかわからない。手始めは以前(と言っても20年以上前だ)購入した「ベストクラシック100」や図書館で借りた、「どこかで聞いたクラシック・ベルリンフィル」など、定番から入った。次に、各作曲家のベスト版を借りて聴く。そして次に、netにある、ご推薦の「ベスト交響曲30」などを上記から順番に聞いていく。
 てなことをやっていくと、当たり前だけどクラシックも、あまり聞いていて面白くないものも多々あることに気付く。まあ聴き方が通勤途上の読書のBGMだから、耳に心地よいものを無意識に選好しているせいでもあるけど。
 で、本の話からそれたけど、この「西洋音楽史」のいいところは、ある作曲家の生きた年代が西洋史の中でどういう時代だったか、この作曲家は、実は○○哲学者と仲良しだった、などエピソードが分かりやすいことにある。
 もちろん著者の文章のうまさ、構成の的確さなど書籍としての完成度も非常に高い。このまま高校の音楽の授業に使える、分かりやすさと深さがある書籍だ。

EV(電気自動車)革命は、原子力発電問題を避けてとおれない。なぜメディアはそのことを避けるのか

 

東電・柏崎刈羽原発
フランスやイギリス、また中国でも将来ガソリン車の販売を禁止し、電気自動車に移行させる案がここにきて急浮上している。
 排気ガスとして有害物質を出す、化石燃料を使った車から、それ自体はクリーンな電気自動車へシフトさせていこうという世界的潮流は次第に大きくなっている。それはそれでたいへん“良きこと”だ。
 新聞報道もこの自動車社会の将来の動きを先取りした報道になりつつある。しかし、こうした報道(の多くに)、触れてない部分がある。
 当たり前のことだが大量の電気を作りだすには膨大な電力供給が必要だ。そのためには、(現在のところ)原子力発電を抜きには実現できない。これは自明のことだろう。
慶応大学が開発した電気自動車(NETより「引用」)
ガソリン車から電気自動車になっても、その電気を化石燃料で作るのなら、かえって熱効率は悪い。石油を燃やして電気を作るのにも、それを送電するのも、いわゆるエネルギーロスが起きる。車に直接石油(ガソリン)を使った方がはるかに効率がいいのは自明のことだ。
 大量の電気を作りだすには太陽光や風量などだけでは、現在のところとても賄えないのが現実だ。原子力発電の有効利用があって初めてそれは実現するハナシだ。原子力発電は火力に比べて温暖化ガスの排出ははるかに少ない。その意味ではクリーンエネルギーと言っていい。エネルギーとしての有用性と、原発の危険性はきちんと分けて論じ中ればならない。
 東京電力・柏崎刈羽原発の一部に「適合」がなされたが、朝日新聞は社説などで、疑問を呈していた。その部分だけ見ればスジの通った「ご主張」かもしれないが、エネルギー政策全体を、この新聞はどう考えているのか、どうしていくべきなのかという主張はわからない。結局、反原発の人々の「意に沿う報道」でしかないと見えてしまう。それは、一部の知識人にも言えることだけど。
 何も、危険なままで原発をどんどん稼働させろ。福島第一で原発被害に遭われた方々のケアなんていらないと言っているのではない。要はリスクへの覚悟をどこに置くかという問題だ。原発リスクと温暖化リスクのバランスをどこでとるのかとう問題だろう。
 こうした最も根源的な問題に目を向けさせるのが大手メディアの役割なのではないか。そうしたことを避け、原発の部分の問題だけをことさら一番の問題のようにあつかうだけの報道には、トランプさんでなくても「Fake News!」と言いたくなる。

 欧州の電気自動車への移行計画のニュースで、象徴的なったのが、イギリスやフランスが「完全」を目指すのに対して、ドイツは「ディーゼル」は捨てないというような記事だった。これは、ドイツが原発ゼロを目指していることと無関係ではあるまい。反対にフランスなどは原発に積極的だ。

 電気自動車のニュースと原発問題は実は大きくつながっている問題だということ。まずそれを読者(や視聴者)に分かってもらってから、ディテールの報道に入るべきだよ。

トヨタの燃料電池車「mirai」
水素自動車に未来はあるか?
先日、中原街道(東京)を走っているのを見かけて、「オオ・・!」と思った。静かに増えていくんだろう。水素ステーションもすでに2件、知っている。


 

2017年9月9日土曜日

不倫は犯罪なのか? あまりに“大衆的”な山尾氏報道にはウンザリだ。

netより「引用」
『疑惑』とは何を意味するのだろうか。通常、それは犯罪(法を犯すこと)に対して疑いがある場合に、使う言葉なのではないか。少なくとも、、マス・メディアが使用するとすれば。とりわけ放送事業者においては、放送法で、公正中立など様々な規制(その規制は、必ずしもいいとは思わないけど)がある中では、使用に注意すべき言葉だろう。
  
 「不倫疑惑」とは何だ。人の道として決してほめられたことではないけど、それ自体は犯罪でも何でもないし、私生活(それはプライバシーのひとつだ)の上のこと。政治活動とは何のカンケイない。それがあたかも、加計学園の獣医学部新設問題や森友学園小学校建設問題と“同等”か、報道の過剰ぶりからはそれ以上の“重大事件”として扱われている。
 当たり前のことだが、彼女を擁護する気はサラサラないし、どうでもいい。けれど、一連の余りに大衆迎合的報道には、あきれる。

 8日(金)朝、スポーツクラブのテレビでやっていた民放では、Dボタンか何かを使って、①離党すべき、②離党の必要なし、③議員辞職すべき という選択肢のアンケートを行っていた。これには驚いた。テレビ製作者にとっては演出の一貫くらいの軽~いノリなんだろうけど、あまりに馬鹿げたことに、この社会の行く末を心配してしまった。当然というか議員辞職すべきという回答が6割前後(だったと思う)あった。若い女性のキャスター?は、いかにもこれが「世論」、民衆の合意であるかのように、伝えていた。ああこうして大衆世論は作られていくのかという現場を見た思いだ。

 大新聞やNHKなどの正統的(と思われている)報道でも、「疑惑」という言葉が使われていたし、“政治部記者解説”では、民主党への「影響」は「大きい」と強調していた。ここにも、おそらく無意識(前意識)に、大衆の求めることを言うという作用が働いている
のだろう。大衆に引っ張らね、流されていると言っていい。
 メディアの中で、「世間的には問題があるとしても私生活と政治活動のキャリアの評価は分けて見るべきだ」とはっきり言っているものは、見た限りではなかった。本当は、こう言うべきだろうに。だってそうでしょ。
 それは自分に置き換えてみれば当たり前のことだよね。

なぜこういうことになるのか。説明しよう。
文庫版も出ています。
一連の世間の反応に、大衆的な怨嗟や、その裏返しとしてのコンプレックスがあるは明らかだ。東大法学部⇒検事⇒国会議員という経歴、(おそらくは)明晰な頭脳など大衆から見ればそれは手の届かない存在である。だから一層、大衆は彼ら・彼女らに、貞操や道徳手規範を要求し、それをはずれると、あたかも法を犯したような「疑惑」として認識する。単なる「金持ち」ならば、大衆でも小金持ちくらいならなる可能性があるので、それほど「倫理性」を求めないけど、学歴・経歴は、お金では買えない、その人の資質と努力だけで獲得するものだから、余計に大衆の怨嗟の対象になりやすいのだろう。
 大衆は、自身が大衆だということに気付いていない。だから大衆なのだ。オルデカの『大衆の反逆』の中に、ひとりの知的な人間の中にも「大衆性」の部分があることを指摘している。それは確かだ。人間だれしも持っているアンビバレントは側面がある。でもそうした感情を表に出さずに振る舞うのが、知的な人間の振る舞いだ。ゲスな言い方をすれば、他人の下半身問題をことさら騒ぎ立てるのは、それだけ「うらやましい」という思いの裏返しに他ならない。これが大衆なのだろう。
 こうしたことがメディアで続くと、ますますメディアを見なくなってしまう。それでも生活には困らないけど、本当に注目すべきことも見落とすことになりはしないか、自分自身がちょっと心配になってきたけどね。

 一昔前に評判になった「輿論」と「世論」、結局読まなかったけど(書評だけ数種見た)、大衆社会を指摘したものでもあると思います。