2013年6月27日木曜日

世界遺産「富士山」に熱狂する人々のメンタリティーを“嘆く”

以前、桜一辺倒でいいんでしょうか、と書いた。
東日本大震災の被災地などでは、再生のシンボルとして桜を植えることがはやっていることなど、とかく日本人は、桜ばかりを植えたがる心情に対して疑問を呈した。(※日本人の定義については、ここでは触れない。しいていえば「日本先住民」とでも言うのだろうか。)
雲取山から見た富士山1(2011年撮影)

 言わずもがなだが、ソメイヨシノは接ぎ木でしか育たない。寿命も50年~60年と言われている。木でありながらその程度の寿命のものを植えることについて、何の疑問も持たないのだろうか。

富士山について書こうとして、ついソメイヨシノについて語ってしまった。

登山ブームであるらしい。だから登山経験のあまりない人々が「山に登ること」にあこがれ、どうせ行くなら日本で一番高い山へ、と思うのだろう。そうした需要に応えて旅行会社や山岳ガイドを生業とする人々が「弾丸登山」で素人を3774mに引っ張りあげる。

世界(文化)遺産に登録された富士山にはますますこうした人々が増えるだろう。弾丸登山について、警鐘を鳴らす報道もマスメディアで目立ってきた。

富士山に登ることが「目的化」した人々は、たとえそれが成功しても、いや、成功したら、もう山に登ろうという気にはならないだろう(と、思う)。なぜなら一番高い山に登ったことで、彼らはある種の目的を果たしたと感じるからだ。本当の「山愛好家」にはならない。

撮影2012年11月17日 自宅から
長続きする山愛好家になる人は、まずハイキングから始める人だ。自然の中で緑とおいしい空気、また星空に触れて、人工的につくられた都市にはない「何か」があることを悟った人が、「また来よう。」「違う山にも行ってみよう。」と思うものだ。

はっきり言って富士山は登ってもつまらない山だ。5合目から登り始めたら、ほとんどが森林限界以上であり、石のゴロゴロした、言ってみれば砂利道をひたすら九十九折(つづらおり)で高度を上げていくだけ。今はどうかしらないが、途中の小屋のし尿は、植物がほとんどないから分解されず臭いニオイが漂っている。
木々の息吹を感じることも、小動物や野鳥に出会うことも、ほとんどないだろう。

日本一の高さに到達すること。しいて加えればそこで「ご来光」を拝むことが目的化した山歩きなんか、どうなんですかね。
富士登山を「目的」として考えている方々。ちょっと立ち止まって考えて下さい。
撮影2013年2月25日 東京タワーより(200ミリ望遠)
雲取山から見た富士山2(2011年撮影)

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