2012年1月9日月曜日

石原千秋さんの著書との出会い



子を持つ親として、教育は大きな関心ごとだろう。私自身も例外ではなかった。東京神田神保町の三省堂や新宿紀伊国屋の「受験コーナー」には、子どもが小学校2年くらいの時から足げく通い、親としての予習を行ってきた。


新潮選書「秘伝 中学入試 国語読解法」は、実は子どもを授かるかなり前、初版が出たころに購入して、“積ん読”しておいた書籍だった。


この時、なぜ購入したのかは、よく覚えていない。子どもを授かる見込みもない中で、将来を見据えてという訳ではなかった。ただ出たばかりで平積みになっていたこの本がなんとなく魅力的だったのだと思う。

おそらく一般書のコーナーに置いてあった。



もともと文章術に興味があった。本多勝一「日本語の作文技術」は高校生の時に読み、目からウロコだった。この本は後に何回か頁をめくった。一方、読解力にはコンプレックスがあった。大学受験でも、どうして現代国語の点数があがらないのか悩んだ。そんなこんなで、この本を購入していた。


しかし、この本を購入したことなど、忘れてしまっていた。そして子どもの受験準備で、受験コーナーでの再会である。
「あ、この本!」と心の中で叫んだ。ウチにあるはずだ。まだ絶版にならずに生き残っているのかと少々驚きだった。しかし持っているずの本を、どこにしまってあるのか、にわかには思い出せなかった。なにしろ就職してからこの時まで9回引っ越しをしていて、読まない本はどの段ボールに入っているのか、またはどこかに置いてきてしまっていたから。


そして結局、後日、改めて購入した。
私と息子の「父と子の受験」それは、この本が後押ししてくれたと言っていい。
前半は、父親の中学受験体験記であり、後半に中学入試の国語読解法の“秘伝”が書かれている。
小学生に受験勉強をさせるというのは、(凡人の場合)本人の意志だけではなかなか難しい面がある。家族の様々な支援があって初めて成り立つ、と思う。

この本の詳しい内容はもう忘れてしまったが、確か石原さんは、息子の受験のために引っ越しまでしたように記憶する。不得意な教科をどう後押しするか、親としてどう振る舞うか、言われてみれば親として「当然」のことかもしれないが、それはそれでとても参考になった。

「読解法」の本を何冊も著しているので、当然文章は非常にうまく読みやすい。これをきっかけに、石原さんの本の“愛読者”になった。

石原さんは漱石研究家で現在早稲田の教授。
以下には読書論の著書を紹介する。


ちくまプライマリー新書

「未来形の読書術」石原千秋著(2007 ちくまプライマリー新書)は、高校生くらいに是非読んでもらいたい本だ。読書術というとハウツーもののように思うかもしれないが、そうではない。どういう心構えで「文学」と向き合うことができるのか、また向き合った方がいいのか、わかりやすく導いている。

 石原さんは本書の中で控えめに「もし私の著書の愛読者というのがいるのなら、他で書いたことと重複している」と述べている。確かに「読者はどこにいるのか」(  )などと内容は重なるが、それでも構成が違い、書き方が違うから、新たな気分で読める本だ。



読書に没頭するとはどういうことか。本を読む前にわかること。本が他のメディアと違うところ。ヤウス「読者の期待の地平」、物語の4つの型など本をどう読むか分かりやすく書かれている。


印象深い部分を以下に引用
P21
若いということは今の自分に満足していないということでなければならない。いまの自分に満足している若者は現実にへたり込んだ精神的な「老人」である。精神的な若者はいつもいまの自分に不満を抱えている。だから「理想」の自分へ「成長」しようともがくのである。それは少しもみっともない姿ではない。「大人」はそういう「若者」を暖かく見守るものだ。
現実には未来に書かれた本はない。本はいつも過去に書かれている。しかし本の中に未来形の自分を探したいと願う人がいる限り、本はいつも未来からやってくる。そのとき、本には未知の内容が書かれてあって、そこにはそうありたい自分が映し出されている。これは理想の自己発見のための読書、未来形の読書と呼べそうだ。古典を新しいと感じることがあるのは、そのためなのだ。本はそれを読む人の鏡なのだから、その人が読みたいように姿を変えるのである。


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