2014年12月13日土曜日

剱&槍 息子と登頂の記 ~56歳の記録として~ ②槍ヶ岳 

一瞬晴れた時に撮影 久しぶりに見た姿だった
8月下旬、仕事も再開し「夏休みも終わりか~」などど通勤電車でボケッと考えていたが、剱に登った“感動”が忘れられず、この夏の間にもう一つという意欲が湧いてきた。

普段走っても泳いでも、筋トレをしても、あまり楽しいとは思わない。もちろん終わった時の達成感はあるが。しかし山は違う。苦しくてもその過程も結構好きなのだ。それが同じ身体を動かすことでも決定的な違いである。

で、穂高か槍に狙いを定めた。上高地へなら車でのアクセスも比較的たやすい。問題は天気だ。日本列島に前線が停滞し、ぐずついた天気が続いていた。

特に今年の夏は、週末ごとに北アルプス周辺は天気が悪かった。
槍岳山荘のブログにもそのことが記されていた。

8月最後の週末、それは決行された。
29日(金)。朝5時に東京を出発して槍を目指す。松本で中央高速を降り、沢渡の駐車場へ。
金曜日ということもあり、駐車場はがら空きだった。幸い天気はいい。青空も見えている。

バスに乗り換え、お釜トンネルを越えて上高地へ。思い出すと上高地に来たのは確か91年に中継の仕事で来て以来だ。夫婦で槍・穂高を目指したのは更に前の89年か90年。実に24,5年ぶりだ。

あの頃はまだ高山に抜ける安房トンネルもなかった。釜トンネルもまだ岩がむき出しだったように思う。それが快適な道に変わっていた。

上高地に着いたのは11時ごろ。結構賑わっていた。この日は横尾山荘までだ。身支度をし、妻が翌日泊まる予定の西糸屋に下りてきた時の着替えなど少しの荷物を預け、河童橋で「記念写真」をとって、梓川沿いの道を歩きはじめた。快適な日だった。

途中、コースを離れ嘉門次小屋でイワナを食べる。息子が事前に調べていて、どうしてもイワナを食べたかったという。ざるそばとイワナのセットは、快適な天気と少し歩いて適度に空いた腹には、たいへんおいしかった。

徳沢では、ヤマケイの催し物をやっていて、メーカーなどのブースが並んでいた。それぞれのブースを回りながらクイズに答えると、さまざま品物をくれる。楽しい時間をすごした。この時手に入れたのは、コーヒー、真空パックのパン。ホイッスル、手ぬぐいなど結構な戦利品だった。

横尾山荘も建て直されていた。快適なかいこ棚の寝床。食事もうまい。風呂もある。
後で上高地の西糸屋の主人に聞いた話だけど、横尾山荘も地元の旅館組合に加入したそうで、「もはや旅館です」ということだった。
まあそうは言っても電気も来ていない場所。山小屋としての機能や体裁を保ちながら、観光客の取り込みにも力を入れているということなのだろう。

翌日の天気がどうなるかだけが心配だった。前線はあいかわらず本州のど真ん中に停滞していて、いつ雨が降ってもおかしくない状態が続いていた。

この時点ではまだ槍に行くか、穂高にするか正直迷っていた。
実は20数年前、この地を訪れた時、徳澤から槍を目指したのだが、妻が初めての「高地」で体調を崩したのと天候が悪化して、槍岳山荘まで行きながら、テッペンを極めることなく撤退したことがある。今から思うと軽い高山病だった。この時は、いったん横尾山荘まで戻り、翌日、涸沢~奥穂高へ回りった。この時、ザイデングラードで滑落した人がいて、道すがらに血の跡がポツポツついていたのを思い出す。あとで新聞を見たら初老の一人登山者が亡くなっていた。

話が逸れた。さて、8月30日、朝。5時すぎに外に出てみると晴れているではないか。うっすらと雲がかかっているがところどころ青空も見える。槍に決めた。

息子にそう告げると、本人も納得。準備にとりかかる。5時半に小屋の朝食をとり6時ちょうどに横尾を出発。妻は上高地に戻るだけなので、ゆっくりだった。

横尾山荘の前には「←上高地 11k →槍ケ岳11k」とう標識が立っている。どちらに進んでもちょうど11㎞ということだ。もちろん槍に行くには標高差1,400mを登らなければならないけど。

小屋泊まりなので背中の荷はそう重くない。今回は湯沸しのストーブもコッフェルも持ってこなかった。中味は雨具と着替えが少々、行動食と宿に頼んだ弁当(これがパン食だった)、あとはヘルメットとストックを2人で1組、ヘッドランプなど小物だ。

水は十分に持った。槍沢で補給もできるが、水1.5リットルとスポーツ飲料1リットルを持った。
快調に梓川沿いを進む。槍沢小屋までは地図のコースタイムだと1時間40分。しかし1時間ちょっとで到着した。少しペースを上げ過ぎかとも思ったが、天気もまあまあ、体調もよく無理なく行けた。

槍沢小屋で小休止、5分程の休憩で再び歩き出す。ほどなく小さな幕営地につく。ここが地図上の「ババ平」なのか赤沢岩小屋(跡)なのか分からなかった。たいらで水もすぐある。テントを張るには絶好の場所だ。3人ほどが幕営していた。われわれは水を補給し、行動食を少し取ってすぐ歩き出す。

しばらく行くと、水俣乗越分岐に行きつき、谷は左に大きく曲がる。天気がよければ槍の頂上が見渡せるのだろう。あいにく雲にかかっている。ちらほら下ってくる人たちと出会う。6時過ぎに槍岳山荘を出れば、1時間半~2時間でこの辺になるのだろう。ストックを出してひたすら谷を詰める。

途中、雪渓も小さいながら残っていた。100mほど雪渓の上を歩いて右岸に取りつく。ここからは傾斜もきつくなる。それでも意外と足は軽い。

槍の穂先に最後の登り
しかし、高度は次第に上がり、傾斜もきつくなっていく。いつしか森林限界を超え、草もなくなり、石ころだけの登山道を進む。大槍山荘への分岐近くで、昼ごはんにする。横尾山荘の昼食弁当は、モダンだ。クロワッサンと野菜ジュース、アルミパック入りのシャケフレークなど行動食になっている。もの10分もかからず食事がおわり、ちょっと一息入れて出発。すでに槍岳山荘は見えている。ここからが最後のひと踏ん張りだ。

息子は3,000m級の高度にはあまり慣れていない。最後の登りは足どりが重くなっていた。息子を見捨て、振り切って山荘まで到達した。
ハッハハハ…。まだ負けておれんよ。

ちょっと遅れて息子も小屋前に到着。
山小屋前の椅子でひと休みして、荷物をおいて、山頂を目指す。天気があまりよくない。槍の穂先が見えたり、またすぐ霧で隠れたりしている。カメラとペットボトル、雨具、手袋だけ持ってヘルメットをかぶって岩場を進む。

足場を見ながら登っていたら、山の北側へ回り込んだ所で、ステップを踏んで一段上がった際に
頭を岩にぶつけた。結構ゴツンと。ヘルメットが初めて役に立った。さすがに岩場となると、息子の方がスムーズだ。

頂上では何も見えなかった。残念
最後の梯子を、順番を待って登ると山頂だ。祠(ほこら)は狭い山頂の一番奥にある。10数人いたが、ほとんど身動きできないほどの混雑である。ヘタすると滑落する。団体さんが下ったあと、ゆっくりするが、天気は霧が濃くなり、何も見えない。残念な山頂である。トホホ。

槍岳山荘に泊まるのは、確か89年ごろだったので25年ぶりくらいだ。その場にくると25年という時間が急激に近づいてくる。詳細な記憶はほとんど残っていないが、感じ方は、つい2,3年前のことのように思えてくるのだ。単なる懐かしさとはちょっと違う。かと言って強烈な思いでという訳でもない。うまく説明できないなんとも言えない「気分」だ。山にはそういう不思議さがある。

さて、山荘に戻ってもまだ正午だ。下ろうかとも思ったが、雨も降ってきて、足には結構疲れがきていたので、のんびりすることにする。長い午後を過ごすことになる。
山頂直下のハシゴを下る。もちろん一方通行

槍岳山荘は朝のベーカリーなど「近代化」の部分はあるが、部屋の布団はまだ「旧体制」だった。
重い綿の布団と毛布は25年前と変わらないように思えた。

 これは、剱山荘と剣沢小屋が近くで競争関係にあり、部屋の近代化を進めているのとは正反対だ。槍岳山荘グループは一体の小屋を経営していて、競争原理が働かないと言っては言い過ぎだろうか。談話室などはきれいで過ごしやすいが布団までは設備投資が回っていないように思った。

食事はまあまあだけど。
この秋、「カンジャニ8の明日はどっちだ」で槍岳山荘で修業する青年の話題をやっていたから見った人も多いかもしれない。