2012年7月12日木曜日

“遅れてきた壮年” 永江朗さん「批評の事情」を読む。

永江朗さんの著書を読むと落ち込む。ホント。

永江さんは、「批評の事情」や「新・批評の事情」で、こんなにもたくさん本を読み込み、それを自分の中で消化して、ウマイ批評文に仕立てる。これほどの、ある意味で手際のよい批評を私は知らない。

振り返って、ほぼ同じ時間だけ生きてきた自分は何も知らない、無知で無能な人間にしか思えなくなってしまう。それほどまでに「批評の事情」はいろいろなことが手際よく凝縮された本だ。

ちなみに新批評の事情は、新宿紀伊国屋で、文庫本版(ちくま文庫)がすく手に入った。しかし、先に出た「批評の事情」は、大型書店をいくつか回っても、置いてなかった。(残念)
筑摩書房のサイトを見たけど、やはり品切れのようだった。アマゾンでも、「出品者からの提供」となっていた。この本は、希少本になっている。

(私はどちらかというとアマゾンでの書籍購入はあまり好きになれない。だって「カバーお願いします」って、言えないから。)

単行本は当然ながら、文庫本が出ているので書店には置いてない。で、図書館で借りることにした。こういう「読みたい本」は購入することを原則としているが、今回は例外だ。

「批評の事情 不良のための論壇案内」は初版が2001年9月。しかし11年後のいま読んでも、各々の評論家「評」はちっとも色あせていない。(と私は感じる)。

永江さんは前書きで、
「人が何事かを語れば、すなわちそれは評論である。(中略)しかし二つの条件を満たさなければならない。ひとつは批評性。『「それは何なのか』」という問いを持続させつつ対象を体系の中に位置づけ、それを検証していこうという意志。その本質に迫ろうと言う意志。もうひとつ欠かせないのは文章の芸。・・・・読んで面白くなければお話にならない。さらにこの二つの条件を満たすためには、その分野に関する知識と経験と見識が必要。」と記している。

永江さんの著書そのものが、この条件をよく満たしていると言える。

「批評の事情」で扱った人は以下のとおりだ。

宮台真司
宮崎哲弥
上野俊哉
山形浩生
田中康夫
小林よしのり
山田昌弘
森永卓郎
日垣 隆
大塚英志
岡田斗司夫
切通理作
武田 徹
春日武彦
斎藤 環
鷲田清一
中島義道
東 浩紀
椹木 野衣
港 千尋
佐々木敦・阿部和重・中原昌也、
樋口泰人・安井豊
小沼純一
五十嵐太郎
伏見憲明
松沢呉一
リリー・フランキー
夏目房之介
近田春夫
柳下毅一郎
田中長徳


「現代日本の評論はどんなことになっているのか、というのが本書のテーマ」。
ただし評論家(やその周辺の人々)はたくさんいるので
「この本は90年代にデビューもしくはブレイクで線を引いた」という。

前半は、まあ「知っている」し、著書をよく読んだ人もいる。しかし後半になると、「こんな人もいたんだ」という感じになってきて、自分の知識のなさが情けなくなってきてしまう。

永江さんはまた、「当の作品、あるいはそのもの・ことよりもよほど面白い評論というのもたくさんある。」と言う。永江さんの著書そのものが、そういう役割を担っている。


例えば私は「小林よしのり」を読んだ(マンガだから見るというべきなのか)ことはない。一度書店で「ゴーマニズム宣言」をぺらぺらめくってみたが、気持ち悪くなってすぐやめてしまった。
だけど、永江さんの小林よしのり評は非常に面白いし、この人物が「何なのか」よく分かる。
そのへんが永江さんの著書のすごいところだ。

2012年になって、ようやく「批評の事情」「新・批評の事情」まで“たどり着いた”私は
「遅れてきた壮年」といったところか。






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