2012年6月29日金曜日

朝日のご都合主義 ちゃっかり新聞の消費税の軽減を求める

新聞のご都合主義は今に始まったことではないが、消費税の必要性を再三説き、世論を誘導してきた朝日新聞は、6月21日に、ちゃっかり新聞の消費税を「軽減税率にしろ」と社長自らご主張していた。ちいさな記事)いわゆるベタ記事と言うのだろうか)


驚きを通り越して「お笑い朝日新聞」というのがピッタリだ。
5月20日の社説で「軽減税率は将来の課題で」と言っているのはしっかり見てますよ。


2012年6月28日木曜日

「取る(=定期購読)に足らない」新聞になった精神論の新聞、朝日

自分の考えと違う主張があっても、それに耳を傾ける度量は“多少”はあるつもりだ。少なくとも言論界や論壇を多少なりとも「見ている」立場にあっては。その基本姿勢は常に持って読んできた。
ただしそれは、主張に合理的な理路があり、説得力あるものであればの話しであり、「精神論」を振り回す輩のメディアは論外である。あたりまえだけど。

反原発報道を巡る、新聞各社の社論が真っ二つなのは、かつて書いた。
反原発の朝日、毎日、東京VS.原発容認の読売、日経、産経。この半年あまりの社説を記録して分析中(まとめる時間がなくて・・・)だが、これほどきれいに分かれた主張も最近では珍しいのではないか。なにしろこの問題に関してはファジーな主張はないからだ。原発を認めるのか認めないかの二者選択だけだ。中庸、中間はない。(もちろん認める方に比率につての温度差はある)

6月13日朝日新聞より「引用」
幼稚な主張を繰り返す東京新聞は論外にしても(それでも発行部数からすれば無視できない数だろうが)、昔からクウォリティー紙と言われた朝日の反原発は、どうみても「精神論」の域を出ない。
節電の呼びかけにしてもそうだ。100歩譲って言えば「性善説」に立っているのだろうが、性善説では世の中成り立たないのは、朝日さんに説教するまでもないでしょうに。

野田首相はの大飯原発稼働の必要性を訴える会見で、「精神論では国が成り立たない」と、それまでより突っ込んだ物言いをした。これに対して朝日は、翌日の新聞のコラム「窓」で、「再稼働こそ精神論」と反論した。よっぽどカチンときたのだろう。脱原発を「精神論」と言われたのが。だがやはりどう考えても朝日の脱原発の一連の主張は精神論でしかない。

○喫緊の問題として「地球温暖化」の国際公約はどうすのか。
公約したからというだけでなく、実際ツバルでは海面上昇で国がなくなろうとしている。このところの異常気象。海水の温度上昇で、八重山諸島では白化現象が起きてサンゴが死滅。反対に本土では紀伊半島どころか房総半島沖沿岸でもサンゴの生息が確認された。

温室効果ガスと地球温暖化、異常気象の「因果関係」は科学的にはまだ証明されたとは言えない。しかし多くの人が感じている「昔とは違う異常現象」や温暖化の影響は無視できないし、とりあえず疑われる要因(CO2)を削減するという目標は間違っていないだろう。

しかし朝日さんの主張は違う。脱原発を社論と決めてからは、温暖化問題などなかったように、記事は扱わない。無視していると言っても過言ではない。おそらく社内の暗黙の了解として「この問題はしばらく触らないでおきましょ」というところなんだろう。

朝日は「脱原発」がなぜ可能なのか、どういう道程を踏めば進めるのか。ほとんどまったくと言ってもいいほど触れていない。産業空洞化の問題、開発途上国の今後の経済発展で化石燃料が高騰するリスク。もちろん中東リスクも当然ある。そうしたものは「脱原発」の教祖の前では無視されている。こうした疑問に具体的な施策を提言し、説得力あるものであれば、「なるほどこういう論法で脱原発も可能なんだな」と読者も思えるのではないでしょうかね。それなくしてはこれでは「精神論」そのものだ。開沼博氏の言葉を借りれば、宗教的ですらある。新運動家と巷間呼ばれる人たちの叫びと何ら変わりない。説得性も説明性もない。

○「節電」の精神論
節電については、社説で2回も3回も取り上げ「奨励」しているが、このおかしさにもひと言触れておこう。電力不足によって家庭や企業が電力使用を見直し、無駄をそぎ落とすことは当然だし、多くの人がやっているだろう。しかし「節電」は、どこまでやればいいのかという指標がない。政府は「無理のない範囲で」ときれいごとを言うが、様々な報道で伝えられるように工場、特に中小企業の事業所では血のにじむような努力をして去年の夏を乗り切った。夜間、休日に働き、冷房はかけずに汗だくになって働く姿が、テレビニュースでは何度も流れた。こうした人たちに朝日は「ガンバレ」と言うだけだろう。これって精神論でしょ。「欲しがりません勝つまでは」とかつて皆で歌った(らしい)のと何が違うのか。

6月2日の「あぜん、再稼働」では京都大学の植田和弘教授という「識者」が、
「あの暑い真夏に私はちなぜ、あんなに冷房をガンガンかけてまで働くのでしょう。欧州のようにバカンスを取り、農山村の自然の中で夏を過ごせないものでしょうか。そうすれば電気消費表も減る」と説くのを載せていた。
大学教授とは優雅で知的なショーバイなんでしょうね。この人の眼中にある「欧州」とは、中産階級以上の人しか映らないのであろう。アフリカやアラブからの多くの移民が低賃金で支えている欧州社会の本質なんか映っていない。
「声」欄にも「京都の町家の工夫を生かせ」なんていうのが載っていたりした。集合住宅や一戸建てだって、ほとんど隣とくっつきそうな隙間しかなく庭なんてない家に多くの人が住んでいることなんか分からないおメデたき人々の「声」だ。ルサンチマンの虜囚として言っているのではない。自分の置かれた恵まれた事情からだけ物を言う人の「思慮のなさ」に呆れているのだ。

これは「市民運動」の人々にもよく通じることだ。「わたした市民の声を聞いてください」と叫んでいる人がいるが、この時、市民とは自分たちと同じ考えを持ち、同じ境遇にいる人“だけ”と規定されている。無意識に人を差別化していることに気がついていない。往々にしてこういう人の考えは偏狭で話し合いの余地がないほど教条的だ。あっちの人は市民ではないのだから。
(※湯浅誠さんは「市民運動の立ち位置」で、そのへんのところをやんわり批判した。湯浅さんは決して市民などという言葉を軽々には使わない。


社会人になってからずっと(もうすぐ30年になる)朝日新聞を定期購読してきた。しかし「精神論」の新聞はもういい。そろそろやめにする。家人が楽しみにしている連載小説(朝・夕とも)の現在の連載が終了すれば、その月までにするつもりだ。

朝日では土曜別刷(beeと言ったっけ)や日曜日の書評、夕刊文化面など信頼もおける結構好きな記事もあった。また署名記事では、経済の原真人氏の主張は、脱原発一色のこの新聞にあって、異彩を放つ説得力のあるもので、いつも物事を考える参考になった。だから惜しいけど、これからは勤務先や図書館でナナメ読みだけにしよう。


(でも取る新聞がない。Yさんは江川事件以来基本的に信用していない。Nさんだけだと経済に偏ってしまう。Tは論外、Sは原発や消費税では常識的な論を張るが、皇室や対中関係、対朝関係、戦争評価ではちょっと・・・・。で、Mさんもイマサンくらいだ。かといってS教新聞やしんぶんA旗を取る気にもなれないよね)。


○原真人氏の記事の確かさは、別に論じたい。
○原発はなぜ必要か、説得力ある論考としては、中央公論6月号 豊田正和氏の「日本にとっての最適なエネルギー・ミックスは何か」が参考になる。簡潔にまとめられている。同様の内容は新潮新書「反原発の不都合な真実」に詳しい。

脱法ハーブでハイになる。・・・・なんてことのないように

◆走ることについて語る 別論

大麻を吸ったことも、覚醒剤を打ったことも、シンナーをビニールに入れて吸ったこともないので、いま“流行”の脱法ハーブがどういうものなか知らない。もちろん知ろうとも思わないけど、若い人たちがこうしたものに魅了されていく状況は、おじさんとしては看過できない。

走りはじめて2年ちかく「ほぼシューイチランナー」も膝の腱や足の甲の痛み、ふくらはぎの痙攣、そしていわゆるぎっくり腰など、通過儀礼のごとく経験して、ようやく低レベルだが「安定期」に入った。

ランナーズハイというのがどういうことなのか、(もしかしたら本物は違うのかもしれないが)、少しわかるようになった。ランニングを始めて最初の2,3㎞は体も硬くちょっと億劫だ。5㎞くらが結構苦しいし走るのに飽きてくる。しかし6,7㎞になると、いつしかスーと妙な力みが消えて走りやすくなる。それでピッチがあがる訳でも蹴る力が増して歩幅が長くなる訳でもない。だだ走っていることが「ラク」になるのだ。もちろん息はそれなりに苦しいし、意識していないと腰が落ちてかかと着地になってフォームも乱れてくる。でも「なんとなく走れそう」な気分になるのだ。これがいわゆる「ランナーズハイ」なのだろうか。まだ22㎞以上を走ったことはないが、42.195㎞も夢ではなくなって、完走も現実味が出てくるような心持ちになる。ありていに言えば走ることに「前向き」になる気分だ。
これが結構、快感だ。苦しさの中にあるエクスタシーと言ってもいいかもしれない。
(村上龍氏の小説にエクスタシーという小説があったことを思い出した。これはドラッグの名前だったけど)

人間であれば、いや高等動物であればだれでも快感を求める。それは抑制できない。運動によってそれを得ることができる者は健全だ。中には放火して火を見ることが快感という人間も存在する。どういう方法で快感を得られるかそれが問題なのだ。

脱法ハーブを吸って快感を求める若者たちに、「それはダメだ」と言っても、あまり効果はないだろう。脱法ハーブを違法薬物に指定して流通しないようにしても、それはある程度は効果はあろうが根っこのところの解決にはならない。

要は、若者に薬物に代わる快感があることを教えてあげることだ。走ることだけでもやりようによってはドーパミンが分泌されて快感を得られるんだから。

2012年6月24日日曜日

大飯原発運転再開。箸の上げ下ろしまで報告させる“幼稚”な主張

再稼働の準備作業中の大飯原発3号機で、警報器が作動するトラブルがあった。その公表が13時間もたってからだったことから、新聞・テレビは、発表の遅れを批判的にとりあげ、経産省も「厳重注意」したという。そして今後は「どんな小さなことでも即座に報告」するらしい。

問題となったトラブルとは、発電機のモーターを冷却する水のタンクの水位が低下したための警報で、法令に基づく異常事象ではないため、原子力安全・保安院は、夜中に即座に発表をしなかったという。
これがどの程度の“危険”なトラブルなのかは、シロウトには正確にはわからないが、少なくとも法令で定められたトラブルでないことや、新聞報道などから伺い知れることとしては、冷却用の水位が幾分低くなったので、「水を足して」という警告がなされた程度のものらしいことは伝わってくる。

NHKニュースでは保安院の職員らしい人が会見で、今後どの程度のことまで即座に発表をしていくべきなのか考えていかなければならない、といった趣旨のことを、困惑気味に語っていたのが印象的だった。(きちんとニュースを見ていたのでないので、不正確かもしれない。ただカオが困惑していたのだけは確かだっだ。)


「羹に懲りてなますを吹く」とう諺は誰でも知っているだろう。
(※羹(あつもの)=熱物 肉や野菜を汁を多くして煮たもの・・・ことばんくから)

原子力に対する「信頼が地に落ちて」いるらしいから、地域住民が神経質になるのはある程度理解できる。しかし「地に落ちた信頼」というのはマスメディアが言い出して読者・視聴者とメディアがキャッチボールをする中で増幅されてきた一種の「幻想」である面も否めない。
確かに福島第一原子力発電所は、大きな事故を起こした。(但し、誰も直接的には死亡していないし、重篤は放射線被曝の障害も負っていない。・・・「反原発」の不都合な真実より)
が、大飯原発を始め、現在停止している原発は定期点検のため停止しているのであって、トラブルが原因で停止している訳でも何でもない。にもかかわらず「信頼が地に落ちている」というのは、どういう理路なのかさっぱり理解できない。

まさに「羹に懲りてなますを吹く」以外に適切な言葉が思い浮かばない。
あ、いまこう書いていて浮かんだ。「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」だ。

もちろん、大地震による原発施設の損傷や津波による制御不能の事態の可能性がまったくないと言っているのではない。少しでも重篤な事故が起きる確率を低減させてほしいし、そうした努力を電力会社は続ける義務があることを否定しているのではない。(ただし事故の確率はゼロではない)

メディアはものごとを単純にすることには天才的だ。東京電力福島第一原発で、津波による重篤な事故が起きた。これは事実だ。初めての経験の中で、時の政府は混乱し、東電にも明らかに事故後の対応に瑕疵があった。それに菅直人という「類まれな」おバカ首相のために混乱に火を注いだ。これもほぼ事実だろう。
少し落ち着くとメディアによる「犯人捜し」が始まり、「原子力ムラ」という「一大犯罪組織」が存在することが報道される。このへんから怪しくなってくる。そのムラの構造や原子力政策の歴史などは十分斟酌された報道はいまだあまりなされていない。
そして「ムラ」社会だから原発すべてが「怪しい存在」として規定される。
リテラシーの低い“大衆”は、冷静な判断よりも、メディアの「見出し」に洗脳され、「思い込み」が「事実」として認識されてくる。

かくして、大飯原発は信頼のない人々が稼働させている危険なものと規定される。だから、些細(と思われる)トラブルを発表しなかったことが「大問題」となり、「今後はどんな小さなことも報告する」ことになっていく。

これって、本当にいいことなんだろうか。担当者は原発を安全に動かすことに注意を向けるより、メディアへの対応に神経を使うことになる。ヒトの行うことには限りがある。限られた要員の中で、つまらぬことに人的資源が使われ、本来業務が疎かになる懸念は大きい。現場を萎縮させるだけだ。

「フェイルセーフ」のことをかつて書いた。フェイルセーフがあるからこそ、警報が鳴るのであって、それをいちいち報告がないと咎める愚は、どうしようもない。メディアのこうした論調を眺めているとだんだん気分が悪くなってくる。

菅直人は官僚嫌い、つまり官僚や官の組織(東電もその範疇だろう)をまったく信頼しない性癖から、「自ら動き」、混乱を増幅させた。よくもわるくも、任せた以上、結果がどうであれ「信頼」するところからしか、物事は始まらないのではないか。

メディアと大衆のキャッチボールから生み出される「幼稚な法則」は、収まりそうにない。

2012年6月15日金曜日

震災は日本に分断をもたらしたのではなく、顕在化しただけだ

すでに旧聞の話しではあるが、東日本大震災によって、日本に様々な形の「分断」が生まれたことが、いろいろ指摘されている。
曰く、震災によって東北は分断された。フクシマは原発事故によって「分断」された、と。またがれきの広域処理を巡っては、被災地とそれ以外の地域での「分断」も新聞・テレビを賑わした。

開沼博氏は文芸春秋5月号の「続・フクシマ論~空白に見える未来~」で、鋭い指摘を行っている。
マックスウェーバーの近代化論になぞらえて、脱原発派、原発嫌悪派の人々の「再宗教化」現象を記し、そのことが、人々の「分断」を生んでいることを指摘している。なかなか鋭い考察だ。

一連のがれき処理を巡る「分断」については先に別項で書いたが、斉藤環氏の指摘、「けがれ」の思想が的確な指摘だ。斉藤氏は毎日新聞での寄稿(2月26日)で、「がれきを受け入れに理解を示す自治体は次第に増え処理は進む。心配なのはがれき処理そのものではなく、ケガレの思想の残る中で、受け入れ自治体の『被害者意識』と被災地の『負い目』について十分な手当がされないこと」だと心配していた。

実際その後、斉藤氏がすでに2月の段階で予想した通り、がれきを受け入れる自治体は次第に増えてきた。ちゃんと数えた訳ではないが、地理的に近い東日本が多いような気がする。反対に北九州市では、一部の人々の激烈な拒否・反対運動がニュースになった。(もっともマスコミはあまり騒ぐのは「よくない」と思ったのか、新聞の扱いは小さく、写真掲載も一部にしかなかった。良くも悪くもマスコミは情報を操作する典型だ。)

「分断」は、震災で生まれたのはない。もともとあったものが、震災をトリガーに顕在化しただけだろう。「けがれ」を感じる人々の意識が惹起されたのだ。
西日本に根強く残る「けがれ」の思想。それは何なのか、東日本で育った私には正直よく分からないし、どう受け止め考えていいのかも分からない。

それは西日本でも一部の人たちだけの「思想」かもしれない。「分断」などと煽っているのはマスコミだけなのかもしれない。何なのか。

しかし東北の人々は決して忘れないだろう。
五山の送り火に岩手の木が受け入れられなかったことを。その少し前には、福島で作られた橋げたも一時的に「受け入れ拒否」されたことを。
一部の人々の騒ぎでも、それは被災地とそうでない地域んぼ両方に、深い「トラウマ」を生んだことだけは確かだ。

一番残念だったのは京都市長が、「反対」の声に押されて右往左往したことだ。彼が毅然とした態度をとっていれば、被災地の人々の心の傷も小さかったのではなかい。
東西は昔から分断されていたのだ。
書くことによって考えを進化させようとしたが、この問題だけはどう「まとめて」いいか分からなくなった。ただ思い出しのは、在野の歴史学者、故・網野善彦さんの著作だ。
好きでよく読んだが、網野さんは、はっきりと西日本と東日本が「違う地域」であることを指摘していた。(今回、著作の内容を確かめた訳ではないので、主な著書を揚げておきます。)

○網野善彦さんの著作



元から分断されていたので、「しかたない」と言っているのではない。その事実にきちっと向き合わなければ、分断は解消されないと思うから、あえて指摘するのだ。


○網野さん余話。網野さんが亡くなって中沢新一氏が甥っ子だったことは初めて知った。
確か文芸雑誌「すばる」に短期集中連載された「僕の叔父さん・網野善彦」は、けっこう興味深く読んだ。






2012年6月6日水曜日

「東京新聞」という貧困ビジネス


中日新聞(首都圏では「東京新聞」)は、首都圏の主な新聞(読売、朝日、毎日、日経、産経、東京)の中で唯一、消費税増税反対を訴え、社説で「所得税中心の税制がよい」と主張する。原発にも大反対だ。しかし主張レベルは「市民運動」のアジテーションの域を出ない。

一時期この東京新聞を定期購読していた。小学生新聞を卒業した息子が朝、新聞を読みながら朝食をとるものだから、こちらの読む新聞がなく、2紙とっていたのだ。東京新聞のいいところは、共同通信が配信する、まあ、まもとな記事があることだ。書評など文化面は結構参考になるし、海外特派員の小話は面白い。どの記事が共同配信で、どの記事が東京(中日)オリジナルなのかわからないが、共同配信記事が、このおバカ新聞を一定のレベルに保っているのは確かだろう。

だが、あまりにも「市民運動家的」主張を社説等でするのに、嫌気がさして、半年で講読はやめた。


考えてみると、ケインズの「美人投票論」ではないが、メディアは、その読者の望むことを書く。これ当たり前のことだ。購読料が朝読毎日経より安い東京新聞の読者は、市民運動家的ご主張を好む、また消費税イヤと単純に考える層なのだろう。

特定の階層(それは無視できない規模だろうが)向けに、その読者が喜ぶように書いている新聞なのだ。だから所得税中心と言うが、どうやって所得を把握するのか、どうやって海外に逃げていくクラスを日本に留めるのか、また、電力不足でどうやって産業の活性化を図るかなど、東京新聞にとってはどうでもいい、そんなこと考えないから「ご主張」に盛り込むこともない。要するに権力者(と思われている側)の施策に反対し、批判だけしてさえいればいいのだ。


週刊現代から

ところで、週刊現代の大型連休号に興味深い記事が載っていた。
その名も「全国長者番付を実名公表」するだ。

愛知県の№1は、中日新聞の最高顧問、大島宏彦(78歳)だ。
再録すると、大島氏は東大法学部卒。資産約380億円。年収約1億3,000万円だという。中日新聞社が発行する一般紙4紙の合計発行部数(朝刊)は毎日新聞を抑え、日本第3位。戦時下に財政困難に陥った中日ドラゴンズを初代オーナーである父・一郎氏が私財で救ったとある。

特定層を愛読者にして「反消費税、反原発、反権力」を掲げる新聞社は、こういう方をオーナーに頂いているのだ。もちろん働いている方々は、オーナー一族とは違うだろうが、読者を喜ばすことで糧を得ていることには違いない。


これを一種の「貧困ビジネス」と言ったら、いい過ぎだろうか。
中産階級(この言葉事態が死後になりつつあるのは承知している)ならば、好みの違いはあれ、朝読毎+日経などが一般的な講読形態だろう。リタイア層、年金生活者層になると、新聞も、少しでも安いもにと、東京に変えたりするのは想像に難くない。

自分の身の回りのことしか考えない(人が多い)年金生活者層が増えれば増えるほど、東京新聞の「愛読者」は増えていく構図だ。

(ちょっと乱暴な論理展開だと自分でも思うがブログだから許して)。


図説 ジョギングMAP 多摩川周回コース

Jog Note の東京都のジョギングコース ベスト4位置されているのが、「多摩川周回コース」だ。
(ちなみに 1、2位は皇居 3位は赤坂御所です。)

http://www.jognote.com/jogmaps

ほとんど「多摩川周回コースしか」走ったことのない者から、多摩川大橋~二子橋までの距離を
図説します。これは「距離測」で測ったものですが、GPSを使ったATLASランナーズコンピュータでもほぼ同じ距離が出ています。(当たり前か)

ちなみに拙宅から丸子橋たもとの交番までが、往路1.5㎞(多摩川駅そば経由)、復路(中原街道を一直線)1.2㎞なので、これと組み合わせて走っています。



川崎側から見た 二子多摩川 

丸子橋 交番前から撮影




菅直人は単なる「市民運動家」でしかなかった、2つのエピソード

イラ菅 本領発揮
原発事故調査委員会の参考人で証言した菅直人元総理大臣殿は、東電に乗り込んで「陣頭指揮」をとった時、怒鳴り散らしていたことについて、「夫婦ゲンカの時より小さい声だった」とのたまった。(テレビニュースから)
こういう場にこうした例えを出すこと自体、ほとんど民放テレビのバラエティー番組に出てくる「おバカキャラ」そのものだろう。物事をちゃかしていい時と悪い時があるという社会人としての基本的な作法そのものを知らないことを吐露しただけだ。
その菅について、最近新聞に載ったエピソードを紹介する。アサヒとサンケイという東西、でなかった“左・右”の横綱が、図らずも菅の人となりを書いているのが面白い。

12.4.30 朝日新聞より「引用」
①朝日の記者有論「諫早湾対立の15年 開門なしに『毒水』消えぬ」から
判決が確定したのに諫早湾干拓の潮受け堤防を開聞する見通しがたたない。判決を確定に導いた菅も当然開門を主張。それなのに進まないのは絡み合う利害を解きほぐすプロセスが抜け落ちているからではないのかと、昨年菅氏にインタビューした。
その時地元の反発を指摘したら、怒り出した。「ちょっと(君は)現場に居すぎるじゃないか。原理原則に立ち返らなきゃ。じゃあこじれなければ何でもいいの?」と言った。
彼からすれば開聞は官僚の巨大利権をぶちこわすという大義の実現なのだろう。だが決断しさえすればいい、というのは無責任に思えた。そういう姿勢が開聞を遠ざけたのではないかと、この記者は書いている。




12.6.3 産経新聞より「引用」
②6月3日の産経新聞「日曜日に書く・危機に最も不適格な菅元首相」から

原子炉復水器の専門家として、3.11の自己発生直後から首相官邸に助言・提案を行っていた上原春男氏。3月20日には、上原氏の事務所に民主党の原口一博元総務相や大串博志内閣府政務官らが集まり、原発事故対応を協議していた。そこで原口氏が携帯電話で菅氏に連絡し、上原氏に取り次いだところ、こんなやりとりがあったという。
▽菅「あなたのリポートには目を通したが技術的に理解できない。私が、外部冷却装置をどこに着けていいのかわからないので決定できない」。
▽上原氏は「そんなことは首相が考えるべきことではない。やるかやらないか決断はできるでしょ」と言うと、菅は突然激高して、延々とわめきちらしたという。その声に上原氏は恐怖さら感じたという。















「世界3月号」で湯浅誠さんが書いた、「社会運動の立ち位置」という論文に、市民運動家から批判が出たといういう話しがあった。そのことについて、市民運動家(と割れる人々すべてではないだろうが)は、(権力や巨大組織を)批判することには慣れているが、批判されることには耐性ができていないという「推論」を別項で考察した。
菅はまさに批判されることを「恐れ」、それにさらされると「怒り」という「弱さ」を吐露したのだった。

こんな人間があの3.11の危機の時に、日本の首相だったというのは、トホホというほかない。産経新聞の言うとおりだ。



2012年6月5日火曜日

走ることについて語る⑤「初めてブラをはずして街に出た時・・・」

ランナーに圧迫タイツは必要か。

「初めてブラをして街に出た時より、初めてブラをはずして街に出た時の方が緊張した」

昔(20年くらい前だろうか・・)、確かワコールの女性のインナーのCMのキャッチコピーに、こういうのがあった。正確な文言は忘れてしまったが、主旨はこういうものだった。なぜか気に入って記憶に残っている。

自分をガードしていてくれる物(女性ではないのでブラがそういうものなのかどうか知らないが)を取り去った時の緊張と解放感は、ブラに限らないだろう。
走り始めた時期、ひざ痛が怖くてサポーターをして走った。それでも痛みは決まって訪れるし、どれだけ効果があるかはわからないが、「付けている安心」はあった。一昨年の12月、ぎっくり腰を“患った”後、スキーをするのが怖くて、がっしりした腰のサポーターを購入し、また膝にも金属入りのサポーターを付けていた。




一度付けることに慣れてしまったサポーターは、外すのが怖い。でもこのままではダメだと思い、ぎっくり腰が概ね回復し、腹筋・背筋を鍛えられるようになって、そして膝の痛も上手く付き合えるようになると、こうした大仰なサポーターは、思い切って外した。以来、サポーターや流行の圧迫タイツには頼らないことにしている。



その気分が、冒頭に記したコピー「初めてブラを・・・」だったのだ。
圧迫タイツは、それなりの効果はあるのだろう。ましてシロウトランナーにとっては、ないよりマシなツールかもしれない。多摩川べりを走っていると、多くの人が、C3fitやnorth faceやMIZUNOなどの「黒いタイツ」姿を見かける。でも、履かないことにした。
何をするにしても道具は必要だ。しかし道具に頼りすぎるとかえって、自分の能力の芽を摘んでしまうこともあるのではないか。どれだけが「必要最小限」なのかは人によって違うだろう。だから圧迫タイツのランナーを咎めることはしない。
スキーでもランニングでも「ブラをはずす気分」を忘れないようにしたい。

2012年6月4日月曜日

フリマから学ぶ「ショーバイ」の大変さと市場経済

横浜国際プールでのフリマ 客はあまり多くはなかった気がする

一般人にとっては、フリマ=フリーマーケットは、お気楽なものである。捨てるには忍びない不用品を誰かが有効に使ってくれればと、たとえ二束三文でも売れて、片付けばいいという気分なのだから。
たまりににたまった愚息のブロック玩具(LEGOという)やミニ電車模型(Nゲージという)、また多数の衣類やカバンの類を持って、5月最後の日曜日、横浜国際プール前のフリマに参加した。初体験である。
受付は午前8時、フリマの開始時間は9時。7時前に到着して場所取りして(まだ3,4組しか来ていなかったので好位置をキープ)。しかし“商品”を並べ始めると、すぐにLEGOマニアがやってきて、なんと9時前にすべて売れてしまった。まったく予想していなかったこの事態には驚きだった。

そして衣類なども早い時間ほど売れ、午前11時ころからはほとんど売れなくなった。結局、午後1時まで粘ったが、子ども用のスキー靴やスキーウェア、ヘルメットは売れずじまいだった。(冬物が売れないのは当たり前か)
私も家人も育った家庭は公共性の強い会社、公社勤めの家でで、これまでショーバイには無縁の人生。いわば初めて体験する「市場経済」だった。
ウィンタースポーツ用品は全く売れず
どういう時間帯にどういうものが売れるのか、どう「セールストーク」をして買ってもらえるのか。結構緊張する行為である。相手が購入を迷っている時、値下げするのか、強気に出るのか、おそらく経験と勘がものを言う現場なのだろう。

結果、うまくいったかどうかはわからない。何しろ元の値段がないのだから、売れて幾ばくかの金銭が入れば御の字なのだ。フリマの出店費用など諸々の諸経費が出ればそれでよしとするのが、フリマだ。これにハマる人もいるそうで、炎天下、自ら作った小物を根気よく売っている人もけっこういた。

それにしても「商売」とは大変だと思う。日々商売を生業にしている人には当たり前の話しだろうが、お金を払って商品を仕入れ、店舗や人件費など固定費、利益を算出して売り値を決め、そして売る。日々、買ってくれる人がいて初めて金銭が回収でき、利益を得て生活する。作って売る、食品を扱う商売であれば、なおいっそうたいへんだろう。

そんな「市場経済」の一端を経験できただけでも、中学3年の愚息にはいい経験になった。LEGOに関しては、商品説明を丹念に行い、買い手の心を動かし、買ってもらうことができた。
この日の横浜国際プールのフリマの出店数は、数えなかったので正確には分からないが、30~40だったと思う。プロらしき店は1店だけだった。

ところでフリマは、今やひとつの「ビジネスモデル」になっている。
リサイクル市民の会のスタッフが3,4人、出店場所の線引きから台車の用意、受付などを行い、催しを仕切る。出店料と車の駐車料を徴収し、会場にショバ代を支払い、彼らの人件費もここから出すのだろう。
LEGOはすぐ売れた。ザックも売れた。
フリマを出して改めて感じたのは、モノが豊富ないまの日本の現状と少子化で子ども用品の使い回しがあまりされない実情だ。
数値を比較した訳ではないが、衣類の相対的な価格は昔に比べて安くなっているだろう。また、数や種類も豊富だ。(ユニクロを思い浮かべるまでもない)。

勢い、ひとり息子の小学生時代の衣類も、並べてみると、こんなにあったのかと驚くばかりであった。それもユニクロではない、ファミリアやオンワードなど「ブランド物」だ。


年いってやっと授かったひとりっ子には、無意識にカネがかけられていた。そしてそれを使いまわす兄弟も親戚もいなかった。古着屋に持っていっても50円、100円の世界。フリマで800円から900円で買ってもらえ、利用してもらえるのは、実にありがたいことだった。

聞いた話しだが、場所によって客層がぜんぜん違うそうだ。そうすると売れるものも違ってくる。商売も同様だろう。大学で学んだマーケティングの知識など何も思い出せなかった。が、市場を理解するには、現場の実践を理論化していくことが必要なのだろう。

こうして書いていて、ひとつのことを思い出した。ハーバード大のMBAの教科書に、日本で生まれた2つのことが書いてあると、以前テレビ番組でやっていた。ひとつはトヨタのカンバン方式、もうひとつはセブンイレブンのノウハウだ。もちろんどちらも理論から生まれた実践ではなく、製造や商売の実践から生まれたノウハウだ。実践から生まれたものの強さは言うまでもない。

学ぶことは実践を積むことでもある。そんな当たり前のことを改めて肝に銘じた。

○追記
モノを売るという行為は、買った人が喜んでもらえることがモチベーションだろう。買ってよかったと思ってもらえることが、次に売ることの励みになる。しかし、だ。売れないと、とにかく買ってもらえればいいという思いが頭をもたげてくる。買い手に必要なものかどうか、ふさわしいかどうか、またそれが適正な価格か、商品に瑕疵はないかなど、どうでもよくなってくる誘惑にかられる。
わすが数時間のフリマでのショウーバイでもそういう気持ちになってしまうのだから、ホンモノの商売ではなおのことだろう。その誘惑をどう克服していくか、結構大きな問題かもしれない。
上手く回っている時はいいが、売れない時にどうするか。それはショウーバイだけの話しではないのだろうが。