2016年11月23日水曜日

持続可能なコミュニケーションとは。「東北食べる通信」から考える。

 blogにしろ何にしろ、文章を書く時、予め頭(又はメモなど)に、「書きたいことの結論」がある訳ではない。
 実は何を「表したい」あるいは「著したい」のか、自分でもわからない。
ただ、アタマの中に何かモヤモヤしたものがあり、それを何とか吐き出したいという感情だけが、最初にある。
 書くこと、かっこ良く言えば思考を言語化する過程で、自分が何を書きたいのか、書くべきなのか、何を言いたかったのか、次第に整理されてくる。
大昔に読んだ本で、小林秀雄が「書くことは考えること」と言っていた。このフレーズは、いまでも文章を書き始める時、思い出す。
整理されていないアタマをスッキリさせるのは、とにかく書き始めることなのだと。

 と、前置きが長くなってしまったけど、(一部で)話題の『都市と地方をかきまぜる~「食べる通信」の奇跡』(高橋博之著)を読んで、アタマの中がモヤモヤしてきて、書き始めてしまった。

 高橋氏が「グッドデザイン賞」金賞を受賞したという、「食べる通信」の試み、(というよりは事業と言っていいかもしれない)は、これまでもよくあった、「顔の見える農業」や、「生産者と消費者を結ぶ催し」とさほど変わらないビジネスモデルだし、これ自体が斬新という訳ではないけど、この事業をポピュラーにし、限定された地域から東北全体に広がりを持たせたこと、また「食べる通信」の内容の濃さなど、いくつもの斬新さがあったことは確かだろう。元県議、知事選挙立候補→次点で落選→政治家引退という経歴も「宣伝」に一役買っている。もともと新聞記者志望だったという著者の「文章好き」が、この事業を持続させているのは確かだ。

 我が家も、お米を山形・鶴岡市の有機農家の直販で買う。中には簡単な手紙が添えられていることもある。初めのうちは読むけど、そのうち飽きもくる。おそらく書く方もネタが尽きてくるのだろう。初めは生産者と消費者を結ぶコミュニケーションだったが、次第に陳腐化して、次第に、消費者の方も単に「おいしいお米」を手に入れるという手段化していってしまう。生産者の方も、おいしい有機米というウリを伝えることが、次第にショーバイ化してしまう。
 これはコトの成り行きとして仕方のないことだ。否定しようもない。なぜこの農家からお米を買い続けるのか。この農家を応援したいからというより(そういう気持ちもちょっぴりはあるけど)、単に安心でおいしいつや姫の無洗米が比較的リーゾナブルな価格で購入でき、それも家まで届けてくれるからにほかならない。こう言ってしまうと身もふたもないけど、冷静に言うとこういうことだ。

 「東北たべる通信」(直接読んだことはないけど)は、おそらく生産者本人が「書く」のではなく、この高橋氏が、ある種ジャーナリストの目で、生産者と消費者をつなぐ役目を負っていることが、内容の陳腐化を防ぎ、持続的な読み物として続いている大きな理由なのだろう。これは評価すべき大きな要素だ。
 逆の言い方をすると、有力な後継ライターが育たない限り、高橋氏が書かなくなると、やがて陳腐化し、たんなる農家直販のショーバイ化する恐れもあるということだ。

※自分が何を書きたかったのか、ここまで書きながして、初めて少し分かった。ここまで書いて、タイトルが浮かんだ。

著者は、かなりの読書家だということが伝わる。そのためこの本の前半は、著名人の引用が随所にあるけど、ちょっと説教臭く、読んでいる方は心の中で苦笑してしまう。第3章のチャプター2になって、やっと『食べる通信』の誕生のいきさつ、エピソードが出てくる。
リクツから入るところは、私自身のクセにも似ていて、だから妙に共感してしまうところもあるけどね。

 人口減少社会、都市への一極集中社会、都市の地方(農村)の結びつきをいかに取り戻すか、など所与の課題に正面から取り組んでいるし姿勢は支持するし、多くの人はそのこを否定しないだろう。この本を読んで、逆に課題が分かったのは、どんな試みも陳腐化、形骸化させずに、持続させるためにはどうすればいいかということだ。
 
 事業の多くが、属人的な能力で支えられているものは、ちょっと見渡すと結構ある。ソフトバンクの孫正義、『たいまつ』の“むのたけじ”、後継者がうまく育たないと、やがては消えていく。
トヨタや松下は、後継者が育ったから更に大きくなったとの言える。(ちょっと乱暴な論理かもしれないけど)。

 魅力的な文章で、食物とその生産者を支え、消費者との線を太くする。その活動には敬意を表したいし、参考になる事業だ。繰り返しなるが、それをいかに陳腐化せずに続けるか、自分なりに考えてみよう。漠然と農業を応援したい気持ちは心のどこかにあるのだから。

0 件のコメント:

コメントを投稿