6月30日朝日新聞より「引用」 |
朝日に小さく載った、中日新聞の申告漏れ記事は、その論考を強化してくれるものとなった。紙面では、建前ばかりの正論を主張しながら、うちうちではテキトーなことをやっていたのだ。
別に儲けたカネで飲み食いをしたってかまわない。民間企業なのだから好きにやればいい。しかし企業として、きちっと会計処理して社会的責任をはたすのが当たり前だろう。・・・と、「正論」を中日新聞には投げつけたい。
飲み食いしていた記者たちは、おそらく「われわれは“市民”の側に立った“正義の味方”だ。しかも、朝日や読売、日経の記者より安い給料で頑張っている。だから少々飲み食いに会社のカネをちょろまかせて使っても、それは「許される行為」だと思っていたのだろう。
これが中日新聞人の病理、宿痾なのだ。
かつて労働組合というのが非常に大きな力を持っていた時代があった。それは戦後の混乱期から高度成長時代のことだろう。特に、自治労や公的企業体(国鉄、電電公社)などの組合はさまざまな意味で力があった(のだと思う)。
彼らは表向きは、反戦や反権力、労働者の権利を主張しながら、ウラで、幹部たちは経営側とナシをつけて、架空の時間外手当で実質的なカネを手に入れたり、わりと最近問題になったこととして、闇専従をたくさん抱えていた。経営側にもうまくやっていく方策として容認してきた土壌はあるものの、組合側のやりたい放題であったことも確かだろう。一種のルサンチマンの虜囚と言える。
「経営者、体制側は権力を持ち、われわれうより多額のおカネを持ち、得をしている。したがってわれわれは、“少しくらい”不正を犯して利益を得てもそれは許される」という思想だ。
それは丸山真男が「超国家主義の論理と倫理」で指摘した、軍人がある意味で非常に高い「国家的使命感」を持っているが故に、「個人」と「公」の区別がつかなくなり、個人的に私腹を肥やすことが許されると「錯覚」したと指摘した(たぶんこういうことでしたよね)ことと、同類なのだろう。
同様のことを、かつてNHKの報道局職員によるインサーダー取引事件について内田樹さんが論考していたのを思い出す。
こうした「不正が許されると思う心理」は、ある意味では人間そのものの宿痾(しゅくあ)なのかもしれない。残念だけと。
人が複数いる以上、階層ができ、格差ができる。人を図る尺度が地位や得られる金銭、名声など「お決まりの」ものだけはないと言っても、やはりそこに行き着いてしまうのが悲しい現実だ。
皆が豊かになれた時代はまだよかった。しかし、人口が縮み、限られたパイを奪い合いう世の中にあって、現実に将来不安だけが先走る。パイをすでにたらふく食べて、まだ食べる権利を確保している「食い逃げ世代」に、若者が怒りを募らせるのはもっともなことだろう。この怒りを鎮めるには、若者に希望がある世の中を描いて見せなければなるまい。
たかが中日新聞の「申告漏れ」から、大きな話しに展開してしまった。でも結構大事なことかもしれない。こういうことを考えるのは。
0 件のコメント:
コメントを投稿