2015年9月23日水曜日

新安保法 どう運用するのか、これから問われるのは国民自身だ

 祭りは終わった。儀式と言ってもいいかもしれない。もともと数は決まっているのだから、採決すると決断した段階で、勝負はついていた。それを乱暴なやり方で阻止しようとするのは、単なる選挙民・支持者向けのものでしかない。
 良い悪いではない。決まったのだ。

 安倍首相は去年暮れの自らが解散して行った総選挙で、新安保法案のことは公約のひとつに掲げていた。だから今回のやり方を「有権者への裏切り」とか「だまし討ち」とは言えない。
 
 メディアはことここに至って騒ぎ立てるが、なぜ総選挙の時、もっと問題視しなかったのか。その『罪と罰』を覆い隠すために、“リベラル派”のメディアは今回の国会の内外の動きを大袈裟に報道しているように思える。「私たちはちゃんと“みんな”の思いを伝えています」と。醜いとしかいいようがない。総選挙の時、問題視しなかった理由は一切言わない。
 
 「説明不足」という言い方をメディアも“みんな”も言い立てる。はたしてそうか。政府は少なくとも、説明不足と言われないよう、結構丁寧に説明しようと努力していた。これは公平な見方だ。だから矛盾点も浮かび上がってきたし、議論もそれなりに活発だった。学者の方々の「憲法違反」の発言も率直だったと思う。
 
 だから、「説明不足」だから「この法案はいけない」というロジックはいささか身勝手だ。これもひとつの「レッテル貼り」に他ならない。「戦争法案」とか「徴兵制復活」などと言うの同様に。
安倍首相を好きか嫌いかで言えば。きらいだ。反知性的で、国会で自らヤジを飛ばす品のなさ。というよりバカぶりは醜い。しかし彼を攻める側も同じ反知性と下品で立ち向かうから、そちらの方が醜く見えてしまう。
 まあ、いずれにしても、この法案をどう使うか、または使わないのか、はわれわれ有権者に問われている。気分やその時の空気で物事を進めたらわれわれ自身がオシマイだ。

※「みんな」とは:国会前のデモの方々へのインタビューを聞いていると、よく「みんな不安です」とか、「みんなこんなに反対しているのに」などと、「みんな」という言葉がよく出てくる。この「みんな」とはいったい誰なのか。辞書的意味では「みんな」とは全員だと思うのだけれど・・・。
安易に「みんな」という言葉を使うのは賢明ではない。無意識に主体を誤魔化しているように思う。「私は・・・」と、どうして言えないのだろう、みんな


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