2012年1月19日木曜日

何かを得ることは何かを失うこと スマホから何を得るのか

土曜日の朝の山手線。五反田から代々木に向かう外回りの6号車は座席がほぼ埋まる程度の人だった。ほぼ毎週この電車に乗り、車両中央付近に座る。
土曜日なのでいわゆるサラリーマン風の通勤者は少ない。意外に多いのが若者。サービス業など週末も仕事のある人々、あるいは大学、専門学校への通学なのかはわからない。年配の女性も何人かいる。

扉から扉まで7つの席がある。その両側で14人が座っていた。このうち携帯電話やスマホを操作していた人は10人。寝ていた人2人。何もしていない人ひとり。私の両脇の人はどちらもスマホだった。覗くと右側はゲーム、左側はネットらしい。
14人中10人も携帯端末をいじっている光景は、私にはちょっと異様に見えた。
電車内は本を読むところという「固定観念」がまだ私にはある。またそれはいいことだと思う。
しかし彼らは携帯端末をいじくることに時間を費やしている。

14人という母数で一般論を言うのは飛躍かもしれないが、これだけの割合で車内で携帯端末を使用している人が増えたということは、それだけ本を読む人が減ったということだ。電気機器メーカーやそのソフトを作る企業は潤うが、書籍に関係する企業は衰退する。

人口というパイが増えない(むしろ減っている)中で、本を読む人がどんどん減っていく。これを携帯機器の製造や販売に関わる人々は喜んでいるだろう。だってシェアが増すのだから。
しかし、書籍関係者にとっては危機だろう。また本を読む人にとっても業界が衰退することは、いい製品(作品)が少なくなるので残念だ。


スマホ現象。
こうした電車内の光景が、単に自由競争の中での奪い合いということで片付けられるものであればそれでよい。
しかし「本を読まないということはどういう人間になるか。」という、検証不能だが深淵な問題は、何も論じられない。

説教じみてこんなことをいまさら記すのはイヤだが、物事を深く考えない、結論を急ぐ、浅はかな議論をする、自分への万能感などなど、多くの識者が指摘することだ。
読書とリテラシーの間に、相関関係はあるかもしれないが、因果関係は証明だれなと言ってしまえばそれで終わり。でもそれでいいのか。

失なわれるものは、書籍だけではない。スマホをいじっている人々も、限られた人生の時間をスマホに奪われていることに気付いていないだろう。

自分の子どもが電車内での読書の習慣を身に着けてくれたことに、密かにホッとする。(小説ばかり読んでいるけど)

人々はスマホという魔法の箱から何を得ようとしているのか、「読書」の時間を失うことによって。
週末の山手線の中で考えた。

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