2015年6月30日火曜日

錦織圭はテニスを憎んでいる。だから、強くなろうとしている。

 全英オープンが始まった。
言うまでもなく日本の報道では、錦織圭がどこまで行くか、注目が集まっている。先日、NHKでは特集番組で錦織とジョコビッチの闘い(戦いではない)を“ビッグデータ”で分析していた。

 年に1日か2日しかテニスをしないシロウトの身には、技術的なことはあまり論じることができない。仮に少しばかりウンチクを述べたって、それは、床屋談義のレベルだ。それより、彼の「精神力」に注目したい。

 錦織の目は、テニスを憎んでいる目だ。彼は心の底ではテニスを好きではない(かもしれない)。だから彼はあれほど闘えるのだ。彼は対戦相手と「戦って」いるのではなく、彼を苦しめているテニスという魔物と「闘って」いる。
 
 松岡修造も、かつて確かに強かった。体格も欧米人に伍していて、当時多くのテニスファンが彼に期待した。しかし彼は、テニスを愛していた。そして性格としてサービス精神があり、周囲を楽しませるのが、無意識として(フロイト的に言えば「前意識」)働いていた。だから彼はいつも相手と戦うことを楽しんでいたのだ。それはそれで悪くない。しかし限界でもある。

ネットより「引用」
錦織は違う。彼は幼い時からテニスという魔物と出会ってしまい、それと闘うことを運命づけられたのだ。

 彼がアメリカのテニスアカデミーに留学したのは、テニスと闘いたかったからだ。それは「テニスを究める」なんていうレベルではない。どこにゴールがあるのか分からない奥義に分け入って退治しようと、幼心に思ったのだと思う。

 彼がいまやろうとしていることは、テニスが好きか嫌いかというレベルを超越している。おそらく今は、テニスを憎んでさえいる。

 しかし彼はその強靭な精神力があるから、憎いテニスに立ち向かい、ひたすら上を目指そうとしている。その闘いが良い結果を生んでいるのだろう。

彼を見ている(と言ってもテレビジョンで映し出される範囲ですけど)、決して愛想がいいという訳ではない。ファンあてのプロとして、メディアには大人の対応をしているが、それは松岡のように心からファンサービスがしたい訳ではないことは明らかだ。

 でもそれでいい。だからこそ彼の必死さがズンズンと伝わってくる。悔しかったらラケットをコートに叩きつけてよい。彼はテニス、ひいては自分自身と闘っているのだから。そういう強靭な精神力の彼を見習いたい。これが本当の闘う姿だ。

もちろん錦織だけでなく、トップに連なる選手はみな同じだろう。
コーチのチャン氏がこんなエピソードをインタビューで言っていた。
錦織が、ジョコビッチか誰かトップの選手を尊敬していると言うので、怒ったという。これから倒そうと言う人間を尊敬してどうする。そんなことでは勝てない、と。

「テニスが好き」「トップ選手が好き(=尊敬)」。
「好き」は人の心を優しくする。それは、あるシーンでは必要だが、闘うシーンでは邪魔な思想だ。
憎んでこそ、勝てるチャンスがあると思わなければならない。

結果がどうであれ、私は錦織の「目」に注目して全英を見たい。あまりテレビ観戦する時間はないけど。