2011年11月10日木曜日

「新聞社説」の憂鬱

ユーロ危機にあってギリシャ救済に関する国際公約を国民投票にかけるという(結局はなくなったが)首相の判断を、購読しているある新聞は社説で「危険なかけ」と断じていた。
そのこと自体は常識的な主張だろう。何しろ世界中がギリシャ首相の判断に驚いたのだから。

 しかし、あれれ…である。この新聞は日頃、国内政策に関して、重要な事案は解散して信を問えとか、国民投票、住民投票による「直接民主主義」を唱えていたんでないの。これでは日頃の主張とはなんなのかと思ってしまう。こういうのを都合主義と言うのだろう。

 「ギリシャも国民投票を行い、その結果ユーロ各国の支援がされず国が破たんしても、それは国民が選択したことだ」と主張するのなら、日頃の社説との整合性はある。このへんに新聞の「苦悩」を見てしまった気がした。 

 かつて高度成長のころ、日本という社会には希望があり、確かに物質的に次第に豊かになっていった時代だった。もちろん、水俣病のような深刻な公害被害や薬禍、交通戦争、大きな事件、事故もあり、被害に遭われた当事者には、重大で忌まわしい時代であったと思うが、総体として、多くの人々には、少なくとも今よりも豊かになっていくことを実感できた時代だったろう。オイルショックやインフレもあったが、国や地方自治体は増える税収の使い道を考えていればよかったし、労働組合も賃上げを叫んでいればすんだ。

 そういう時代にあって新聞もまた、世の中の不幸を嘆き、政治や行政、そして大企業などの「権力」批判をしていれば読者は満足し部数も伸びていったのだろう。それが新聞の生きる道として。
 佐藤栄作が首相退任会見で新聞を締め出したのは、(そのこと自体は大人気なく稚拙な行動だが)、背景に、長年の新聞の権力に対する「態度」に対しての不満が爆発したものだ。

 しかし新聞はじめマスメディアが権力を批判をしていればいいという時代は終わった。これだけ複雑化し、月並みな言い方をすれば価値観が多様化し、ひと言では言い表せないからみあった利害関係があり、地球をみれば多民族が70億人住む事態に、簡単な答えはない。

 社説も当然方向性が定まらない。ぶれる。それを多様な事態に対応した言説と見るか、ご都合主義と見るかは読者によるだろうが、わたしは何かしっくりこない。社説が首尾一貫していないからけしからんと言っているのではない。世の中の迷走と同じようにメディアの主張も迷走していることを感じているだけだ。

 なぜ社説を問題にするか。その辺のエセ知識人やタレント学者の言説と違い、クウォリティーペーパーの社説を書く人間は間違いなく知識人であり、それも様々な分野の専門知識人の“熟議”を経ての言説だろうからだ。それが定まらないということは、苦悩であろう。

 確かなのは「社説」が“多様化”すればするほど、新聞はクウォリティーペーパーとしての地位を失っていくということだ。大衆紙と変わらなくなっていく。

 そのことに、新聞自身が気づいている。

 このところの社説は権力批判をする返す刀で「大衆」への啓蒙的説教もよく見るようになってきた。その典型が、この項に「引用」した朝日11月7日の社説である。 
2011年11月7日朝日社説を“引用”



ポピュリズムという言葉は、新聞やテレビは注意深く避ける。見てくれる、購読してくれる人を批判することは、自殺行為だからだ。しかしホンネはそこにある。
「世論調査政治」「テレポリティックス」の責任はマスコミ自身にある。いまさら「熟議」とか「輿論」の喚起とか言い出しても、もう大衆は元に戻れないかもしれない。
 東日本大震災の一連の報道は、「昔の悪いクセ」が出て行政の責任、説明不足、対応の遅れを批判するオンパレードだった。
 確かにご指摘の面は否定しようもなく、実際政治や行政の対応にもどかしさを感じていた人が大多数だったことも確かだろう。が、あれだけの大惨事の中で、放射能問題にしろ復興にしろ、もう少し冷静な伝え方はなかったのだろうかとも思う。

 「要求」しているだけでは希望も豊かさも逃げていってしまうことが自明の世の中になって、新聞の「わが社の主張」は、苦悩している。

検察証拠ねつ造事件など、新聞がはたいている役割は依然大きいことには変わらない。だからこそご都合主義から脱皮した、もう少し質をあげた「主張」を展開してほしいし、そういう社説を読みたい。



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