2010年11月5日金曜日

見ようとしないものは見えない by湯浅誠さん


湯浅誠さんは、一昨年の年越し派遣村で一般にも広く知られるようになり、いまは内閣府の参与も務めながら貧困問題と取り組んでいる人だ。自分より年下で、心から尊敬できる人はそういない。しかし彼のことは心から尊敬する。4月、彼の出身高校で講演があるというので出かけた。

「岩盤を穿つ」(文芸春秋2010)を読んだ直後だった。著書には出てこない話しが面白かった。

そのエッセンス。浪人して頑張って東大の法学部に入った彼は、合格を見たとき、「ああ自分は頑張ったんだな。よく努力した。」と思ったという。当然であろうだれでもそう思うことだ。しかしその後、ホームレス支援などを通じて経験を積み、「いまから思うと、それは条件が良かったからだ」ということに気が付いたという。

彼は父親が日経新聞記者、母親が教師という“恵まれた”家庭で「静かに勉強できるひとりの部屋を与えられ、受験勉強を行うにはいい環境であった。誰しも自分の“成功”を自分の努力(だけ)と思い込む。置かれた環境や条件がよかったことを顧みることはない。つまりそういう「条件」を普通は顧みることはないということだ。

置かれたを条件を斟酌しないで、成功も失敗も「自己責任」という言葉で片付けていく世間の風潮に、湯浅さんは静かに抵抗を表明していた。

ホームレスになる人は、最初から条件が不利だった人が多い、という。雇用情勢がこれだけ悪化して昨今は冷静な見方も支配的になってはきたが、多くの人はホームレスを見て、「努力をしなかった人」「お酒やギャンブルに負けた人」つまりあまり同情する必要のない人として見てきたのではないだろうか。それは一面健全な考え方でもあると思う。しかしそれだけではないし、それだけとしか見ないことは何の解決にもならないことに私自身やっと気づき始めた。

「見ようとしないものは見えない。」

湯浅さんが東大の駒場のキャンパスに通い、渋谷で遊んいる時は、渋谷にいる多くのホームレスに気が付かなかった。それはなぜか、見ようとしなかったからだと。ホームレス支援のボランティアを始めて初めて、こんなにも多くのホームレスがいるのかと、彼らの存在を見る(認識する)ことができたという。

見たくない現実は見ないようにする。考えたくない困難は考えないようにする。ヒトの無意識はそういうふうに働く。学生時代、勉強していても苦手な科目はつい後回しになり、結局ちゃんとやらず、ますます不得意になる経験は数限りなくしてきた。今でもそうだ。気の進まない業務に関するメールは、見なければいけないと分かっていても、ついつい後回しになり業務が滞る。そこにヒトの弱さあるのだろう。
将棋の棋士で佐藤康光九段(永世棋聖)がいる。かつては竜王位や名人位にも就いた羽生世代のトッププロのひとりだ。彼はタイトル戦でも必ず相手の得意戦法にあえて乗ってくる。凡人の考えなら、まず自分が得意な戦法で戦うことを考えるだろう。しかし彼は違う。相手の得意戦法で戦いそれを破らなければ本当に相手を打ち負かすことにはならずタイトルは獲得できないと考えているのだろう。乗り越えるべきものが何か、きっと分かっているのだ。穏やかな風貌の中のどこにそんな闘志があるのか、棋士を見ていていつも思うが、それがトップを走る者の考えなのだろう。
湯浅さんの話しからトップ棋士の戦いのスタイルを考えてひとつ気が付いたことがある。
強くなるということは、自分の弱さに向き合うことなのだと。このトシになって気が付いた。見たくないものを見ようとしない自分の弱さが分かった時、初めて向き合える。向き合うことで考え、困難を突破しようという勇気も出てくるのだ。湯浅さんはそんなことを様々なエピソードを交えて教えてくれた。

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