netより「引用」 |
「不倫疑惑」とは何だ。人の道として決してほめられたことではないけど、それ自体は犯罪でも何でもないし、私生活(それはプライバシーのひとつだ)の上のこと。政治活動とは何のカンケイない。それがあたかも、加計学園の獣医学部新設問題や森友学園小学校建設問題と“同等”か、報道の過剰ぶりからはそれ以上の“重大事件”として扱われている。
当たり前のことだが、彼女を擁護する気はサラサラないし、どうでもいい。けれど、一連の余りに大衆迎合的報道には、あきれる。
8日(金)朝、スポーツクラブのテレビでやっていた民放では、Dボタンか何かを使って、①離党すべき、②離党の必要なし、③議員辞職すべき という選択肢のアンケートを行っていた。これには驚いた。テレビ製作者にとっては演出の一貫くらいの軽~いノリなんだろうけど、あまりに馬鹿げたことに、この社会の行く末を心配してしまった。当然というか議員辞職すべきという回答が6割前後(だったと思う)あった。若い女性のキャスター?は、いかにもこれが「世論」、民衆の合意であるかのように、伝えていた。ああこうして大衆世論は作られていくのかという現場を見た思いだ。
大新聞やNHKなどの正統的(と思われている)報道でも、「疑惑」という言葉が使われていたし、“政治部記者解説”では、民主党への「影響」は「大きい」と強調していた。ここにも、おそらく無意識(前意識)に、大衆の求めることを言うという作用が働いている
のだろう。大衆に引っ張らね、流されていると言っていい。
メディアの中で、「世間的には問題があるとしても私生活と政治活動のキャリアの評価は分けて見るべきだ」とはっきり言っているものは、見た限りではなかった。本当は、こう言うべきだろうに。だってそうでしょ。
それは自分に置き換えてみれば当たり前のことだよね。
なぜこういうことになるのか。説明しよう。
文庫版も出ています。 |
大衆は、自身が大衆だということに気付いていない。だから大衆なのだ。オルデカの『大衆の反逆』の中に、ひとりの知的な人間の中にも「大衆性」の部分があることを指摘している。それは確かだ。人間だれしも持っているアンビバレントは側面がある。でもそうした感情を表に出さずに振る舞うのが、知的な人間の振る舞いだ。ゲスな言い方をすれば、他人の下半身問題をことさら騒ぎ立てるのは、それだけ「うらやましい」という思いの裏返しに他ならない。これが大衆なのだろう。
こうしたことがメディアで続くと、ますますメディアを見なくなってしまう。それでも生活には困らないけど、本当に注目すべきことも見落とすことになりはしないか、自分自身がちょっと心配になってきたけどね。
一昔前に評判になった「輿論」と「世論」、結局読まなかったけど(書評だけ数種見た)、大衆社会を指摘したものでもあると思います。
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