2012年6月28日木曜日

「取る(=定期購読)に足らない」新聞になった精神論の新聞、朝日

自分の考えと違う主張があっても、それに耳を傾ける度量は“多少”はあるつもりだ。少なくとも言論界や論壇を多少なりとも「見ている」立場にあっては。その基本姿勢は常に持って読んできた。
ただしそれは、主張に合理的な理路があり、説得力あるものであればの話しであり、「精神論」を振り回す輩のメディアは論外である。あたりまえだけど。

反原発報道を巡る、新聞各社の社論が真っ二つなのは、かつて書いた。
反原発の朝日、毎日、東京VS.原発容認の読売、日経、産経。この半年あまりの社説を記録して分析中(まとめる時間がなくて・・・)だが、これほどきれいに分かれた主張も最近では珍しいのではないか。なにしろこの問題に関してはファジーな主張はないからだ。原発を認めるのか認めないかの二者選択だけだ。中庸、中間はない。(もちろん認める方に比率につての温度差はある)

6月13日朝日新聞より「引用」
幼稚な主張を繰り返す東京新聞は論外にしても(それでも発行部数からすれば無視できない数だろうが)、昔からクウォリティー紙と言われた朝日の反原発は、どうみても「精神論」の域を出ない。
節電の呼びかけにしてもそうだ。100歩譲って言えば「性善説」に立っているのだろうが、性善説では世の中成り立たないのは、朝日さんに説教するまでもないでしょうに。

野田首相はの大飯原発稼働の必要性を訴える会見で、「精神論では国が成り立たない」と、それまでより突っ込んだ物言いをした。これに対して朝日は、翌日の新聞のコラム「窓」で、「再稼働こそ精神論」と反論した。よっぽどカチンときたのだろう。脱原発を「精神論」と言われたのが。だがやはりどう考えても朝日の脱原発の一連の主張は精神論でしかない。

○喫緊の問題として「地球温暖化」の国際公約はどうすのか。
公約したからというだけでなく、実際ツバルでは海面上昇で国がなくなろうとしている。このところの異常気象。海水の温度上昇で、八重山諸島では白化現象が起きてサンゴが死滅。反対に本土では紀伊半島どころか房総半島沖沿岸でもサンゴの生息が確認された。

温室効果ガスと地球温暖化、異常気象の「因果関係」は科学的にはまだ証明されたとは言えない。しかし多くの人が感じている「昔とは違う異常現象」や温暖化の影響は無視できないし、とりあえず疑われる要因(CO2)を削減するという目標は間違っていないだろう。

しかし朝日さんの主張は違う。脱原発を社論と決めてからは、温暖化問題などなかったように、記事は扱わない。無視していると言っても過言ではない。おそらく社内の暗黙の了解として「この問題はしばらく触らないでおきましょ」というところなんだろう。

朝日は「脱原発」がなぜ可能なのか、どういう道程を踏めば進めるのか。ほとんどまったくと言ってもいいほど触れていない。産業空洞化の問題、開発途上国の今後の経済発展で化石燃料が高騰するリスク。もちろん中東リスクも当然ある。そうしたものは「脱原発」の教祖の前では無視されている。こうした疑問に具体的な施策を提言し、説得力あるものであれば、「なるほどこういう論法で脱原発も可能なんだな」と読者も思えるのではないでしょうかね。それなくしてはこれでは「精神論」そのものだ。開沼博氏の言葉を借りれば、宗教的ですらある。新運動家と巷間呼ばれる人たちの叫びと何ら変わりない。説得性も説明性もない。

○「節電」の精神論
節電については、社説で2回も3回も取り上げ「奨励」しているが、このおかしさにもひと言触れておこう。電力不足によって家庭や企業が電力使用を見直し、無駄をそぎ落とすことは当然だし、多くの人がやっているだろう。しかし「節電」は、どこまでやればいいのかという指標がない。政府は「無理のない範囲で」ときれいごとを言うが、様々な報道で伝えられるように工場、特に中小企業の事業所では血のにじむような努力をして去年の夏を乗り切った。夜間、休日に働き、冷房はかけずに汗だくになって働く姿が、テレビニュースでは何度も流れた。こうした人たちに朝日は「ガンバレ」と言うだけだろう。これって精神論でしょ。「欲しがりません勝つまでは」とかつて皆で歌った(らしい)のと何が違うのか。

6月2日の「あぜん、再稼働」では京都大学の植田和弘教授という「識者」が、
「あの暑い真夏に私はちなぜ、あんなに冷房をガンガンかけてまで働くのでしょう。欧州のようにバカンスを取り、農山村の自然の中で夏を過ごせないものでしょうか。そうすれば電気消費表も減る」と説くのを載せていた。
大学教授とは優雅で知的なショーバイなんでしょうね。この人の眼中にある「欧州」とは、中産階級以上の人しか映らないのであろう。アフリカやアラブからの多くの移民が低賃金で支えている欧州社会の本質なんか映っていない。
「声」欄にも「京都の町家の工夫を生かせ」なんていうのが載っていたりした。集合住宅や一戸建てだって、ほとんど隣とくっつきそうな隙間しかなく庭なんてない家に多くの人が住んでいることなんか分からないおメデたき人々の「声」だ。ルサンチマンの虜囚として言っているのではない。自分の置かれた恵まれた事情からだけ物を言う人の「思慮のなさ」に呆れているのだ。

これは「市民運動」の人々にもよく通じることだ。「わたした市民の声を聞いてください」と叫んでいる人がいるが、この時、市民とは自分たちと同じ考えを持ち、同じ境遇にいる人“だけ”と規定されている。無意識に人を差別化していることに気がついていない。往々にしてこういう人の考えは偏狭で話し合いの余地がないほど教条的だ。あっちの人は市民ではないのだから。
(※湯浅誠さんは「市民運動の立ち位置」で、そのへんのところをやんわり批判した。湯浅さんは決して市民などという言葉を軽々には使わない。


社会人になってからずっと(もうすぐ30年になる)朝日新聞を定期購読してきた。しかし「精神論」の新聞はもういい。そろそろやめにする。家人が楽しみにしている連載小説(朝・夕とも)の現在の連載が終了すれば、その月までにするつもりだ。

朝日では土曜別刷(beeと言ったっけ)や日曜日の書評、夕刊文化面など信頼もおける結構好きな記事もあった。また署名記事では、経済の原真人氏の主張は、脱原発一色のこの新聞にあって、異彩を放つ説得力のあるもので、いつも物事を考える参考になった。だから惜しいけど、これからは勤務先や図書館でナナメ読みだけにしよう。


(でも取る新聞がない。Yさんは江川事件以来基本的に信用していない。Nさんだけだと経済に偏ってしまう。Tは論外、Sは原発や消費税では常識的な論を張るが、皇室や対中関係、対朝関係、戦争評価ではちょっと・・・・。で、Mさんもイマサンくらいだ。かといってS教新聞やしんぶんA旗を取る気にもなれないよね)。


○原真人氏の記事の確かさは、別に論じたい。
○原発はなぜ必要か、説得力ある論考としては、中央公論6月号 豊田正和氏の「日本にとっての最適なエネルギー・ミックスは何か」が参考になる。簡潔にまとめられている。同様の内容は新潮新書「反原発の不都合な真実」に詳しい。

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