2015年4月17日金曜日

「考える」とはどういうことか。「0(ゼロ)ベース思考」書評をきっかけに考える。


週刊ダイヤモンドの書評欄によると、「0(ゼロ)ベース思考」(スティーブン・レヴィット・シカゴ大学経済学部教授)が売れているらしい。

創造的な考え方をするには「週に1、2度考えるようにすればいい」という。多くの人は自分はモノを考えていると思い込んでいるが、実際はじっくりモノを考える機会事態、ほとんど持っていない、という。

著者がアイデアを得るためにしていることは2つ。
毎日の生活の中で、あらゆる物事に対して、「それは筋が通っているか」を考えること。
もひとつは、「普段と違うことをする」ということだという。

あと、「死前検証」をあげている。これは、もしプロジェクトが失敗するとしたら、どういう理由で失敗すると思うか、事前に考えるということらしい。

どの程度「お役立ち情報」なのか分からないが、書評を読んで、それ以上、わざわざ時間を使って読もうという気にはならなかった。

ただ、「立ち止まって考える」ことの重要さは、常に心に留めておくことが大事なのは再認識させられた。 

●「考える」ことについて「考える」

哲学的思索をしようという訳ではない。単純に「考える」とは、身体はどういう状態か、ちょっとさわってみたい。

 かねがね思っているのは、人は(もちろん動物も)、2つのことを同時にはできないということである。この「2つのこと」とは、考える行為についてである。少なくとも“同時にはできない”という認識を常に持っていることが、実は極めて重要な「謙虚な姿」なのではないだろうか。

「考える」とは、アタマの中に、余計なインプットをしない状態が必要だ。もしくは無意識に、そのインプットを遮断している状態がなければいけない。
 
 車を運転している時、アタマと身体は「運転」という複雑な行動を一体のものとして、駆動させている。前を見ながら、時々バックミラーで後ろも確認し、ハンドルを微妙に操作しながら道なりに車の方向性を決め、アクセルを加減しながらスピードが適正になるようしている。

 当たり前のようなことだが、それこそ“考えて”みると、結構複雑なことを一度にやっている。でもそれは車を安全に移動させるというひとつの目的のための一連の思考と身体的動きだ。

 この時、実はカーステレオ(っていう言い方は古いかな)から流れる音楽は、正確に言うと「聞いて」はいない。ただ耳の中に音が入ってきているだけだ。それは、例えば混雑しな高速道路で追い越しなどのより複雑な行動を起こした時に気が付くだろう。

一瞬、あることに真剣になった時は、他のことは無意識に切り捨てられている。反射神経の範疇で行えることは別なのかもしれないが、そうでない複雑なことは、2つ同時はできないのだ。

 クラシックのコンサートで生の音楽を聴きながら本を読んでいる人はいない。(いるかもしれないけど、まあ一般的に)。それは本を読んでいる時の音楽は、まさにBGMであって、真剣に聞くための音楽ではないから。本を読んでいる時は、その馴染みの音楽の旋律の心地よさは聞こえてくるが、微妙な、繊細な部分は入ってこない。だから、
 わざわざおカネを払ってコンサートに足を運んだ人は、そこで本を読みながら音楽を聴くことはしない。いや、できないのだ。当たり前だけど。

なぜ、こんなことを長々書いたか。それは「考える」ことをしない人が増えていると感じるからだ。

 いささか古い新書だけど、京都大霊長類研究所の正高信男さんの本をあげておく。
①:『ケイタイを持ったサル~「人間らしさ」の崩壊」』(2003年)、
②:『考えないヒト~ケータイ依存で退化した日本人』(2005年)

実はケイタイを持ったサルを読んだ覚えがあるだけで、今回この論考を書くにあたってアマゾンで検索したら②も出てきた。

 当時、携帯電話が普及し始めたころ。正高さんは、女子大生などの携帯依存に対して、そうとうアタマに来ていたようで、内容についてはもう忘れてしまったけれど、文章からその怒りだけはヒシヒシと伝わってきたことだけは覚えている。

②はまさに、今回の論考のテーマそのものだ。今度、立ち読みしてみよう。まだ絶版でなければ。

で、携帯電話がスマホにとって代わっただけで、「考えないヒト」は相変わらず多い。いや多いだけではなく日々増殖している、と感じてしまうのは、私(と、正高さん)だけだろうか。

 車内や駅構内で常にスマホをいじっている輩は、それがネットサーフィンであれ、ゲームであれ、アタマには、さまざまな情報がインプットされている状態だ。
インプット時には、「考える」ことはされていない。
かくして、スマホが便利になればなるほど、それが手放せなくなり、「考えるヒト」は減っていく。

「0ベース・・・・」が指摘するように、「考える」ことをしていると思っているビジネスマンなどの中産階級でも、実は「考える機会を持っていない」というのだから、そうでない人々はなおさらだ。


 いまさら書くほどのことではないが、考えない人はどう行動するのか。印象やイメージ、単純は発想で、モノゴトは判断し、それが「正しい」と思ってしまう。

選挙の投票行動にはそれが顕著に表れる。だから候補者もイメージ選挙を展開する。もっと言えば、人気取り。ポピュリズムだ。そういえば「政治はすべてポピュリズム」とかいう新書もあったな。

世の中に「考えない」人が増えると、テレビも新聞も、政治も、すべてのモノが「考えない人」を前提に作られる。書籍も、考えないで済む、カンタンなものが増えている。

「親切な作り」「丁寧な説明」「納得いくように」などの言葉が世の中にあふれている。考えないヒトのために。

考えるにはそれなりの時間が必要だ。いうわゆるアタマのイイ人、アタマの回転がいい人は、瞬時にものを考え判断しているようだけど、決してそれだけではないだろう。普段からさまざまなことについて考えをまとめているから、ある時に、即座に判断できるのだ。

このことを、考えないヒトは勘違いして、考えていないのに、自分は考えているという錯覚を持って、モノゴトを判断する。それはあまりにも安易で危険だということに気づいていない。

古市憲寿さんだったか、だれだか忘れたけど、沖縄基地移転問題にしろ、集団的自衛権にしろ、これがいいか悪いか、考えれば考えるほど、本当は「わからない」という答えが多くなって当然なのに、(単純に)イイ、ワルイということが世論調査で出てくるのが、不思議だという。
考えることなしに単純な思考で価値判断することを、世の中は奨励しているようだ。


では「考える」にはどうしたらいいのか。

「書くことは考えることである」というのは、確か、小林の「考えるヒント」だったけ。
内田樹さんも同様のことを繰り返し述べている。まず「書きたいこと」が事前にあって、書くのではなく、書いているうちに、考えがまとまり、書くべきことが「発見」されると。

書くことでアウトプットし、考える。
もうひとつが、「ぼんやりすること」なのかもしれない。
4月15日のNHK「あさイチ」で、やっていた。

http://www1.nhk.or.jp/asaichi/2015/04/15/01.html

これは「考える」こととちょっと違うのかもしれないけど。
「考える」ことを考えると、いろいろ「考え」が出てきて、短い文章ではまとめきれなくなってしまった。
支離滅裂な文章だけど。
これが自分の「ヘタの考え休むに似たり」なんだろう。自戒自省を込めて。






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