2012年6月24日日曜日

大飯原発運転再開。箸の上げ下ろしまで報告させる“幼稚”な主張

再稼働の準備作業中の大飯原発3号機で、警報器が作動するトラブルがあった。その公表が13時間もたってからだったことから、新聞・テレビは、発表の遅れを批判的にとりあげ、経産省も「厳重注意」したという。そして今後は「どんな小さなことでも即座に報告」するらしい。

問題となったトラブルとは、発電機のモーターを冷却する水のタンクの水位が低下したための警報で、法令に基づく異常事象ではないため、原子力安全・保安院は、夜中に即座に発表をしなかったという。
これがどの程度の“危険”なトラブルなのかは、シロウトには正確にはわからないが、少なくとも法令で定められたトラブルでないことや、新聞報道などから伺い知れることとしては、冷却用の水位が幾分低くなったので、「水を足して」という警告がなされた程度のものらしいことは伝わってくる。

NHKニュースでは保安院の職員らしい人が会見で、今後どの程度のことまで即座に発表をしていくべきなのか考えていかなければならない、といった趣旨のことを、困惑気味に語っていたのが印象的だった。(きちんとニュースを見ていたのでないので、不正確かもしれない。ただカオが困惑していたのだけは確かだっだ。)


「羹に懲りてなますを吹く」とう諺は誰でも知っているだろう。
(※羹(あつもの)=熱物 肉や野菜を汁を多くして煮たもの・・・ことばんくから)

原子力に対する「信頼が地に落ちて」いるらしいから、地域住民が神経質になるのはある程度理解できる。しかし「地に落ちた信頼」というのはマスメディアが言い出して読者・視聴者とメディアがキャッチボールをする中で増幅されてきた一種の「幻想」である面も否めない。
確かに福島第一原子力発電所は、大きな事故を起こした。(但し、誰も直接的には死亡していないし、重篤は放射線被曝の障害も負っていない。・・・「反原発」の不都合な真実より)
が、大飯原発を始め、現在停止している原発は定期点検のため停止しているのであって、トラブルが原因で停止している訳でも何でもない。にもかかわらず「信頼が地に落ちている」というのは、どういう理路なのかさっぱり理解できない。

まさに「羹に懲りてなますを吹く」以外に適切な言葉が思い浮かばない。
あ、いまこう書いていて浮かんだ。「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」だ。

もちろん、大地震による原発施設の損傷や津波による制御不能の事態の可能性がまったくないと言っているのではない。少しでも重篤な事故が起きる確率を低減させてほしいし、そうした努力を電力会社は続ける義務があることを否定しているのではない。(ただし事故の確率はゼロではない)

メディアはものごとを単純にすることには天才的だ。東京電力福島第一原発で、津波による重篤な事故が起きた。これは事実だ。初めての経験の中で、時の政府は混乱し、東電にも明らかに事故後の対応に瑕疵があった。それに菅直人という「類まれな」おバカ首相のために混乱に火を注いだ。これもほぼ事実だろう。
少し落ち着くとメディアによる「犯人捜し」が始まり、「原子力ムラ」という「一大犯罪組織」が存在することが報道される。このへんから怪しくなってくる。そのムラの構造や原子力政策の歴史などは十分斟酌された報道はいまだあまりなされていない。
そして「ムラ」社会だから原発すべてが「怪しい存在」として規定される。
リテラシーの低い“大衆”は、冷静な判断よりも、メディアの「見出し」に洗脳され、「思い込み」が「事実」として認識されてくる。

かくして、大飯原発は信頼のない人々が稼働させている危険なものと規定される。だから、些細(と思われる)トラブルを発表しなかったことが「大問題」となり、「今後はどんな小さなことも報告する」ことになっていく。

これって、本当にいいことなんだろうか。担当者は原発を安全に動かすことに注意を向けるより、メディアへの対応に神経を使うことになる。ヒトの行うことには限りがある。限られた要員の中で、つまらぬことに人的資源が使われ、本来業務が疎かになる懸念は大きい。現場を萎縮させるだけだ。

「フェイルセーフ」のことをかつて書いた。フェイルセーフがあるからこそ、警報が鳴るのであって、それをいちいち報告がないと咎める愚は、どうしようもない。メディアのこうした論調を眺めているとだんだん気分が悪くなってくる。

菅直人は官僚嫌い、つまり官僚や官の組織(東電もその範疇だろう)をまったく信頼しない性癖から、「自ら動き」、混乱を増幅させた。よくもわるくも、任せた以上、結果がどうであれ「信頼」するところからしか、物事は始まらないのではないか。

メディアと大衆のキャッチボールから生み出される「幼稚な法則」は、収まりそうにない。

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