2012年2月27日月曜日

14位に沈んだ川内。ほくそ笑む日本陸連。東京マラソン

2月26日の東京マラソンで、川内選手は14位に沈んだ。その日のスポーツニュースも翌日の新聞もあえて見ていないので原因や彼の「その後」は知らないが、日本テレビの中継を見ている限りにおいては2つのことが分かった。

①日本陸連はほくそ笑んでいる。
前にも書いたが日本陸連は川内の存在には「戸惑って」いただろう。何しろ、お金と時間をかける日本陸連がエリートとして育てる(と、思う)実業団ではない市民ランナーの活躍は、彼らの面目をつぶすものでしかない。実際、福岡国際マラソンでの瀬古(陸連理事)での冷たいコメントはそのことを如実に表していた。今回、川内が25㌔に至る前に脱落すると、瀬古はほとんど彼にコメントしなくなった。
7分台を出した藤原(時事通信より引用)
「川内が遅れた!」と絶叫する実況のアナウンサーのコメントだけがむなしく響いていた。その中で、サブ解説の高橋尚子のコメントは的確だった。
「川内の存在は、間違いなく実業団選手のプライドをを刺激し、奮起につながった。その意味で彼の存在は大きい」と。
陸連所属の藤原の勝利(日本人2位)とタイムは陸連の面目を回復した。ただ陸連にとっては手放しで喜べないだろう。7分台を出した藤原は30歳。おそらく陸連的には過去の人だったはずだ。だから実業団の所属の斡旋もうまくいかず彼はフリーでプロ走者としてやってきたのだ。彼らの意中の選手たちが活躍したのかどうかは、分からない。藤原の頑張りは賞賛に値するし、見ていて、疲れを感じさせぬ走りには敬服した。(彼については、また別項で論考したい。)



②川内の誤算とおごり。
東京マラソンまでの数日、マスコミは川内を取り上げていた。読売、東京はスポーツ面で3回に渡る連載。朝日も囲み記事。NHKの首都圏ニュースでの企画等々、「市民ランナー」として、五輪を目標に果敢に挑戦するアスリートとして。
マスコミはどうして彼を取り上げるのか。東京マラソンが行われるまでは、五輪に一番近い選手であるというあたりまえの事実に加え、市民ランナーという称号のついた川内は読者・視聴者により近い存在として認識されているからだろう。彼が誰のコーチも受けず“独力”で勝ち取ってきたものは、それだけで市民感情を刺激する材料だ。彼の定時制高校での普段の仕事ぶりや公園を走る姿、また畳の自室でのトレーニング姿が繰り返し流されてきた。つまり彼はそうした自分を取材させてきたのだ。
川内はレースに出て、声援を受けることが一番の練習だとい言っている。メディアに露出することもまた、彼にとって発奮材料にしてきたのだろう。あえて7分台を目指すと宣言するまでに至っていた。
しかしそこに陥穽(落とし穴)があったように思う。

ひとは誰しも、「独力」で、ある程度のところまではうまくいくことがある。そうすると、その方法が一番と思い込み、冷静な分析や検討、改良がなされなくなる。いわゆる思考停止だ。うまくいっている時ほどその陥穽にはまってしまう。

事前記事を読んでいて、彼が福岡国際マラソンのあと、ハーフで自己ベストを出し、またフルも走っているというのを知って、シロウトの私もさすがに「走りすぎでは」と思っった。
人間はそれほど緊張感を保てるものではないし、身体的な疲労の蓄積もあったことだろう。
そのことに早く気づくべきだったのだ。しかし彼にとっては「レースに出続けること」が唯一の選択肢になり、他の方法論を考えることができなかった。これまで彼なりにうまくいっていたが故に、川内にもおごりがあったのだ。

彼にはもっと記録が伸びる素地があると思う。ただし、それは科学的なトレーニングを行って初めて可能なのである。市民の応援などという「精神論」では、とうてい太刀打ちできないことを知るべきだろう。もちろん陸連の「仲間」に入って彼らの言うとおりにしろとは思わないが、よき先達を得ることが必須だろう。もし彼にもっと記録を伸ばしたいという思いがあるのなら。

※五輪を目指すことがそんなに大切なのかどうか、私にはわからない。スポーツ報道を読んでり見たりしていて、五輪至上主義には違和感を覚える。このことについてはまた別の論考にしたい。ナショナリズムと国民性の問題として。

2012年2月17日金曜日

「プロ野球キャンプ」報道って何?ニュースは「ある」のではなく「作られる」のだ。

2月になるとテレビのニュースショーのスポーツコーナーやスポーツニュースでは「プロ野球キャンプ報道」というのが花盛りだ。ほとんどこれしかやっていなと言ってもいい。もともとスポーツニュースが嫌いなので気にすることがなかったが、生意気盛りになった愚息がスポーツニュースを見るので一緒に見てしまっている。(嗚呼)

そもそも「プロ野球のキャンプ情報」て、なぜあるのだろうか。おそらくまだ、サッカーやそのほかのスポーツが報道としてあまり盛んでなかったころ、2月のネタ枯れの時期の穴埋めとして始まったのではないか。それが今でも、相も変わらず続けられている。中畑清の言動を追いかけることが、何なの。一昨年、冬季五輪が行われた年は、こんなにキャンプ情報はなかったように思う。
サッカー(Jリーグ)で、キャンプ情報をこれほどまとめて分厚くするのを見たことがない。

プロ野球キャンプ情報のオンパレードは、マスコミ報道というものが、
常に「横並び意識」でなされていることが、本当に典型的に表れている。それと、「ニュースバリューとは、常に相対的なものであり、多くのニュースは“ある”のではなく“作られる”」ということを思い出させてくれる。
ぼんやりテレビを眺めてしまうと、そうした基本的なことさえ、つい忘れがちになる。
ほとんど意味のないものを見て貴重な時間を費やしてしまうことについて、
自戒を込めて「気を付けなければ。」

人はしばしば「反対」のことを言う。

かつて職場で、上司に企画を出すと、「ぼくは、こういうn好きなんだけど・・・」と言う輩がいた。ウブな私は、そうか気に入ってくれているんだけど何かが足りないんだな、と考えて、その企画を通そうとブラッシュアップして、再びその企画を出したりしたが、結局却下されていた。
「好きなんだけど・・・・」という言葉が「嫌いだ」と翻訳されることに気付くのにしばらく時間がかかってしまった。(バカだね)。

ヒトはしばしば考えと反対のことを言う。

小沢一郎という政治家は、よく「政策が一番」、「国家国民のため」と口にする(と報道されている)。小沢も「反対のことを言う」輩だろう。実はこの人にとって「政策」は一番のウィークポイントであり、だからこそ「政策が一番」とわざわざ言うことになるのだ。本人が意識しているかどうかは分からないが、新聞報道でこの人言動を見ているとそれがよく分かる。
政策を高い次元でよく考えている岡田や野田などは、「政策が一番」とは言わない。言う必要もないのだろう。それが政治家の本分だと分かっているから。

このことに関して、なぜか古いことを覚えている。
長嶋茂雄が読売“巨人軍”の監督を「解任」されてから、監督は、藤田、王、再び藤田となった。(この辺の事実う関係は覚えてなかったのでネットから確かめた事実うです。)
さて次の監督は誰かという時、マスコミは読売の総帥渡辺恒夫を追いかけていた。
この時、だれの名前が挙っていたかは覚えていない、広岡だったか、中畑だったか、誰かは知らない。でも長嶋も「候補のひとり」と目されていた。(確か。)

※若い人には想像もつかないかもしれないが、長嶋が再び読売巨人軍の監督をやるというのは、当時ではかなりビッグニュースになる話しだったのだ。

渡辺は、追いかけるマスコミに「監督は実力で選ぶ」とぶらさがりで言っていた。偶然、これを伝えるテレビのニュースを私は見ていた。渡辺の言葉を“真に受けた”多くのメディアは「長嶋の目はなくなった」というニュアンスで、次の監督選びを伝えていたように思う。
しかしフタを開けてみると、長嶋茂雄の再登板。野球ファンならずとも世間は驚いた。
この経緯と結果を見て「はは~ん」と思った。
渡辺は人気で監督を選んだと批判されることを恐れ、すでに意中に長嶋がいたからこそ、あえて「実力で選ぶ」とマスコミに流したのだ。つまり、誰もが「“実力”より“人気”の長嶋」と、思っていた中での、「実力で選ぶ」だったのだ。

渡辺の「反対を言う」ひと言は、長嶋を守ったと同時に、自分への批判も封じた。
言うまでもない。長嶋は実力があるから選んだのだから、このころ営業的にはおそらく下降気味だった中で、「人気者を選び、営業を優先した渡辺」と言われないですむ。
これは、渡辺恒夫の老獪な勝利ともいえるだろう。メディア取材は見事に彼の「反対のことを言う」戦術にはまったのだった。

「反対のことを言う」のは、他にも多々あるだろう。
中曽根の「死んだふり解散」なんかもそのひとつか。(詳細は知らいないけど)

「反対のことを言う」とは「ウソをつく」こと。ウソで検索したらこんな本が出てきた。
中身は知らない。読んでないから。

新聞・テレビの“否定的な物言い”がもたらしていること

あえて紋切型に言えば、マスコミの役割のひとつが「権力監視」であり、それにともなう「批判」であろう。勢い、新聞見出しやテレビニュースのコメントは「否定的な物言い」になる。もっと言えば、権力(と思われるもの)を批判してさえいれば、新聞やテレビニュースはカッコがつくものだった。長年マスコミはそうやってメシを食ってきた。
   読む側、視る側もそれはある種の「お約束」として、マスコミ報道を受け取る「暗黙の了解」があったと思う。だから「否定的に物言い」は少し割り引いて斟酌し、モノを見ていた。

しかし、この「否定的物言い」が最近は一段とエスカレートしているような気がする。特に3.11以後の報道において、そう思えて仕方ない。ポスト、現代、文春、新潮といった一般週刊誌は言うに及ばず、最近は週刊朝日がヒドイ。夕方から夜にかけて民放の「ニュースショー」をザッピングして見ていると、同様に「否定的な」紋切型の結語の仕方が目白押しだった。

“大衆”のリテラシーが低下し、物事を十分消化できない人々が増えると、このマスコミの「否定的物言い」は、どうもう真に受け取られてしまっているようだ。子どもがそうであるように。

子どもはマネをするところからいろいろ学んでいく。まだ十分なリテラシーが備わっていない子どもたちが「否定的な物言い」の新聞を読んだりテレビを見ていると、それが当たり前になってしまって、友人や家族との会話でも、否定的な言い回しが「ふつうのこと」になっていないか。

子どもとは一緒にニュースを視聴し、新聞の記事を共有し、話し合って「否定的物言い」の裏側を読み取れるように「解説」するようにしている。でないと、なんでもかんでも「世のかな悪いことばかり」と見えてきてします。

メディアに、権力におもねろとは言わない。(当たり前か)。しかし見出しの取り方や結語の言い回しひとつひとつが、ウブな子どもたちや、その親である専業主婦(という化石)たちに悪影響を与えているとことを、もう少し考えてもらいたい。

2012年2月3日金曜日

女子マラソン 重友梨佐は有望だ

ゴールする重友
(共同通信webより引用)
1月29日の大阪女子マラソンでは、有望と言われた福士が26㌔過ぎに脱落し、ダークホースと言ってもいい重友梨佐が優勝した。24歳の彼女に将来性を見た。

驚きだったのは、ゴールした後だ。3分もしないうちに行われたお立ち台でのインタビューで、ひとつも息が乱れていない。とても42.195㌔をいま走ってきたとは思えない表情と息遣いだった。そしてすぐ中継していたCXの仮設スタジオでの出演。ここでも平然と“普通に”話しをしていた。マラソンを見ていてこれほど驚いたことはない。

男子と同様女子マラソン選手の公式発表の身長・体重からBMIを調べてみた。大阪女子マラソンの公式サイトに掲載されていた体格と
有森、高橋はwebのプロフィールから拾った。この2人の体格は現役時代の最盛期のものなのかどうかは分からない。



選手名順位年齢身長体重BMI標準体重
重友梨佐1241685017.7 62.1 12.1
タチアナ・ガメラシュミルコ2281705117.6 63.6 12.6
野尻あずさ3291564317.7 53.5 10.5
堀江知佳4301614517.4 57.0 12.0
嶋原清子5351544318.1 52.2 9.2
アイリーン・モガカ7271674616.5 61.4 15.4
福祉加代子9291604517.6 56.3 11.3
野口みずき 331504017.8 49.5 9.5
有森裕子  164.54717.4 59.5 12.5
高橋尚子  1634617.3 58.5 12.5


面白いことに、ほとんどの選手のBMIが17台だ。体脂肪率が分からないので、確かなことは言えないが、女子のトップ選手はBMIとしては、ほとんど変わらないと言えるのではないか。
かつて野口みずきがアテネ五輪で優勝した時、体脂肪率が4%というのを何かで読んだ。
BMIが同様の彼女たちの体脂肪率がどうなっているのか気になる。
もっと言えば、女子マラソン選手の場合、トップに入る必要条件として、少なくともBMIがこの17台でなければならないと言えなくないか。
これは先日検討した男子マラソン選手と違いがあるように思う。男子の場合は必ずしもBMIは均一ではなかった。

重友は、主な日本人選手の中では一番身長が高い。体格的にも有利であり、有望だと思う。走りのスタイルがいいのか悪いのか、マラソンビギナーの私にはわからない。が、リズムが一定なことはわかった。一定のリズムで走ることが重要だと、複数の本で読んだ。確か5キロごとのラップもあまり変わらず走ったと記憶している。

そして、次にかける野口。身長150㌢のあの小さな体で走る姿は、私は好きだ。頑張ってもらいたい。大柄な選手を凌駕する彼女の走りを見たい。どちらかというと小柄な選手にシンパシーがわくのは、私自身が小柄だから。