2012年7月21日土曜日

不「可視化」されるということ。地下鉄の考現学①

勤務地が変わり、これまで山手線を使っていたのが、地下鉄通勤になった。地下鉄は場所によっては奥深くて階段や通路が長く、慣れるまで少々「疲れ」を感じてしまった。
しかし、その疲れとは単に距離は高低差の疲れだけではないことに気付いた。

それは、地下、つまり外の景色が見えないところを移動することによる、視覚的、精神的疲れなのだ。それまで私鉄(東急線)のところどころには地下化されているところがあるものの、基本的に地上を走る路線を使い、そして山手線という、だいたい一段高いところを走る(山手線には踏み切りがない)電車に乗って移動していた。その違いの大きさは予想以上のものだった。

これまで毎日、目を凝らして外の風景を見ていた訳ではない。本を開くのが億劫な時、疲れた時、そして混雑していて本を開けない時に、“何気なく”見ていた風景は、記憶のどこかに刻まれていたのだろう。その「変わらなさ」も「変化」もすべて。つまれ景色は常に「可視化」されていた。

可視化されていることが「移動」の認識を頭に刻み、移動に違和感がなかったのだ。
ところが地下鉄を使うようになって、わずか数駅、2線乗り継いでも15分足らずの時間にもかかわらず、移動したことに「違和感」を覚え、それは奇妙な「疲れ」になっていた。

ちょっと大げさに言えば、タイムマシンでワープした感覚なのかもしれない。(その昔「タイムトンネル」というアメリカのテレビ番組があり、時々見た記憶がある。歴史の学習にもなりちょっと面白かった。)

しかし、半年も通えば、地下鉄による移動に慣れ、「違和感」はなくなっていくのだろう。人間の慣れとはそういうものであり、慣れなければストレスばかり溜まってしまう。

でも、移動の景色が可視化されてないことはどういうことなのか、考えてみたい。

原武史さんの著書で、「皇居前広場」というのがある。
すぐに取り出せないので、記憶の限りで書くと、
二重橋に現れる白馬に乗った昭和天皇は皇居前広場に集まった民衆によって可視化されたことや
アジア太平洋戦争後、皇居前場では大規模な民衆の集会(デモ)が行われたこと。
いわゆる「血のメーデー事件」も、ここで起こったこと。
そして皇居前広場での集会がGHQによって禁止され、それ以後民衆の催しに使われなくなったことなどが記されていたと思う。
この著書だったかどうか忘れてしまったが、都電がまだ日比谷通りや内堀通りを通っていたころは、大衆に皇居前広場が、可視化されていて、その“奥”二重橋、そしてその“奥”の天皇の存在も、
(二重橋に立つことは滅多になかったが)ある意味で可視化されていたという。
しかし都電という路面電車が地下鉄にとって代わられ、
皇居前広場が民衆に可視化だれなくなった。それは歴史のひとつのターニングポイントだと指摘していた。
原さんは、終戦やオイルショックやバブル崩壊といった、よく言われる歴史の転換点とは違って視点で、節目をとらえていて、非常に興味を持って読んだことを覚えている。




ありていに言えば、可視化されないことは、脳に認識されないということであり、つまるところ「関心が薄れる」ということであろう。
テレビニュースや新聞で、いくら皇居前広場で「ご記帳」が行われたり、新年や誕生日の「一般参賀」の映像が映し出されても、皇居前広場を日常的に見ている人とそうでない人では、「実感度」に違いがあろう。

よくテレビを見ていて、行ったことのある場所や住んだことのある場所、つまり「視覚的に知っている」ところの映像が映り、そこの話題や事件があると、無意識に注目する経験は多くの人にあるのではないか。

「可視化」の持っている意味は、想像以上に大きいのかもしれない。(だから人間はさまざまなところを「見学」するのだ)

いま毎週金曜日の夜に首相官邸前で一般民衆による「反原発」のデモが行われているという。反原発の思想の賛否はここでは触れないが、官邸や国会議事堂の前に集まり、それを視覚に入れながらデモることには、単に為政者に直接プレッシャーをかけるという意味とともに、彼ら自身が権力の中枢を可視化することによって、認識を深めるという意味があるように思う。むしろあまり意識されていない、その意味合いの方がより重要なのかもしれない。

さて、都会では非常に多くの勤労者や学生(それが何百万人なのか知らないが)が、可視化されないまま場所(空間)を移動する。何年も通っている、ほとんどの人にとって、そんなことは特にストレスでもないだろうし、可視化されないことの意識もないかもしれない。

ただ、忘れてならないことは、見えないものは、ない訳ではない。認識されていないだけだ。しかし「何が見えていないか」は、分からない。
このブログの最初の方で湯浅誠さんが書いた「見ようとしないものは見えない」ということにつながることであろう。

何が見えていないか、常に考えることを忘れないようにしないと、イケナイ。
小田実「なんでも見てやろう」という本のタイトルを思い出した。

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