2012年10月23日火曜日

東京から「山形そば」の味が消えてゆく

東京・霞ヶ関ビルに「出羽香庵」という山形そばの店があった。この店はかつて虎ノ門の三井商船ビルの1階にあった山形プラザ(県のアンテナショップ)の中にあり、経営は山形のそば屋の老舗、庄司屋が運営していた。
http://tabelog.com/yamagata/A0601/A060101/6000003/
山形の「庄司屋」外観 駅から300メートルほどだ

庄司屋の店内 この席で何回そばを味わったものか
庄司屋の板そば
勤務が新橋近くになったので久しぶりに行ってみようと思っていたら、今年2月に閉店してしまっていた。ビジネス街の経営なので土日が休みで、なかなか行けなかったからなおさら残念だ。

ひるは結構サラリーマンが入っていて、そこそこ繁盛していたんだろうけど、なぜ閉めてしまったのか。






もうひとつ山形ゆかりの店が閉じた。神田神保町にあった。「そば切り源四郎」だ。
これは山形・大石田町の次年子にある「源四郎」で修行した人が開いていた店で、「山形の味」を引き継いでいた。8月下旬に平日に行ってみたら、なんと7月に閉店していた。
http://www.aa.e-mansion.com/~kawada3/y-soba/page_80.html

今はなき「そば切り源四郎」
なんだか残念で涙が出てきてしまった。食べログの情報によると、今後千葉の方で新たに店を出すそうだけれども、それも決まっていないようだ。

ちょっと講釈を述べる。
大石田は最上川の中流域にある川沿いの小さな町。その昔(なんとアバウトな言い方か)、北前船が最上川の河口の酒田から遡ってきて、京都の文化を伝えたという。
次年子は、大石田の中心部から車で20分ほど山に入った集落。
90年代はじめ、3件のそば屋があった。
手打ちそばが食べ放題で、店に入ってから1時間以上待たされることはざら。その間は出された漬物とお茶で時間をつぶす。漬物も美味しいので
ようやくそばが出てくるころには、腹いっぱいなんてこともあった。(ちょっと大げさか)。ともかくここのそばはそれなりに美味しかった。

源四郎の鴨汁と板そば
確か地元のNHKが「きょうの料理」で取り上げたことから、この山奥の「次年子そば」に俄然注目が集まり、人が押し寄せるようになった。そしてそば屋も増えてきた。

山形では「そば街道」と称し、そばをひとつの観光資源にして売っている。詳しくはサイトを見てください。でも玉石混交で、どのそば屋もウマイわけではないようだ。にわか「蕎麦打ち名人」も結構いる。一見さんには見極めは難しいかもしれない。




さて、「山形のそば」とは、それは私にとってふるさとの味と“味わい”であり、言葉では言い表しにくい、感情と感性が入り混じった「思い」である。

東京中を探せば、山形そばの店はほかにもあるのだろうが、少なくとも都心や城南地域には、気軽に入れる店が松屋銀座裏の「山形田」以外になくなってしまった。
どこかあったら教えてほしい。


考えてみると、そば屋の経営とは結構たいへんなんだろうか。まず単価が安い。蕎麦に専念している店ほど、他の料理が少ないため、夜の酒宴で利用する人も少なく、稼ぎがあがらない。
そして何よりも「手打ち」の大変さだろうか。一回の打ちで何人分打てるのか知らないけれども、蕎麦打ちは見ていると結構重労働だ。これも毎日何回も行うのは、大変だろう。いろいろ同情してしまう。

東京には何も山形そばでなくても美味しいそば屋は他にもあろう。確かに「味」だけにこだわるのなら、それでいい。が、山形そばはB級グルメとまではいかない、しいて言うとA’(ダッシュ)級グルメとして、なくてはならない存在であった。私にとっては。

※そばについては別項で続く(つもり)です。



2012年8月23日木曜日

飯豊連峰 14歳の息子と石転び沢を登る 2012年8月10日

山形・飯豊連峰 石転び沢を息子と2人で登った。
8月9日、飯豊連峰の登山口にある飯豊山荘に入る。
http://www.siroimori.co.jp/iidesansou/index.html
飯豊山荘の夕食 なかなかおいしい

ここはなかなかの宿だ。近くの国民宿舎、梅花皮荘(かいらぎそう と読むのだ)
と同系列の経営のようだが、部屋はきれいだし、食事もよい。BSだけだけどテレビも写り、携帯電話も通じる。

受付をしてくれ、食事の準備もしていたひとりの若い女性がいた。小柄で清楚な美人。とても山奥の山荘に似つかわない存在だ。言葉遣いも地の方言ではない。
ふつう、こういうところは地元のおばちゃんたちが働いている。実際飯豊山荘も何人かの気のいいおばちゃんたちが何人か働いていた。
どういう人なのだろうと、翌日雪渓を登りながらも気になった。

さて、本題の登山。
飯豊山荘 2012年8月9日
当初の予定はここに1泊したあと、石転び沢を詰め、稜線の梅花皮小屋に1泊し、そのあと飯豊本山や大日岳をまわり、もう1泊稜線の小屋に泊まって大日杉登山口に降りることを考えていた。
しかし、親族が「死にそう」ということで、急遽、石転びをつめて梶川尾根を下る1泊2日の行程にすることになった。

息子とふたりで小屋泊まり縦走をするのは去年の朝日連峰についで2回目だ。実は私には少し不安があった。もちろん年齢をひとつ重ねたこともあるが、それなりの重量を背負っての登山は1年ぶりだったこと。その間に再びぎっくり腰をやっていたことだ。

温身平から石転び沢に向かう途中の砂防ダム
石転び沢は危険だと言われているが、1度ほとんどカラ身で稜線直下まで行ったことがあり(16年も前のことだけど)、文字通り石が転がってくるのと雪渓の踏み抜きと最後の急登を気をつけていれば、あとは体力勝負だと思っていた。

記憶はあてにならない。16年前、ここにきた時、砂防ダムの堰堤をすぎると20~30分で雪渓に出たように思っていた。ところがここから雪渓まで2時間半もかかった。地図のコースタイムを見ればその通りなのだが、「思い込み」が、重要な情報を見落としていた。

コースタイムより少し遅れて雪渓の取り付きに到着。6本爪クランポンとヘルメットを着用。そしてシングルストックで登り始める。

砂防ダムを超えて1時間半。ようやく見えてきた雪渓
はじめは比較的緩やかな傾斜だ。しかし単調な直登は、けっこうくたびれる。息子を引っ張る形で先頭を行く。30分ごとに、落石の危険がないかどうか見ながら休む。
雪渓の上は涼しく快適。時に吹く強い風は寒気すら感じるほどだった。雪渓上部がちょっとやっかいだった。雪渓が切れるところの強さが分からない。この日われわれより先に登ったのは、単独行くのひとりだけ。踏み跡がよく分からない。あと下ってきた5人パーティーと出会っただけだ。ストックでちょっと突っつきながら慎重に土の上に移る。そこでくクランポンをはずした。
息子は少しくたびれた様子。気を抜くと危ない。クランポンを外してあげ、それを私が持って、時に手を差し伸べて持ち上げた。安全なところまで約15分。ようやく緊張がとけてほどなく稜線の梅花皮小屋にたどり着く。
 管理人にひとり1,500円を支払い、2階に荷物を広げる。水場は近い。豊富な冷水が流れている。クランポンの泥を素手で落としていたら、手が凍るようだった。

雪渓下部の取り付きから 傾斜はそうないように見えるが・・・


雪渓上部まで上がってきた。結構傾斜がある。6本爪で登る

上部から見た8月10日の石転び沢

飯豊は高山植物の宝庫だ







梶川尾根を「下る途中 石転びを見る

稜線からの眺め



梶川尾根は結構キツイ
11日 梶川尾根を下る “緩い”のはここだけ あとは急坂だ

2012年8月17日金曜日

岩手4区 小沢一郎の地元をゆく 彼は旧来の土建政治家でしかなかった

夏休み、岩手の名峰・早池峰山に登った。日帰り登山のできる手軽な山だが、結構遠いのでこれまで行く機会がなかった。早池峰山は岩手県の花巻市(遠野市や宮古市にもかかっている)にある。
立派な道に驚く(速度超過にご注意)
そう、ここは小沢一郎の地元だ。この地域を行くと、小沢は単なる旧来形の土建政治家でしかないことが非常によくわかる。

 花巻市街地から早池峰山へ向かう国道や県道はたいへんよく整備されていて、快適だ。ほとんど人家もないところが多く、道幅も広いため、“安全”に70~80㎞/時で走ることができる。
本当に人がいない。しかし道だけはものすごく整備されている。

 途中、何のための建物なのかわからない小屋で、写真をとった。一郎さんのポスターである。まだ民主党時代のものだった。こうしたポスターは道路沿いのいたる所で目にすることができる。花巻の中心街でも商店の店頭のガラスによく張ってあった。

いたるところで一郎さんはほほ笑みかえてくれる
同じ地方の地域でもお金の配分が少なくところと多いところがある。人口規模も産業構造も似ていながら恵まれたところ、恵まれないところの差。
一郎さんのポスターに「公正な社会、ともに生きる国へ」とあるのが、皮肉にしか見えない。
自分の地元(選挙区)だけは「特別」にしておいて、あとは「公平にどうぞ」ということなのだろう。

別に花巻市民が悪いわけでも民度が低いわけでもない。どの地域でもだれでも自分の住む場所が豊かになることを望んでいるし、地域に雇用が生まれたり活気が出ることを願う「権利」がる。

何の小屋か不明 バス停でもなかっら(と思う)
だが、と、考えてしまう。経済で言えば「合成の誤謬」最近の言い方で言えば、「部分最適」とでも言うのだろうか、それが日本全体(とりあえず日本という器で考える)にとって、はたしていいことなのかどうかは別問題となろう。

花巻は「道の駅」も充実している。宿泊したJR東日本の系列が経営する「フォルクローロいわて東和」の脇にある「道の駅 東和」。8月7日の午後2時すぎ、100台は駐車できるスペースに、営業車らしきライトバン数台と、大型トラックが2台停まっていた。店をのぞくといわゆるお客さんはゼロ。かわりに地元の人らしき2人が、店の奥まった板の間の小上がりで昼寝していた。なんとものどかな光景だ。ホント。

みちの駅「はやちね」
早池峰山登山口に行く途中にも「みちの駅 はやちね」がある。行きに通った時間は午前8時ごろだったので、車が一台もなく店も閉まっていたのは気にならなかったが、帰りに通った午後3時ごろも、やはり車は数台停まっているだけだった。
非常に立派な「建物」と広い駐車場を備えているが、営業しているのかどうかさえ分からなかった。
道の駅を推進する国土交通省は、なんとも太っ腹だ。

Wikipediaによると、「道の駅は、道路管理者の国(地方整備局)や都道府県が基本的な施設である駐車場やトイレを整備し、市町村、またはそれに代わり得る公的な団体(ほとんどは第三セクター)が地域側施設を設置する形が取られる。」とある。
つまり、税金で基本施設が整備され、自治体の関係企業が運営するという形をとっている。なんとも安易な設置だ。

○フォルクローロはJR東日本ホテルズが経営する「長期滞在型リゾート」をうたったホテルだ。

http://www.jre-hotels.jp/ff/

HPによるとファミーリオと合わせてJR東日本管内に8か所あるが、ここ花巻市周辺には旧東和町と隣接する遠野市の近いところに2か所にある。なぜだろう~~。としばし考えてしまった。

JR東日本はよっぽど花巻周辺がお気に入りのようだ。何か深い訳でもあるのだろうかね。

東北新幹線「新・花巻駅」
JRと言えば、東北新幹線の「新花巻駅」にも驚いた。お昼をどこかでたべようと地図を見ながらウロウロ走っていて、新幹線の駅に行けば、ちょっとしてお店くらいはあるだろうと向かった。駅にはそれこそ何もなかった。あるのは広大な駐車場と駅前のドライブイン風の食堂兼土産物店。わざわざここで食べようと思うにはちょっと無理があり、やめた。

新花巻駅は釜石線と接続しているが、駅は無人駅だ。ちなみに釜石線は日に13本、盛岡と釜石を結んでいるようだ。

新幹線の駅で、これほど辺境にある駅を私はしらない。なぜここに駅ができたのか。理解できなかった。

花巻は言わずとしれた宮澤賢治ゆかりの地だ。(生地なのか暮らしただけなのか調べてないので、“ゆかり”とだけ記した) これがまたスゴい。賢治関係の箱モノはたくさんあり、花巻は賢治を売り物にして観光に力を入れているのがよくわかる。

http://www.city.hanamaki.iwate.jp/sightseeing/sightseeing_institution.html
花巻市の観光施設一覧のweb siteだ。
○宮澤賢治記念館 ○宮澤賢治イーハトーブ館 ○宮澤賢治童話村 など新渡戸稲造関係の記念館の類や歴史博物館、歴史博物館、民族資料館など 市が掲げる「観光施設」は40近くある。
中にはアイスアリーナもあったりして、花巻市は文化、スポーツに非常に力を入れていることがわかる。

観光だけではない。旧東和町の中心部には立派な県立病院と老人保険施設があった。旧東和町の人口は2006年時点で約1万人(Wikipedia)だ。どうしてこんな予算があるのか不思議だ。

こうしたことを書き連ねても尽きることはないし、無意味かもしれない。
とにかく分かったのは、小沢一郎の地元は、私の知っている他の地方とはまったく違う、別世界だったということだ。

ちなみに早池峰山は8月上旬だというのにまったく賑わっていなかった。頂上で出会ったのはわずか数組。それでも震災の影響のあった去年に比べて人は多いと管理事務所の人が言っていた。

ついスピードが出てしまうような道です

2012年8月2日木曜日

北島「自分に対しての挑戦だった、この4年間は」に喝采。

時事通信より「引用」
ロンドン五輪200m平泳ぎで、立石が銅、北島は4位。レース後のぶらさがりインタビューで、北島は「3連覇というよりも自分に対しての挑戦だった この4年間は」「悔しいですけど メダルに届かなかったというのは」「でも(立石)諒がとってくれたので悔いはないです」(午前630NHKニュースより)と語った。


インタビューに答える北島の顔は、やっと“本当の自分の気持ち”を吐露できたという、穏やかで充実感すら満ちていた。周囲=熱狂する小市民・大衆とそれを煽るメディアの前で、(もちろんスポンサーへのカオもあっただろうが)3連覇を目指すという以外に、言えることはなかったのだろう。
もし北京五輪後、「これからの4年間は、金を目指すのではなく、自分自身の(精神や肉体)への挑戦です」と言ったら、スポンサーは離れるだろうし、大衆もメディアも振り向かなくなる。プロスイマーとしては、その選択肢はなかったことは容易に想像がつく。
でも彼は、自分自身と戦ってきたのだ。欧米の選手に比して劣る体格、そして年齢、練習による鍛錬とテクニックだけではとても勝ち目がないのは、冷静に考えればわかる。
しかしメディアは北島を勝手に「3連覇を目指す闘士」として勝手に祭り上げてきた。なぜか。そう言うことが新聞や雑誌の部数やテレビジョンの視聴率向上に跳ね返る(と思っている)からだ。
そして「熱狂」を求める愚かな大衆も、そのメディアといわば相思相愛だったのだろう。

「自分に対しての挑戦」、換言すれば「自分自身と戦う」ことが、いかに困難で苦悩に満ちているか、フツーの人ならだれでも経験することだろう。それは受験や試験の勉強の時、ランニングでサブ4やさぶ3を目指すとき。見渡せば「自分」の回りには常に「ラク」な誘惑があり、悪魔が囁いている。
それを、自らの意思だけで振り切ることはそう簡単ではない。だから、一人で勉強するのではなく、講習会に通ったり、仲間作りをして走る「目標」を立てたりするのだ。
反対側からみれば、「金メダル」に熱狂する大衆は、自分自身と戦ったことがない人なのかもしれない。

7月31日朝日新聞より「引用」
さて、きょうの夕刊で新聞各紙はどう書くか。どういう見出しを立てるか興味深い。

その前に朝日の記事を紹介しておこう。7月31日、西村欣也編集委員による署名記事「けっして敗れたのではない」だ。
この方はずっと北島を見てきたからこそ書ける冷静な筆致だと思う。

2012年7月31日火曜日

100m平泳ぎ、北島に「完敗」はないだろう 無神経な新聞

ロンドン五輪 男子100m平泳ぎで5位に“入った”北島。7月30日夕刊各紙は「完敗」と伝えた。

新聞見出しは罪深い。
●朝日:北島完敗 世界と差、泳ぎに迷い もがく北島、右肩に違和感「バランス一気に崩れた」、「超高速」の潮流乗れず、等々

●毎日:北島完敗5位、最後の微調整失敗、北島終盤に失速、「泳ぎかみ合わぬ」等々

●読売:北島伸びず完敗、泳ぎに迷い「五輪は難しい」、ライバルの訃報 心に穴 等々

●東京:北島100平は5位、「自身持てる所なかった」、高速化の波 北島のむ 等々

朝日新聞

朝毎読東を見比べると(サンケイは夕刊がないので除外した)、東京以外は「完敗」という表現を使っている。

確かに前の金メダリストなのだから、5位は「完敗」なのかもしれない。

しかし、勝手に事前に3連覇だとか、偉業にっ向かってとか「期待」ばかりしておいて、失敗する奈落の底へ落とすような表現になるのはどうかなんですかね。

読売新聞
こういうのを「手のひらを返したように」というのだろう。マスコミの悪いところだ。その点東京新聞が一番冷静に伝えていた。見出しとしては。

北島は1982年9月生まれなので、いま29歳。もうすぐ30歳だ。トップスイマーとしてここまでやってこれたこと自体、賞賛に値するだろう。かつてこのブログで「年齢との戦いに勝った北島」と書いたが、五輪という大舞台では力及ばなかった。でもそれは責められることではないだろう。調整の失敗とか、心にスキとかもっともらしい理由は後出しジャンケンならだれでも言える。

毎日新聞
「完敗」と書く神経にはカチンとくる。プロスイマーで自身も金を狙うと言っていたので、どんな批判を浴びせてもいいとでもいうのだろうか。

毎日は、「年齢が原因なのか」、「決勝8人の平均年齢は25.75歳。複雑なテクニックが要求される平泳ぎは他の種目に比べ、若さや勢いだけでは勝てない。」と書き、29歳という年齢が理由ではないと言いたいらしい。この記事の見出しは「最後の微調整 失敗」だと。あまりに酷な言い方ではないか。「狙いは金以外にはない。苦しみながら攻め、そして敗れた」(読売)というのが、まともな見方だ。

高速化の問題を詳報していたのは東京だった。朝日も見出しの割には、高速化の問題をよく書き込んでいた。高速化とは、前半50mを「パワフルに突っ込み、後半を高い運動能力でなんとか維持する泳ぎ」(朝日)のことだ。要するにテクニックより力強さで勝負ということだろう。こうした作戦は
去年の世界選手権で優勝したダーレンオーエン(ノルウェー)が取り入れて、100m平の潮流になった。という。東京は、それをわかりやすいイラストで説明していた。(これは共同の記事だ)

東京新聞 共同配信の記事
朝日や東京(共同)の記事を読むと、平泳ぎは去年からすでにパワースイムに変わっていて、テクニックとパワーの両者を備えなければ勝てなくなっていたことがわかる。

優勝したファンデルバーグは北京五輪後、平井コーチのもとを訪れ、指導を仰いだという。24歳、身長184cmの彼がテクニックを身に付けたパワースイムをすれば、身長177cm(五輪前の公式発表)の北島が勝つのは難しいことは、容易に想像がつく。

これまで体格差をテクニックで補ってきた北島。負けても賞賛に値すると私は思う。

彼はロボットでも操り人形でもない。北京五輪後、悩みながらの自分で泳ぎと向き合ってきた姿勢は人として当然のことだ。
(平井コーチのもとを去ったことが敗因という日刊ゲンダイなんかは論外だ。イエロージャーナリズムの最たるものだろう。)

東京(共同配信)

地下鉄の考現学② 浅草線にみる「民度」

浅草線の乗客はマナーが悪い。通勤に都営地下鉄を使うようになって感じた、率直な印象だ。東急線(池上線)と都営浅草線、都営三田線の3線を利用するようになって、浅草線利用者の「民度」の低さを感じている。同じ都営地下鉄でも、三田線より浅草線の方が「悪い」とも感じる。
「それはなぜか」を毎日通勤時に少し考えた。単なる「偏見による思い過ごし」なのか、「根拠ある傾向」なのか」

○よく言われる(それが正しい認識なのかどうかの判断は各々に任せるけど)、モラルの意識が比較的高い山の手を走る電車と雑多な方々が多い下町を走る電車の違い。これは、科学的に証明は難しいだろう。乗客一人ひとりの「民度」を測ることはできないので、実際そうだとしても「印象論」を超えることはできない。

そこで、具体的な事実に即して考えてみた。

これはホームでのマナーポスターですけど

○電鉄会社に「モラル向上」の意識があるかどうか

▼東急線は、まがりなりにも乗車マナーについて、たびたびアナウンスしている。(それが実効性があるかどうか、またどれだけ本気度があるかどうかは以前、「東急電鉄という体質」として批判文書を書いたけど)。おそらく乗客からのクレームが多いからだと思う。東急独自のマナー向上ポスターも駅構内には張ってある。(掲載写真は、スマホに夢中のバカと泥酔者向けのものですけど)

都営地下鉄ではモラル向上のアナウンスは聞いたことがないしポスターも見たことがない。唯一見たのは、「駆け込み乗車はおやめください」というもの。電車の定時運行しかアタマにないことが伺える。
都営地下鉄の職員は「公務員」。乗客へのサービスのインセンティブが機能する組織ではない。乗客を乗せてやっていると意識なのだろう。
都交通局のweb site を見ると、「サービス向上を目指して」という項目があり、過去4年間の「改善事例」が写真入りで掲載されている。しかしマナーに関する「改善」や啓蒙(この言葉はキライだけとあえて使います)の事例はまったくない。
○相互乗り入れ線の違い

▼浅草線は、西は京急、北は京成電鉄や北総線などと直通運転をしている。電車内の広告を見ると、東急単独線とは明らかに違う傾向が見てとれる。なぜだか、東京下町、千葉方面の広告が多い。

▼三田線は東急目黒線と相互乗り入れている。(目黒線は、南北線経由で埼玉高速鉄道とも接続している。)三田線の乗客は、“マナー向上”にセンシティブな東急の影響を受けている。だから浅草線より三田線の方がマシに感じるのではないか。ただし、京急や京成がどういう対応をとっているのかは調べていないので論拠は弱いかもしれない。

電車の車両の構造的な問題。
浅草線の車内 netより引用
混雑した電車で一番アタマに来るのは、扉の脇に突っ立っていて、乗降の邪魔になる輩だ。
「ここは私の場所ヨ」と言わんばかりに占領して、乗降客の妨げになっていることに頭が回らないバカは意外に多い。

これは、東急でも山手線でも営団でも、もちろん都営地下鉄でも一様に見られる。ではなぜ都営地下鉄はマナーが悪い乗客が多いという印象があると考えた時、扉と座席の配置の構造上の問題に行き当たった。

浅草線の車両、特に古いものは、扉と脇の座席の間に余裕がない。座席の横の仕切りからすぐ扉だ。ここにバカが立ったままだと、乗降時にひとひとり分のスペースが失われ、乗り降りが非常に非効率になる。いわゆるボトルネック状態だ。

京急、京成と相互乗り入れし、どの車両がどの会社のものか、また新旧さまざまな車両があるので一概には言えないが、浅草線を走る車両はドアと座席の間に余裕がない構造が多いようだ。だからヒトがひとり扉の所に立つだけで大変な妨げになる。

一方、以前乗っていたた山手線や東急池上線の新車両は、座席と扉の間に2,30センチの余裕があるものがある。そういう構造だと、ここにヒトが立ってても、乗降時、扉が開いた時、それほど妨げにならない。乗り降りが比較的スムーズに行われる。

この違いが、「浅草線の乗客はマナーが悪い」という印象をもたらしているのだろう。車両の構造は日々工夫されて新しいものだ次々出てきている。乗客側から見ると、座席の構造が一番「改良」されているように思う。ロングシートの間にポールを立てたり、座席の色を変えたりして、ひとりで2人分の座席を占拠しないような工夫や、最近ではJR東日本が開発した「足を組ませない」座席もある。まだ実際に見たことはないけど。

それに比して、扉と座席位置の構造に、工夫がある車両はあまりない。比較的新しい車両でも扉のすぐ脇まで座席を配置しているものもある。一定の座席数の確保や扉位置を変えるのがホームドアとの関係で難しいなど、いろいろ事情もあろう。

しかし、乗降をスムーズにすることは、乗客のイライラを解消するだけでなく、乗降時間の短縮にも貢献し、「定時運行」にも利することだろう。

利用者のことなど考える“余裕”も“気持ち”もない都営地下鉄の職員さん。マナー向上への取り組みは定時運行にもなることを、ちょっとは考えたらどうかね。

2012年7月30日月曜日

暑い盛りに、丸山真男、熱い「日本の思想」を読む

子どもは夏休み。仕事をする気分もなんとなく休みモードのスイッチが半分入って、身が入らない。通勤時に読む新書も、ここのところあまり、コレっと言ったものが見つけられない。
書評でもって目をつけいたものを書店でパラパラめくってみるけど、どうしても「ヨシ、買って読もう」とならないものばかりで、少々困っていた。そんな「お悩み」の時に思い出したのが、半年ほど前に買っておいた丸山真男「日本の思想」(岩波新書)だった。

実は「日本の思想」を読むのは2度目である。もう30年前、学生時代に買って読んだ。と、言うとウソになろう。読み始めたものの途中で挫折したからだ。最期まで読み切ることがなかったと記憶している。正直なところ。

この新書はフォント(古いので写植と言いた方がいいのかもしれない)のポイントが小さい。老眼には慣れるまでけっこうきつい。それも電車での立ち読みには。それでも学生時代に読み切れなかった「後ろめたさ」から読み始めた。
もっとも学生時代に読み切ったとしても、それは、内容を理解せず、ただ文字を追っただけに終わっていたかもしれない。

今回はともかくも読み切った。そしてある程度内容を「理解」できた。たぶん。
丸山真男の思想は、50年たっても古くならず、今の時代でも十二分に通用する論理であった。いま忘れないように、<メモ>をまとめている。

この新書の奥付きをみると、なんと初版は1961年11月20日。購入したものは93刷、2011年5月16日だ。あとがきをみると「日本の思想」の初出は、1957年(昭和32年)11月の「岩波講座『現代思想』の第11巻「現代日本の思想」所収とある。

半世紀以上たった、いわば「古典」だが、ちっとも古典ではない。今月の総合雑誌のこの文書が載ってもちっとも違和感がないと言えるほど、新鮮だった。

「古典」は、古典として読む時、ふつう読者は、ある程度その著書が書かれた時代背景を頭に入れながら読む。しかし「日本の思想」は、その頭の作業がなくても読める。もちろん1960年代の時代背景-終戦からまだ15年程しかたっていない時期であり、高度成長の萌芽の時期、60年アンポという政治の季節であることなど-を知っていればより理解は深まるが、いまの政治状況、社会状況しか知らなくても読める。

試しに14歳の愚息に一節を読ませた。(続く・・・)

2012年7月29日日曜日

「本当のこと」を言うと批判される社会。原発聴取会に見る日本人のメンタリティー

7月17日 朝日新聞より引用
野田首相が、「消費税はもっとも公平な税」だと言ったら“批判”されたという記事を紹介した。
湯浅誠さんが、総理府の参与を辞任するに際して綴ったブログで、市民運動側の縦割りの問題点を指摘したら、市民運動の一部の人々が湯浅さんを“批判”したという。

 2030年のエネルギーの原発比率を決める、住民参加の公聴会で、中部電力の社員が個人として参加して、福島第一原発の事故では「放射能による一人の死者もまた、重篤な放射線障害の被害者も出ていない」と言ったら、反原発の方々から“批判”された。
どれも、言った(書いた)ことへの論理的“反論”ではなく、“批判”をしているだけだ。(少なくともそのように見える)。
これって、やっぱりおかしくないか。

「あなたの言っていることは、論理的にこれこれの矛盾がある。論旨の進め方の欠陥がある。また事実認識に間違いがある」という「反論」であれば、それはスジの通ったことであり、言った方とある意味で「対話」が成立して、発展的論争ができよう。
しかし、(単に)批判することは、感情的な反発でしかない。自分の気に食わないことは、とりあえず批判しておく。そうすることによって自分の「面目をどうにか保ち」、「立ち位置を改めて確認」するだけの、いやしい行為でしかない。
本当にイヤな世の中である。日本人のメンタリティーは底が浅い。
同様のとりあえずの“批判”は、けっこう様々なところにある。政治家の伝えられる言動は、こうしたことは日常茶飯事だし、新聞や雑誌、民間放送の(底の浅い無能な)アンカーマンもしかりだ。

この際、もう一度確認しておこう。
消費税は、所得が完全には把握できない状況では「もっとも公平な税」であることは論を待たない。
消費税が高いと低所得者に負担が大きいというのは、だれでもわかるし、そのことを否定しようとは思わない。ものごとは「正しいし事実把握」からでしか「最適解」は導きだせない。消費税は公平な税だという認識をまず市民が持つことが、「税と社会保障改革」の第一歩であろう。
先日、新橋のそば屋で昼飯を食べていたら、ビジネス客が「領収証」をもらっていっていた。店の方もヒルメシ時の領収書の発行も手慣れたもののようだった。つまりここから「連想」できるのは、経費で落とせる法人企業(主に中小だろう)では自分たちのメシ代も経費にしていく。ちりもつもれば結構な額になろう。そして法人は「経費がかかり赤字」となり、法人税を払わなくて済む。という構図だ。実際法人の3分の2は「赤字」で「法人税」を払っていない。それでカイシャがつぶれないのはなぜか。ちょっと考えれば小学生でもわかる「社会の仕組み」だ。所得に課税するのはどんな制度をつくろうとも絶対に公平にはならない。

「原発による放射能で死亡した人はいないし、重篤な放射線障害を起こした人もいない。」これは「反原発の不都合な真実」(新潮新書)でもはっきり書かれている「周知の事実」だ。それを言うことがなぜ批判されるのか。感情的反発以外のなにものでもない。もちろん原発の放射能汚染で、土地を奪われ、避難を余儀なくされる方々への「配慮」をする必要がないと言っているのではない。気持に寄り添うことは「日常の言動」では自然なことだ。そんな気遣いは、これも小学生でも分かる。
しかし「原発の比率を考える」ための「真面目な議論」をする「データ」として出すことに、なぜ反発するのか。まともな議論をしようという姿勢とはとても思えない。やはり「反原発派」は宗教化されていると思えてしまうのは、こういうところだ。

事実に基づいた、論理的で真摯な議論をさまたげることに何のためらいも持たない人々や一部のメディア。やはり日本はダメな国なんだな。

2012年7月23日月曜日

「葬式ごっこ」から26年。いじめはなぜ繰り返されるのか

図書館で借りました
大津市の「自殺の練習」いじめ。この報道を見て思い出したのが「葬式ごっこ」だった。
調べてみてすでに26年も前、四半世紀もたっていたのかと、驚く。

1986年東京・中野区立富士見中学校の2年男子生徒が、父親の故郷である盛岡で首を吊って自殺した「事件」である。この生徒は学校でいじめを受けていて、その最たるものが、「葬式ごっこ」だった。このいじめ遊びにはなんと担任教師ら教員も“加担”していたことだ。「追悼の寄せ書き」に書き込んでいた。
また生徒に事件後「口止め」をしていたことも発覚した。
興味ある人は、 web site で調べてみてほしい。
また 朝日新聞の記者 豊田充氏がこの事件に関して本を出し続けている。


2007年 豊田充著(朝日新聞社)

●葬式ごっこ (1986年)
●「葬式ごっこ」8年目の証言 (1994年)
●いじめはなぜ防げないのか「葬式ごっこ」から21年 (2007年)






これも図書館で借りました
構図は26年前も今回の大津の場合も同じだろう。
何も状況は変わっていない。
▼ダメな教師(教師がみんなダメだと言っているのではない)
いじめを把握できない、なくせない力量不足。むしろいじめを助長するような言動。そしていったん発覚すると、隠蔽体質。どうしようもない硬直した教育委員会。
▼ストレスをいじめて発散する子供たち。これはまったく変わらない。

なぜこれほど「変わらない」「変えられない」のか。考えていかなければならない。
とりあえず、「葬式ごっこ」の紹介まで




(7月27日 追記)

内田樹氏は、AERA(8月2日号)の巻頭コラム「『いじめ』がもたらす本当のリスク」で、
反論も反撃もできない人間をじりじり追い詰めることから嗜虐的な快感を引き出している人間」や「大学に怒鳴り音できたクレーマー親たち」の「表情はみな同じ」であり、こう書いている。

8月2日付 AERAより「引用」
「『いじめ』は精神的に未熟な人の固有の現象である。だから年齢とはかかわりがない。彼らは自分とともに集団を構成している同胞(とりわけ弱い同胞)たちのパフォーマンスをどうやって向上させて「集団として生き延びるか」という問題意識がない。彼らにとって喫緊の問題は、どうやって「隣にいる人間が享受しているパイ」を奪い取るか、どうやって同じグループの他のメンバーを無力化するかなのである。そうすれば「自分のパイの取り分」が増えると彼らは信じている。 だが構成員中の「無力な人間」の比率が上がるほど、『集団ごと』」淘汰されるリスクが増えるのでは・・・と不安になることが彼らにはないのだろうか。 」と。


いじめは年齢に関係なく起きる。ただ大人の場合はいじめられた側が「逃れる術」を知っていることが多いので、そんなに問題にならない。子どもは逃れられないから自分を追い込んで自殺に向かってしまう。そしていじめる人間は「精神的に未熟」なのは間違いないだろう。


だから彼らに、指導的立場にある者(多くは先生かもしれない)が「いじめはいけないことです」と繰り返しても、精神的未熟者には通じない。やっかいだ。


精神的未熟者は、一言でいうと「弱い人間」だ。だからたいへい徒党を組む。いじめはふつう集団で行う。そして自分より弱い人間を作ることによって、自らの「レゾンデートル」を保つのだろう。



7月26日 朝日新聞より「引用」
森達也氏は、こう書く(7月26日 朝日新聞)


「イジメとは抵抗できない誰かを大勢でたたくこと。孤立する誰かをさらに追い詰めること。ならば気づかなければならない。日本社会全体がそうなりかけている。この背景には厳罰化の流れがある。善悪二分化。だから自分は正義となる。 日本ではオウム、世界では911をきっかけにして。自己防衛意識と厳罰化は大きな潮流となった。」と。

大人世界に「いじめ」が蔓延している以上、子どものいじめをなくすことなどできないだろう。悲しいけれど。

森氏はこの論考で、77人を殺害した去年7月のノルウェーのレロ事件について、当時の法相の言葉を紹介している。
(ノルウェー元法相クルート・ストールベル)は 「ほとんどの犯罪には3つの要因がある。 ①幼年期の愛情不足 ②成長期の教育不足 ③現在の貧困 ならば犯罪者に対して行うべきは苦しみを与えることではなく、その不足を補うことである」と。


ここにはいじめ防止へのヒントがあろう。いじめる側は内田氏の言う「精神的な未熟者」だろうが
それを違う言い方で表せば「何らかのトラウマを持った者」とも言える。愛情に飢え、そして成長期に「教育」に対して劣等感を持つ。そして貧困もある意味で世間への劣等感だろう。
彼らを救うのは、それこそ「その不足を補うこと」しかない。


※大津のいじめ自殺では、“主犯格”の少年は「成績優秀」と言われていた。(週刊誌などの情報です。)でもその「優秀さ」ゆえの優越感が、どこかで裏返っていたといえるのではないか。




















AERAの8月2日号の「いじめ」の特集には、ヒントになる話しが載っていた。
8月2日AERAより
同級生の持ち物を隠す児童の「いいところ」を探し、生き物と絵が好きなことを聞き、クラスの「生き物係」にし、絵画コンクールに応募させたところ、自信を持ち、持ち物隠しはなくなったという。

このエピソードは、小学生だから「通用」した手立てかもしれないが、
森氏の論考で紹介した「不足したものを補う」ことにほかならない、有効なやり方だったことはだれしも同意できるだろう。





8月2日AERAより
もうひとつのエピソードは、「子どもたちのきずなや学校への関心を再々する仕掛けを用意できるかどうかがカギ」だとし、学級崩壊状態にあった中学1年で、「クラスを班分けし、班員の問題行動に対して班で責任で予防・対処するよう促した」と言う。「帰りの会でその日の成果を出させ、学級便りも毎日出した。」すると「ちゃんと授業を受けることへの競い合う気持ち芽生え、『荒れ』が次第に収まった」という。

これを読んで、原武史さんの名著、「滝山コミューン1974」に出てくる、「ちからのある学級運動」(という名称だったと思います)を、思いだしてしまった。これは、70年代の一時期、一部地域で盛んに行われた「左翼的学級経営の運動」なのだが、学級崩壊の回復で班のチカラ、つまり連帯責任制が、はたしていいのかどうかは、私には分からない。
ともかくも、こういうエピソードだとしか言えません。



滝山コミューン1974

●滝山コミューン1974
こお5,6年で最も「面白い」と思った書籍だ。原さんと同世代なので、書いてあることを
リアリティを持って読めたこともあるが、あの70年代の「公立の小学校」のマインドが
本当によく描かれている。原さんの記憶力には驚かされる。

また、単に「ちからのある学級」のことだけでなく、原さんの受験体験や鉄道体験もよく描かれていて、興味深い。
昭和30年代生まれの方は、ぜひご一読を。文庫判も出たみたいです。












(続く)

2012年7月21日土曜日

不「可視化」されるということ。地下鉄の考現学①

勤務地が変わり、これまで山手線を使っていたのが、地下鉄通勤になった。地下鉄は場所によっては奥深くて階段や通路が長く、慣れるまで少々「疲れ」を感じてしまった。
しかし、その疲れとは単に距離は高低差の疲れだけではないことに気付いた。

それは、地下、つまり外の景色が見えないところを移動することによる、視覚的、精神的疲れなのだ。それまで私鉄(東急線)のところどころには地下化されているところがあるものの、基本的に地上を走る路線を使い、そして山手線という、だいたい一段高いところを走る(山手線には踏み切りがない)電車に乗って移動していた。その違いの大きさは予想以上のものだった。

これまで毎日、目を凝らして外の風景を見ていた訳ではない。本を開くのが億劫な時、疲れた時、そして混雑していて本を開けない時に、“何気なく”見ていた風景は、記憶のどこかに刻まれていたのだろう。その「変わらなさ」も「変化」もすべて。つまれ景色は常に「可視化」されていた。

可視化されていることが「移動」の認識を頭に刻み、移動に違和感がなかったのだ。
ところが地下鉄を使うようになって、わずか数駅、2線乗り継いでも15分足らずの時間にもかかわらず、移動したことに「違和感」を覚え、それは奇妙な「疲れ」になっていた。

ちょっと大げさに言えば、タイムマシンでワープした感覚なのかもしれない。(その昔「タイムトンネル」というアメリカのテレビ番組があり、時々見た記憶がある。歴史の学習にもなりちょっと面白かった。)

しかし、半年も通えば、地下鉄による移動に慣れ、「違和感」はなくなっていくのだろう。人間の慣れとはそういうものであり、慣れなければストレスばかり溜まってしまう。

でも、移動の景色が可視化されてないことはどういうことなのか、考えてみたい。

原武史さんの著書で、「皇居前広場」というのがある。
すぐに取り出せないので、記憶の限りで書くと、
二重橋に現れる白馬に乗った昭和天皇は皇居前広場に集まった民衆によって可視化されたことや
アジア太平洋戦争後、皇居前場では大規模な民衆の集会(デモ)が行われたこと。
いわゆる「血のメーデー事件」も、ここで起こったこと。
そして皇居前広場での集会がGHQによって禁止され、それ以後民衆の催しに使われなくなったことなどが記されていたと思う。
この著書だったかどうか忘れてしまったが、都電がまだ日比谷通りや内堀通りを通っていたころは、大衆に皇居前広場が、可視化されていて、その“奥”二重橋、そしてその“奥”の天皇の存在も、
(二重橋に立つことは滅多になかったが)ある意味で可視化されていたという。
しかし都電という路面電車が地下鉄にとって代わられ、
皇居前広場が民衆に可視化だれなくなった。それは歴史のひとつのターニングポイントだと指摘していた。
原さんは、終戦やオイルショックやバブル崩壊といった、よく言われる歴史の転換点とは違って視点で、節目をとらえていて、非常に興味を持って読んだことを覚えている。




ありていに言えば、可視化されないことは、脳に認識されないということであり、つまるところ「関心が薄れる」ということであろう。
テレビニュースや新聞で、いくら皇居前広場で「ご記帳」が行われたり、新年や誕生日の「一般参賀」の映像が映し出されても、皇居前広場を日常的に見ている人とそうでない人では、「実感度」に違いがあろう。

よくテレビを見ていて、行ったことのある場所や住んだことのある場所、つまり「視覚的に知っている」ところの映像が映り、そこの話題や事件があると、無意識に注目する経験は多くの人にあるのではないか。

「可視化」の持っている意味は、想像以上に大きいのかもしれない。(だから人間はさまざまなところを「見学」するのだ)

いま毎週金曜日の夜に首相官邸前で一般民衆による「反原発」のデモが行われているという。反原発の思想の賛否はここでは触れないが、官邸や国会議事堂の前に集まり、それを視覚に入れながらデモることには、単に為政者に直接プレッシャーをかけるという意味とともに、彼ら自身が権力の中枢を可視化することによって、認識を深めるという意味があるように思う。むしろあまり意識されていない、その意味合いの方がより重要なのかもしれない。

さて、都会では非常に多くの勤労者や学生(それが何百万人なのか知らないが)が、可視化されないまま場所(空間)を移動する。何年も通っている、ほとんどの人にとって、そんなことは特にストレスでもないだろうし、可視化されないことの意識もないかもしれない。

ただ、忘れてならないことは、見えないものは、ない訳ではない。認識されていないだけだ。しかし「何が見えていないか」は、分からない。
このブログの最初の方で湯浅誠さんが書いた「見ようとしないものは見えない」ということにつながることであろう。

何が見えていないか、常に考えることを忘れないようにしないと、イケナイ。
小田実「なんでも見てやろう」という本のタイトルを思い出した。