2012年1月25日水曜日

「正しいこと」は厄介だ。脱原発は如何に伝えられたか

善意の行為はしばしば、「はた迷惑」になることがある。良かれと思って行われても、相手にはちっとも感謝されない、なんてことはしばしばある。これが他愛もない日常的なことならば笑って済ませる。
しかしコトが大きなテーマだと、少し考えてしまう。
毎日新聞web版より引用

1月18日、関西電力大飯原発3、4号機の安全評価(ストレステスト)について経済産業省で開かれた意見聴取会は、原発の再稼働に反対する市民団体のメンバー約20人が傍聴を求めて会場に入り混乱した。聴取会は、別室でテレビモニターによる傍聴を認める予定だったが、市民団体のメンバーたちは同室での傍聴を求めた上で、「再稼働ありきで議論すべきではない」などと抗議したという。
会場に入って抗議した市民団体の様子は、テレビのニュースでは各局で繰り返し放送された。この模様を見ていて、「正しさ」とは何だろうと改めて考えることになった。

聴取会の会場で傍証する方が正しいか、別室でモニターでも良いのか、私にはわからない。しかしおそらく、主催者(経済産業省)は市民団体が抗議行動を起こすことを想定して「別室」にしたのだろう。「学術的な見地から」(枝野大臣)行う聴取会で「原発反対」の人々が「再稼働は妥当」という結論に対して“騒ぐ”ことはこれまでの行動から容易に想像がつく。お役所としてはもっともな判断かもしれない。

 「脱原発」が絶対の真理と考える人たちにとって、自分たちの行動は「善意」による「正しい」行為だ。おそらくこういう人々は、どんな場でも「反対」と抗議を声に出し、落ち着いて、異なる意見に耳を傾けるといういうことを、どんなにお願いしても通じないだろう。なぜならそれが彼らにとって「正義」だからだ。
メンタリティーとしては、「放射線ゼロリスク」を求めて東日本から脱出する人、少しでも数値が高いと大騒ぎする人たちと同じだろう。
 こうした行動が「脱原発」を目指す人、なんとなく志向する人、を遠ざけてしまうことにも作用するとは、彼らは考えない。正しいことをして「スッキリ」しているに違いない。
 こういう人たちには「科学的」「論理的」という言葉が通じない。そういうことを言うとかえって油を注ぐことになる。
 悪意の行為であれば、その行為者は、それが「悪」つまり「正しくないこと」ということを認識しているので、悔い改めることができたなら、その行為をやめる。
しかし「善意」の人は、悔い改めることはない。当たり前のはなしだが、「正しい」行為だからだ。これがもっとも厄介だ。
話し合いの余地や説得が通じないのだから。
その行為がどういう影響をもたらすか、どういう結果を導くかは、彼らには関係ないのだから。

さて、マスコミはこれをどう伝えたか。
午後の出来事で、ほぼリアルタイムで伝えられるテレビ各局は、この模様を繰り返し流していた。が、この抗議する人を新聞に載せていたのは、翌日の主要各紙の東京版を見た限りでは毎日だけだった。(web版にも毎日にしかこの人の写真はなかった)

どうしてか。
脱原発を「正しいこと」とする朝日、東京は、「脱原発」のイメージダウンを懸念し、意見聴取会が傍聴なしで行われたという「事実」にウェイトを置いて記事を構成した。
「原発再稼働」が「正しいこと」と唱える読売、日経には、こうしたセンセーショナルな映像(画像)が、大衆心理を喚起して「脱原発」の声が一層高くなることを心配した。という推論を立ててみた。
 つまり、どちらの側にとっても彼らの抗議行動は「不利」になると判断したのではないか。そしてこの写真の掲載を見合わせた。
その点毎日新聞の扱いは公平だったように思う。ちなみに毎日は「脱原発」派だけども。

現場にいたカメラマンであれば、ほぼ間違いなく彼らの抗議行動は映像に収めたはずだ。だってこの映像が、18日の騒動の中では一番インパクトがあり、状況を伝えるのにふさわしい映像だからだ。(撮らなかったらカメラマン失格だろう)

新聞各社にとって「正しいこと」は、時に真実を伝えるという姿勢を遠ざけることになる。本当にやっかいだ。

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